12:友香 ※

 ※ちょっと痛いですが、結構重要な回だったりもします。苦手な方すみません。


「――――っ」

 バシャッと、顔にかけられた水の冷たさに、飛びかけていた意識が無理やりに引き戻された。

「寝ていいなんて、誰が言った?」

「……」

 顎をグッと捕まれ、吐息のかかる距離に顔を近づけられて、私は渾身の気力を振り絞ってギイを睨み付けた。

「へえ、まだそんな気力が残ってんのか」

 面白そうにそう呟いたかと思うと、次の瞬間、左の頬がバンッと鈍い音を立てる。

「生意気なツラすんじゃねえよ」

「……」

 手加減なしに叩かれて、頬の辺りがズキズキと痛んでいる――筈だけど、既に全身の至る所が悲鳴を上げているせいで、それほど強い痛みは感じなかった。


 ――痛覚も麻痺し始めたみたい。まずいな……


 霞のかかった頭が、ぼんやりとそんなことを考える。痛覚は最後の防衛ラインだって、前に教官が言ってた。痛みを感じなくなったら、死が近いって。


 ――私、死ぬのかな


 死ぬのはやだな。まだ公安長選抜も残ってるし、兄さんも見つけてない。父さんやアレクやロンやハルに、ありがとうも言ってない。

 もう自分が何を考えているのかすら、よくわからない。さっき覚醒した意識が、再びふわぁと遠ざかっていく。

「起・き・ろ」

 軽く仰向いた顔に、もう一度、正面から水を掛けられて、気管に大量の水が入り込む。ゲホゲホッと、肺が痛くなるほど激しく咳む私を、ギイが嗤った。


 ――寒い

 痛みは感じないのに、寒さだけは奇妙なほどにはっきりとわかった。

 ただでさえ冷え切った石牢の中。何度も水を浴びせられた身体は冷え切っていて、身体に貼り付いた服が、そこからさらに体温を奪っていく。どんなに頑張っても、ガチガチと大きな音を立てる顎は止まらない。

「そろそろ、話したらどうだ? 話せば楽になるぜ」

「……話す事、なんて、ない、わ」

 たったそれだけのセンテンスを口にするのが、何て辛いんだろう。けど、ギイに対する反発心だけが、かろうじて私の意識を保たせていた。

「温かい風呂に入りたくねえか? ベッドで眠らせてやってもいいんだぜ?」

「そのため、に、あなた……なんかに、媚、売るなんて……冗談、じゃ、ないわね」

 ギイの言葉は、悪魔の誘惑のように甘く魅力的な香りがしたけれど、ぐらつきかけた理性を必死に留めて、私は言った。


 刹那。

「――テメエ!」

 ブン、と拳の鳴る音が耳を撃つ。さっきの比じゃない力に、拘束された腕がギシリと軋んだ。でもそのおかげで、意識が少しはっきりしてきたみたいだ。

 霞む視界を何とか調節しながら、私は周囲の様子を窺う。

 私の尋問に励んでいるのはギイだけで、他の監察候補生は見張りよろしく部屋の入り口を固めている。時々顔ぶれが変わるから、多分数時間おきに交替してるんだろう。

 ――今、何時なんだろう

 水も食事も睡眠も与えられないまま、知りもしない兄の行方を話すように強制され続けて、もうどれくらい経ったんだろう。身体の感覚は、まだ丸一日は経過していないと告げているけど、薄暗い部屋の中ではそれすら心許ない。

