僕は昔から、人付き合いというものが苦手だった。僕には他者の考えていることが分からなかったし、何を考えているのか興味を持つこともなかった。だから、友人達が楽しそうに会話しているのを見ても、何がそんなに楽しいのだろうと思っていた。僕には、会話をすることの意味が、その概念がよく分からなかった。そのせいか、友人達にはよく仲間はずれにされたし、まるで空気のように扱われることもあった。僕はその度に傷付き、彼等の態度の変化に一喜一憂し、疲弊していた。

 僕が通っていた小学校の目の前には、大きな国道が通っていて、幼い僕達は歩道橋を渡るように指導されていた。放課後の帰り道、その歩道橋を渡るといつも、胸が締め付けられるような苦しさを感じて、泣きそうになった。そんな時、僕は背伸びをして、歩道橋の真下を通る自動車を眺めることにしていた。そうしていると、何だか心が楽になるような気がしたから。緩やかに流れる自動車の群れを眺めていると「ここから落ちたらどうなるのだろう?」という疑問が、漠然と頭を過ることがあった。これが「辛い」という感情なのだと、授業で「辛」という漢字を習った時に思った。これが「死にたい」という気持ちなのだと、小児癌の少年が病を克服しようと奮闘する小説に出てきた「希死念慮」という言葉の意味を調べた時に思った。

 僕は、僕の側から友人達が完全に離れてしまうことを恐れ、彼等と同じような自分を演じていた。同じように笑い、同じように怒り、同じように驚き、まるで全ての感情を共感しているかのように、彼等の表情や仕草を真似ることに必死だった。

 友人達の会話の輪に入っていると、よく誰かのことを笑ったり、蔑んだりすることがあった。それは決まって、そこにいない誰かのことで、僕は最初、何故本人がいないところで話すのだろうと不思議に思っていた。その人に直接言わなければ、何の解決にもならないのにと疑問に感じながら、僕はただ頷いていた。しかし、友人達は解決することを意図として話しているのではなく、それを共有する仲間と一体感を得られることが心地良いだけなのだと、ある日気付いた。そして、その材料が誰かの非であることが、どうやら都合が良いだけなのだ。彼等は、誰かを悪者にすることで、まるで自分たちが善人になったかのような優越感を味わい、悦に入りたいだけで、それは恐らく、彼等がまだ幼く、無垢が故に無意識に行う、残酷な仲間意識の形成方法なのだろう。そして、僕がいない時にも同じように、僕のことを笑っているのだろうと思ったら、僕は途端に不安になった。彼等から離れることが怖くなり、まるで別人のように見えた。だから僕は、その当時流行っていたナイキの靴やアディダスのキャップを母親に強請ったり、サッカーワールドカップやメジャーリーグの試合を見たりして、彼等の輪に何とか溶け込もうとしていた。

 不意に、思うことがあった。僕は一体何をしているのだろう。しかし、その時の僕にとって、彼等と過ごす世界が全てで、その世界から弾き出されないように、彼等と同じように演じることが、ここで僕が生きていくための術だと思っていた。

 






























 時々、僕は何かを求めるように夜の街を彷徨った。冷蔵庫には朝のうちに作ったであろう夜ご飯が用意されていたが、それには手を付けずに、僕は闇に紛れ込む。空腹の状態が、心地良いと感じるから。何も考えられないのは、空腹のせいで、足に力が入らずにふらふらするのは、低血糖のせいだと思えるから。雑踏が鬱陶しい昼間とは打って変わり、夜になると、それまで街を賑わせていた群衆はそれぞれの寝床へ吸収されて、街全体がひっそりと静まり返る。その対照的な空気感が、心地良かった。自動車のエンジン音や、酔っ払いの不規則な足音、ホテルへ向かうカップルの囁き声、大学生の付けるヘッドホンから漏れている激しめの音楽。静寂を彩る微かな雑音が、僕は限りなく好きだった。晦冥を照らす電燈の灯が星々を隠し、空を見上げても、霞んだ星空が見えるだけ。暗がりへ溶け込む僕の視界が闇に飲まれないのは、等間隔に立ち尽くす電燈が、僕の足元に暖かな灯を投げかけているから。弱々しく地面を照らすそれをぼんやりと眺めながら、僕は歩く。何を求めて、どこへ向かっているのか? そんなものは愚問であり、目的などなく彷徨っているのだ。僕が好きな夜の街を。時々、千鳥足で顔面を紅潮させた男が気持ち良さそうに、もしくは顔面蒼白の男が気持ち悪そうに歩いてくる。時々、つまらなそうに携帯電話を弄る派手めな女性を後部座席に乗せたセダンが、僕を追い越して走り去って行く。そして、それらが通り過ぎた後に残る静寂は、哀愁が漂い、何だか心が安らぐ。

