瞼が自然に開かれ、歪な視界が、徐々に本来の形を取り戻していく。真っ直ぐに目に飛び込んできたジェームズ・ディーンのポスターに、僕は思わず安堵する。お馴染みの赤いブルゾンではなく、大袈裟な肩パッドが入ったロングコートに両手を突っ込んだまま、雨に濡れた街を闊歩する写真が、父親のお気に入りらしい。端正でとびきり甘いマスクが、煙草を咥えながら歩く姿には男らしさが漂い、同性でも憧れの念を抱いてしまう。僕がこの家に来た時には、既に貼られていたから、この部屋は元々父親が使っていたのだろうか。しかし、態々ベッドの真上に貼るとは、余程彼に心酔していたのだろう。そんなことを思いながら、前方のドアに視線を向ける。先程から、まるで鉛のように重い身体を起こし、前方のドアを見つめる。先程から、コツコツと槌で何かを打ち付けるような音が聞こえている。

「遙、遅刻するぞ。早く降りてこい」どうやら僕は、軽快なリズムを掻き消すような鬱陶しい声に、起こされたようだ。

「分かってるよ」ぶっきらぼうにそう言うと、スリッパが床を擦る音の後に、階段を降りる足音が遠退いた。僕は、まだ鈍い思考回路を稼働させるために、頭を振り、上半身を起き上がらせた。身体が、鉛のように重かった。ベッドに置いた筈のスマホが、いつの間にか床に転がっており、手を伸ばして拾い上げると、自然に光を灯した画面が、午前七時の時刻を映し出した。その数字を見て、僕は大袈裟に溜息を吐いた。家を出るまで、まだ一時間以上ある。いつも、僕より先に家を出るか、僕より後に起床する父親が、その事実を把握していないのは当然だ。しかし、この時間に父親が起きていることは珍しい。何かあったのだろうか? まだ二度寝する猶予はあるが、一度起こしてしまった身体を横にするのも面倒に思えて、思い切ってベッドから立ち上がった。そのままふらふらと階段を降り、リビングの扉に手を掛けた時、肉の脂のような芳ばしい香りが漂い、憂鬱な気分が少し晴れた気がした。扉を押し開けると、奥のオープンキッチンには、血色の良い顔を覗かせる父親がいた。その姿に違和感を覚えたのは、フライパンを握っていることよりも、見慣れない花柄のエプロンを付けているからだと思った。

「何? そのエプロン?」

「可愛いだろ? 俺の奥さんのだよ」

「奥さん…?」その言葉を聞いて、僕は思い出した。まだ僕がこの家に来る前、父親の妻であった女性は、交通事故で亡くなったらしい。父親がその話をすることはなかったから、あえて僕から聞くこともなかった。そういえば、ずっと前に、興味本位で父親の部屋に忍び込んだことがあった。その時、机の引き出しの中に見つけた写真の中には、父親と、見慣れない女性と、小さい男の子が写っていた。あれは、家族写真だったのだろう。まだ幼かった僕には、その写真を見ても、特に疑問に思うことはなかったが、父親には愛する女性がいて、その女性との間には子供がいたのだ。その子供は、今は何をしているのだろう?

「それより、もっとしゃんとしろよ。何事も、始めが肝心だ。朝ご飯をしっかり食べれば、一日がより充実する」

「急にどうしたの? 気持ち悪いんだけど」人が変わったような台詞を唐突に口にする父親に、僕は唖然とした。父親は笑いながら、使い慣れていないフライ返しを掴み、明らかに焦げたベーコンと目玉焼きを皿に移そうと苦戦していた。僕はテレビから垂れ流されている朝の報道番組に一瞥をくれながら、皮張りのソファに深く腰を下ろした。木材を基調としたリビングに、堂々と構える本革ソファは父親のお気に入りだ。大分年季が入っているが、それが革に柔らかな質感と味わいを与え、妙に落ち着く。

「今日休み? 珍しいね、この時間に起きてるなんて」

「最近は働き詰めだったし。たまにはゆっくりした休日を謳歌しようと思ってな」

「ふーん」父親が何の仕事をしているかは知らない。ただ、よくリビングでパソコンと対峙し、何やら暗号めいた文章を打っている姿を目にすることがある。以前、徹夜していた時にその姿を見かけ、珈琲を淹れてあげた時に、論文を書いていると言っていたから、そういう仕事なのだろうと思っていた。

