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 人は誰しもが完璧ではない、そう思っているのは僕だけだろうか。いつからか、掃除をすることも、お風呂に入ることも、食事を摂ることすらも、煩わしいと感じるようになった。好きだった映画も、暇さえあれば読んでいた小説も、趣味と言えるほどの興味を示さなくなった。自分の変化に、気付いていた。どうしたのだろう? そう思ったが、何となく察しが付いていたのも事実だった。この世界を生きていく上での楽しみ方が分からない。朝起きるのがつらい。学校に行かなければならない。友人達が、何をそんなに楽しそうに騒いでいるのか理解ができない。理由もなく落ち込む。帰ってきても、何もする気にもならない。父親が作った夕食を食べる。味がしない。美味しいとも感じない。時々、ラーメン屋に足を伸ばして外食気分を味わう。時々、友人達の集まりに参加してお酒を飲む。そのままお酒に呑まれて、何もかも忘れてしまいたいと、何度願ったことだろうか。身体が崩壊するまでアルコールを流し込み、平衡感覚を失い、思考回路も鈍くなり、記憶も定かではなくなり、そのまま意識を手放せたら、ほんの一時でも、僕が僕であることを忘れられたら、どれほど幸せなのだろうか。いつも、そんなことを思う。しかし、たった一杯のビールが、たった二十グラムのアルコールが、肝臓で分解されたアセトアルデヒドが、僕の嘔吐中枢を刺激する。アルコールが血流に乗った途端に、僕の中にいる細胞が騒ぎ出す。アルコールの快感を味わう前に、身体の防衛反応が働き、希望を込めて流し込んだアルコールを、全て吐き出してしまう。何故、酔わせてくれないのだろう。忘れたいのに、全てを、忘れたいのに。僕の身体は、僕の願いを理解することもなく、自らの生命維持機能を果たすために、正常の状態を保とうとする。紅潮して滑舌が回らなくなった大学生やサラリーマンが、高々に歌いながら、肩を組みながら千鳥足で歩いていく。そんな賑やかな姿を、いつも、羨ましく思っていた。僕もあんなふうになれたら、そう思うとつらくなった。生きるって、何なのだろう? 人生を楽しく生きろって、どうやって? 確実に死に向かっていく道中を、楽しみながら歩けたら、どれほど幸せなのだろうか。

 「病んでるの?」時々、冗談混じりにそう聞かれることがある。その言葉を聞く度に、僕は胸が締め付けられるような息苦しさを感じた。悪意は決してない。ただの純粋な質問。分かっているのに、そんなことは分かっているのに、何故こんなにも、苦しいのだろう。幾層にも張った心のガードは、少しずつ、少しずつ傷付けられて、内皮細胞の機能を失った血管のように、僕の心は硬化していく。どんなに鋭い矢が飛んできても、幾千の小さな縫針が刺入してきても、僕の心が崩壊しないように、僕の無意識下で、膜を破られた心が再び膜を形成するように、厚く、厚く、肥厚していく。これ以上、傷付かなくても良いように、これ以上、傷付きたくないから、身を守る術として、鋼の如く心を研磨する。そうするうちに、いつからか、悲しみ以外の感情の閾値も上昇してしまったのだろうか。喜び、怒り、哀しみ、楽しみ。人間の基本の感情ともいえる喜怒哀楽が、僕の中から消え失せているように感じる。お願いだから、そんなこと言わないでほしい。病むという意味を分かっていながらも、そんな気持ちになったことがないのだろうか。もしそうだとしたら、それは、何よりも耐え難いくらいに幸せなことなのではないかと思う。まるで泥沼のような道を、まるで陸上競技場のタータンであるかのように走れたら、どれほど幸せなのだろうか。


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