 あの日、僕はいつも通り、何の目的もなく、静まり返った夜の街を歩いていた。

 不意に、僕は足を止めた。どこからか、何かが聞こえたような気がした。耳を澄ませても、もう何も聞こえない。当てもなく歩いていた僕は、その音が無性に気になった。音の聞こえた方を探して、大通りの路肩から伸びる階段を下る。電燈の灯が届かないそこは、漆黒の闇に包まれていて、僕は無意識に足を忍ばせて進んだ。小さな石ころを踏んだ音が暗闇に響き、僕の緊張感を高める。この先に、何か得体のしれないものが潜んでいるのではないかと思う。一体何が、僕を待ち受けているのだろう? 僕の鼓動は、次第に大きく高鳴り始める。空耳かもしれない声が、あるかも分からない何かを連想させて、期待が高まる。

 「うっ」先程聞いたような音が、今度はしっかりとした声となって聞こえた。人の声だ。こんなところで? 何をしているんだろう? 声の聞こえた方へと進むと、雑草が生い茂るトンネルが見えた。土管のようなトンネルの奥から差し込む電燈の灯が、暗闇に佇む男と、その足下に這いつくばる男を影のように映し出している。慎重に足を運びながら近付くと、二つの影に淡い色が灯った。二人の男は、少しずつ、トンネルの奥へと歩いていた。おや? そう思ったのは、その様がまるで犬の散歩のように見えたからだ。四つん這いで歩く男の方は、右足を負傷しているようで、その足を引き摺るようにして進んでいる。そして、傍らに立つ男は、その様子を見下ろしながら、ただ歩調を合わせて歩いている。冷えた空気が支配するトンネルには、四つん這いになる男が吐き出す荒い呼吸音だけが響く。軈て、男は力尽きたように、臀部と両手を地面に放り投げて、傍らに寄り添う男の方を振り返った。灯に照らされたその顔は、遠目だが僕より少し大人びただけの青年のように見えた。余程苦しいのか、青年は肩を大袈裟に動かして、必死に呼吸を繰り返している。恐怖。その感情が、青年の表情を強張らせているように見えた。そして、その感情が、青年の呼吸を更に乱れさせているように見えた。思わず、唾を飲み込んだ。これから、何が起こるのだろう? 微かな恐怖と、微かな期待に支配され、僕は青年から目を離せなくなっていた。よく見ると、青年が引き摺っていた方の大腿に、ナイフのようなものが刺さっていた。強引に動かしたためか、ナイフと肌の隙間からは、血液がどくどくと流れ、青年が辿ってきた道に点々と垂れている。不意に、それまで青年を見下ろしていただけの男が、何か囁いた。深く被ったフードに隠れているせいで、その口元は見えないが、男は青年を見下ろしながら、ゆっくりと語り掛けた。

 「胸に手を当ててごらん。聞こえるだろう? 心臓の鼓動が」男はそれだけ言うと、また青年の前にしゃがみ込んだ。青年は、男を凝視したまま動かない。その唇は震え、地面を掴む手も、震えていた。男は静かに息を吸い、語を紡いだ。

「君は今、生きているんだよ? ほら、目を瞑ってごらん。聞こえてくる筈だ。君の、心臓の鼓動が。君が生まれてから今まで、休むことなく動き続けてきた心臓だ。君の全身の細胞には、その律動的な収縮により生命の源が吹き込まれている。人間の身体というのは、熟、その神秘的な造形物に生かされていると思わないかい?」男の声色は優しく、穏やかだった。その時、青年の瞳から、涙がぽろんと零れ落ちた。希望と絶望が混同したような瞳から。電燈の光に反射して煌めくそれは、美しい曲線を描きながら、青白い頬を伝う。

 「君は、君の生命の肝ともいえる心臓が動いていることで、今、生きている。そうだろう? 僅か握りこぶしほどの小さな臓器が、我々の生命の根源なんだ。しかし、心臓はその小ささも然り、決して強くはない。僕が今、君の心臓をこのナイフで貫いたら、君の生命は至極簡単に絶たれるだろう。我々の生命というのは儚く脆い、それ故に尊い。さて、君は、刹那的ともいえる、限りある生命の尊さに気付いているかい? 生きているということを、限りなく実感することができているかい? 巡り巡って授かった生命を、心を込めて生きることができているかい?」ゆっくりと語る男は、そう言って深い息を吸い、吐き出した。