 ――誰か、気付いてくれたかな

 ロンたちとの約束の時間はとっくに過ぎているから、きっと彼らに心配をかけてしまってる。


 ――きっと、気付いてくれてるよね


 きっと、また会える。

 次に会ったら、いっぱい心配かけたことを謝って、それから――


「――聞いてンのか!?」

「…………ッ!」

 鳩尾に一発、膝が入る。グゥッと嫌な音を立てて、空気が口から飛び出した。

「それとも……これを使わなきゃ、何も喋れないってか?」

「――――っ」

 苛立ちも露わに、ギイが右手に掴んだものを見て、私の喉が小さく鳴った。

 相手に屈する気なんてこれっぽっちもないのに、本能的な恐怖を押さえられない。

 私が震えたのがわかったのだろう。ギイがそれ――あの、鞭――を持ち上げて、満足そうな笑みを浮かべた。

「――怖いんだろ?」

 これ見よがしに鞭をちらつかせながら、ギイはにやにやと笑う。

「話さねえと、そろそろまたこれを使うことになるぜ?」

「……何をされても……知らない、ものは……話せない。そっちこそ……何度言えば、解るの?」

「――へえ?」

「…………ッ!!」

 私の答えに、冷酷な微笑を浮かべたかと思うと、ギイは勢い良く鞭を振り下ろした。

 固まりかけていた傷が再び開く痛みに、一瞬、意識が遠ざかる。ギイはそんな私に構わず、二度三度と立て続けに鞭を打ち下ろす。

「……く…………ゥあ……ッ」

 ぎり、と軋むほどに奥歯を噛みしめても、漏れる苦鳴を殺すことはできなかった。痛みと苦痛のせいで、涙がボロボロと零れていく。

 ようやくギイが手を止めた頃には、痛み以外は何ひとつ、感じることができなくなっていた。麻痺していたはずの痛覚が、一気に目を醒ましたみたいだった。

「なあ、中山。そろそろ話せよ。外に出たいだろ?」


 ――何を今更……


 激痛が思考の大半を占拠していたけれど、ギイの言葉が真っ赤な嘘だということくらいはわかる。

 こんな風に無理やり浚って拷問までしておいて、彼らが私を生きて外に出すことなんてありえない。万が一、命だけは助かったとしても、この地下牢か、下手したらランディスやギイの私邸で飼い殺しにされるのが関の山だ。


 ――そんなのは、絶対に嫌


「帰す、気、なんて……ない、くせに。よく……言うわね」

「……」

 返事の代わりとでもいうように、鞭のひと振りが肌を裂く。

「助けてやったっていいんだぜ? お前が俺の言うことを聞くってんならな」

 どうだ? と鞭の先で私の顎を持ち上げ、ギイが顔を寄せる。

 ランディス程ではないけれど、同じ雰囲気を漂わせる濁った瞳に、激痛すら押しのけて、嫌悪感が沸き上がる。痛みに歪んだ顔面を必死に動かして、私は冷笑した。

「馬鹿じゃ……ない、の? あなたの、言いなりに……なる、くらいなら、死んだ方が……マシよ」

「――ッ! なら、死ねよ!」

 激昂したギイが、これまでにない勢いで鞭をふるう。そのまま続けざまに打ち据えられて、痛みが全てを塗りつぶしていく。


 ――ああ、これはほんとに死ぬなぁ、私


 まだ余裕があったのかと驚く程、頭のどこかで冷静にそんなことを思っている自分がいる。激痛が全身の感覚を覆い尽くし――――どこかで限界を通り超したのだろう、もはや何も感じない。

 けれど、不思議に気持ちは穏やかだった。

 もう、どれくらい打たれたんだろう。後どれくらい打たれたら、私は死ぬんだろう。そんなことをぼんやりと思っていた、その時。不意に、廊下の方から大きなざわめきが聞こえてきた。


「お待ちください! そちらは――」


 石の回廊に響く声は、ランディスだろうか。それとも他の誰かだろうか。慌てふためき、狼狽もあらわなその声に、怒りに我を忘れていたギイすら、手を止めて振り返る。

「――?」

 カツカツと、石に踵を刻む音。

 そして。次の瞬間。


「――これは酷い」


 静かな声とともに、ふたつの人影が入口の見張りを押しのけて現れた。

 ――誰……?

 逆光になっているわけでもないのに、相手の顔が見えない。ああ、目が霞んでるんだ、と、頭の隅でぼんやりと思った。

「拷問はとうに廃したと思っていたが」

 ――誰の、声?

 伯父様の声に似てるけど、忙しいはずの伯父――指揮官が、こんな所に来るはずがない。

 それじゃ――あの人は誰?

 上手く回らない頭で不思議に思っていると、もうひとつの人影が私を呼んだ。

「――友香!」

 そう言って、こちらに駆けてくる。猛烈な勢いで、なのに何故か、ギイも他の監察候補生達も棒立ちになったまま、ぴくりとも動かなかった。

「友香! 生きてるか!?」

 壁の隅に掛けてあった錠をひったくり、私の手足から枷を外しながら、彼は何度も私を呼ぶ。


 ――この、声……


 もう耳は音をほとんど拾えなくなっていて、思考能力も働かなくなっていた。だから、私が声の主を理解できたのは、ほとんど奇跡に近かったと思う。

「…………あ……アレ、ク?」

「――」

 その声に、彼がほっと息を吐いた。そっと、労るように抱きしめられる。

 ――これは、夢?

 生きている内に助けが来るなんてこと、もうほとんど諦めてたのに。

「夢でも、いいや……」

「友香?」

 声に出したつもりすらない呟きを拾って、アレクが心配そうに私を覗き込む。

「夢じゃない。だから――死ぬな」

 必死の面もちで、アレクはそう繰り返していたけれど、私には、もうそれを理解するだけの力も残っていなかった。ただ、夢でも良いから彼を安心させようと思った、そのことだけは覚えている。

「指揮官。次期指揮官まで……なんで」

 その時ようやく、ぽつりとギイがそう呟くのが聞こえ――、そして私は、意識を手放した。

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