 柔らかいソフアに座ると、いつも眠くなってしまう。窓から差し込む日差しが心地良く、自然に瞼を閉ざす。気持ちの良い天気だ。今日は、雨は降らないだろう。最近雨の頻度が高いから、少し心配していた。今日はサッカーの授業があるから、雨だけは降ってほしくなかった。球技はあまり得意ではないが、保健の授業を受けるよりかはましだ。非遮光性のレースカーテンを通過した日光に心地良さを感じていると、不意に、以前受けた保健の授業のことを思い出した。確か、中学生の頃の記憶だった。

 梅雨の時期、鬱陶しく続く雨のせいで、予定されていた体育の授業は、連日保健の授業に変わっていた。ジャージのまま教室に戻された僕達は、気怠そうにロッカーから保健の教科書を取り出して、各々の席に着く。ロッカーの匂いが染み付いた教科書の砂埃を払いながら、指定されたページを開くと、裸体の男女のイラストが描かれていた。想像もしなかったイラストに、クラスの男子は鼻を広げ、女子達はあからさまに興奮する男子達を冷ややかな目で見つめていた。授業内容は、思春期の変化についてだった。第二次性徴期の身体的変化について淡々と語る体育教師の話を熱心に聞く生徒の様子は、普段の授業とはまるで逆だと思った。しかし、内容が第二次性徴期の精神的変化に移行した時には、急速に教室の熱が冷めていくのを感じて、まるでyの放物線のようだと思った。教師の話など誰も聞いていないような空気感の中で、僕はその内容に、少なからず興味を覚えた。「思春期には、青年は自らのアイデンティティを確立しようとして、それまで自分の道標であった親を遠ざけるようになる」親指と人差し指で鼻根を抑えながら、体育教師は言った。利き手で抑えるものだから、触れた部分にチョークの粉が付き、密やかにお喋りをしていた女子が、それを見てクスッと笑った。しかし、最前列で綺麗に畳まれた教科書の上に眠りこける男子にも注意しない教師は、自らの失態に気付くこともなく、欠伸を隠すために執拗に鼻根を抑え続けていた。もはや、狭い教室に拘束された誰もが、確かに流れる時間が、少しでも速くなるものかという淡い期待を抱いていることは明白だった。沈殿した教室の重い空気を感じながら、果たして僕は、自己主張のために親に対して自暴自棄になる時期が来るのだろうかと疑問に思った。自己主張したいという願望があるにも関わらず、他者とのずれを極度に気にするために、それを抑制してしまうという思春期の心理には共感できる。しかし、僕には自己主張したいという欲求がないわけはないが、親を突き放してまでも主張するほどの価値も、意欲も持っていないのだろうと思った。

 瞼を開けると、様々な色を映し出すテレビが見えた。混同しながら、次々にその配置が変わるブラウン管に焦点を合わせようとしていると、不意に、目の前に筋肉質の腕が現れた。まるで朝顔の蔓のような太い血管を巻き付けた腕は香ばしい匂いを纏い、肉厚なベーコンと目玉焼きが乗せられた皿をテーブルに置いた。鼻腔内に侵入する胡麻油と肉汁の芳香に睡魔を吸収されたせいか、澄んだ空気中を移動して、粛々と話す男性アナウンサーの声が、音声信号として僕の中に流れ込んできた。


 …ここで、先週発生した新宿大学生殺人事件について、新たに発覚された事実をお伝えします。この事件は、十六日午前六時、東京都新宿区にて男性の遺体が発見されたことで発覚しました。被害者は都内の大学に通う成瀬加純(カズミ)さん二十二歳。遺体発見現場は新宿駅東口から五十メートルほど離れた路地裏で、凶器は刃渡り十二センチの果物ナイフと見られています。胸部に刺された傷は心臓にまで達しており、死因はそれによる失血死でした。警察は殺人事件として捜査に当たっていましたが、未だ犯人逮捕には至っていません。ここで、犯人に関する新たな目撃証言が入ったようです。これは、十五日の深夜に現場近くを通り掛かった通行人の方からの証言で…

                      