 「僕はね、与えられた生命を、その限りまで生き抜くことに、必要性を感じていないんだ。生きることにおいて大切なのは、時間じゃない。密度だと、僕は思うんだ。だから、どこまでも貪欲に生き続けることは、愚行にしか見えない。僕はね、ただ純粋に、生きていることを、偶然に与えられた『生』そのものを、その歓喜を、その悲哀を、雷鳴の如く痛感することが、今を生きる我々の宿命だと思うんだ 」男の声は、芯が通ったような力強さの中に、どこか寂しげな雰囲気を纏っていた。

 「…生きたいかい?」最後に、男はそう付け加えた。青年は、暫し呆然としていたが、軈て一心不乱に、首を縦に動かした。

 「…はい…はい、はい! もちろんです…生きたいです生きたいです、生きたいです!! …死にたくないです……助けて……助けてください…」遮二無二首を動かして懇願する青年を前に、小さく息を吐いた。そして、青年の頰を優しく撫で、その目尻に溜まる涙を、人差し指で掬い上げた。その瞬間、青年の拘縮した表情筋が溶け、緊張感から解放されたかのように柔らかくなった。その表情を見た男は、青年の耳元に近付き、何かを呟いた。そして、重く鈍い呻き声が聞こえた。トンネルの中で重なり合う影に、青白い青年の顔が見えた。どこか遠くを見つめるような、焦点の定まらない瞳に涙が溢れている。必死に歯を食い縛るその顔が、醜く歪む。引き笑いのような、ウシガエルの鳴き声のような、気味の悪い呻き声が聞こえる。まるで時間が止まったかのように静止する影を、僕は激しく打ち付ける鼓動を感じながら、見つめていた。

 先に動いたのは、男の方だった。男は俯きながら、静止したままの青年をトンネルに寄り掛からせた。男は青年の手首にそっと触れ、力強く開かれたままの瞳に手を重ねた。その意味を理解した時、僕は、僕の中に確固として存在していた渇欲が満たされたような、充足感を覚えた。何だろう? この心地良さは? 今までに感じたことのない感覚に、僕は困惑した。静かに立ち上がった男は、そのままトンネルの奥へ向かって歩き出した。革靴がアスファルトを踏み締める音が静寂に響き、軈て男の姿と共に消えた。男の残像を眺めながら、僕は先程の出来事を想起した。何が、起こったんだ? いや、何が行われたのか、理解している。気が付くと、僕は、衝動的に青年の元に駆け寄っていた。目の前に、力なく首を垂れる青年がいる。ぴくりとも動かない青年を見て、思わず唾を飲み込んだ。その頬に手を伸ばし、乾いた涙の跡に触れる。ひやり…温かい皮膚に青年の温もりを感じ、肩が震えた。瞼を閉じ、半口を開けたままの青年は、やはり僕と変わらない年のように見えた。今にも穏やかな寝息が聞こえてきそうなその姿は、まるで居眠りをしている授業中の学生のようだと思った。

 ぽとり。不意に、冷たい感触を感じた。大腿部を見ると、黒い染みが付いていた。青年の睫毛に絡まる涙が、零れ落ちたのだろう。血の気が引いた頬に散ら付く涙が、きらきらと輝いて見え、僕は思わずそれに触れた。指先に感じる青年の体温が、先程よりも微かに冷たくなっていることに気付き、その死を、実感する。不意に、何だか芳ばしい香りを感じた。懐かしいような、不思議な香り。どこかで嗅いだことのあるような香りだが、思い出すことはできなくて、もどかしい。視線を落とすと、青年の大腿から、血液が流れていた。それはまるで、青年を生かしていた血液が、その業務を放棄したように見えた。いや、正確には、もう業務を遂行する必要が無くなったという方が合っているのかもしれない。地面に落下した血液は、アスファルトの隙間を縫い奥へ吸収され、そこから漂う鉄の香りが、非凡な刺激臭として、僕の脳内を擽る。

 不意に、どこからか酔い痴れた男女の話し声が聞こえて、僕は反射的に青年から離れた。そして、急いで来た道を引き返した。脳裏には、先程見た青年の姿が鮮明に張り付いている。蹌踉めきながら階段を駆け上がると、身を寄せ合いながらこちらへ近付いてくる男女の姿が見えた。唇を絡ませながら器用に歩く男女は、僕の存在になど気付いていないように、二人だけの世界を醸し出している。その瞬間、僕は急に息苦しさを感じて、胸を押さえた。それは、走ったことで血液中の酸素濃度が低下したからではなく、熱い抱擁を交わしながら重なる男女の心臓部分を見て、興奮の冷め切らない僕の身体が、激しく反応したからだと思う。


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