 心地良い気分の中に突如として侵入してくる重苦しいニュースは、微かに残る睡魔により完全には理解できず、僕はただ、驚くほど滑らかな滑舌に感心を覚えるだけだった。

「久々の休日に、優雅なひと時を味わおうとしたのに。世の殺人鬼は、そんな馬車馬の願いなど汲んでくれないらしい」声のする方を見ると、いつの間にか、父親は僕が座るソファの端に深々と腰掛け、湯気の立つ珈琲を啜っている。大きな欠伸をした後であることは、目尻に溜まる水滴を見れば明らかだ。

「せっかくの休みなら、まだ寝てればいいのに」そんなことを言いつつもテレビ画面を凝視する父親に呟きながら、用意された箸でベーコンを半分に切り、片方を口に放り込んだ。脂身が多い部分を選んだせいか、溢れるほどの肉汁が舌に絡まる。若干潰れている目玉焼きに箸を入れると、半熟の黄身が溢れ、ベーコンに重なる。それらを一緒に口に含むと、とろりとしたまろやかな黄身が肉汁を包み、香ばしい味わいが広がる。若者の生命が奪われるという悲痛な殺人事件とか、料理をしない父親が朝食を振る舞っている違和感とか、腰に巻いた花柄のエプロンに対する興味とか、強引に起こされた苛つきなどが、どうでも良く思えた。

「ご馳走さま」次のニュースに移った番組を尚も見ている父親を残して、僕は立ち上がった。

「皿は流し台に置いといて。後で洗うから」

「うん」早くも二杯目の珈琲を啜る父親を残し、自分の部屋へ向かった。いつもは食べない朝食を食べたせいか、少し気持ち悪くなり、階段を上るだけで息が切れた。部屋に戻ると、そのまま倒れ込むようにベッドに横になった。どこか落ち着かない。身体は重怠く、動かすのも面倒に感じるのに、胸がざわざわと犇めいているような感覚。それは、あのニュースを見たからだろう。僕は、興奮しているのだろうか。あの日、あの瞬間を見た時から、僕は興奮していた。生活は全く変わらない。しかし、あの人が口にした言葉を、鮮明に覚えている。そして、それが僕に活力を与えていることは確かだと思った。僕は枕元に置きっ放しにしていたスマホに手を伸ばし、音楽アプリを開いた。停止中になっていた曲を再生すると、単調なピアノの音が弾くように流れ、短い息継ぎの後に、透き通るような声が、リズムに合わせて流れてくる。僕の、お気に入りの曲だ。正確には、最近になって再燃したと言った方が適切だろう。その曲は、世間体からずれた自分を肯定するような、そして自分を避難する人々を罵倒するような、敵対心や憎悪、歓喜などの感情が狂ったように綯交ぜになっているような激しさがあった。そして、おどろおどろしい世界観を奏でる歌声が、あまりにも美しかったことが、僕に緩やかな衝撃を与え、強く引き寄せられたのだと思う。        

 自分は周りとは違う。間違っているのは自分以外の奴らだ。もう僕に構わないでくれ。僕は、僕の生きたいように生きるんだ。僕の幸せを勝手に決めつけないでくれ。僕の価値観は僕のものでしかないんだ。僕の幸せは、僕だけが決められるんだ。まるでそんなふうにして、自分を特別視して、自分の内に秘められた能力を過信して、周りの人々を見下し、自分だけが雛壇にいるような優越感を作り出して、笑みを漏らしているような人間が思い浮かぶ。何が、周りとは違うだ。何が、自分は天才的なセンスを持っているだ。自分だけは世間に洗脳されまいと威張っているが、そんなことは既に知っていて、あえて洗脳されているように振る舞い、上手く世間に溶け込んでいるのだとしたら、洗脳されまいと頑なに足を踏ん張っている僕は、ただ幼稚なだけなのだろうか。見事に洗脳されている世間を嘲笑っているが、それが、ただ自分に酔い痴れているだけなのだろうか。不意に、疑問に思った。果たして、洗脳されているのは、どちらなのだろうか? もしかしたら、僕の方こそ、洗脳されているのかもしれない。

 無意識に、指で前髪をかき上げながら、掌を額に被せた。何となく熱い気がする。身体が怠いのは、そのせいだろうか。それとも、元々これくらいの温度なのだろうか。基準が分からないのでは比べようが無い。僕はゆっくりと息を吐き、静かに瞼を閉じた。

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