8:ロン

 あれは、二年くらい前のことだ。

 訓練棟の中庭をぶらついていた俺は、すぐ脇の茂みから漏れ聞こえる声に、ふと顔を上げた。

「――」

 声はふたつ。片方が男でもう一方が女の声だ。

 休日の午後ともなれば、相手のいる連中は大抵どこかにくりだしているものだが、こんな風に中庭辺りでぼんやりしている奴らも少なくはない。特に関心を抱くこともなく、俺はそのままその場を通り過ぎようと足を早めた。

 だがその時。

「――でも、誰かに見られたら……」

 ――ん?

 俺の足が止まったのは、断じてその秘密めいた言葉の内容が気になったからじゃない。聞こえてきたその声が、よく知った相手の声だったからだ。

 ――友香?

「俺は気にしないけどな」

「でも……」

 苦笑混じりの男の声に応じた女の声は、間違いなく友香の声だ。

 ――ちょっと待てよ、おい

 声の主を特定した途端、さっきの台詞の内容を思い出して、俺は青ざめる。

「誰かに見られたところで、お前との関係は変わらない。だろ?」

「それはそうだけど……」

 ――…………クソ、気になる

 意味深な会話の内容を聞かなかったことにして通り過ぎることがどうしてもできず、俺はそっと気配を殺して声のする方に近づいた。


 身を屈め、灌木の隙間から覗いた視線の先には、見慣れた栗色の頭の少女と、その向かいに立つ長身の少年がいた。

「――――っ!?」

 ――次期指揮官……!?

 驚きのあまり、声を発しかけた口元を押さえ、俺は二人を凝視する。

「まあ……お前の気持ちもわかるがな」

 俯く友香に、次期指揮官は溜息を吐き、そう言った。

 前に一度だけ出会ったときよりも穏やかでくつろいだ雰囲気と、二人の間に流れる親しい者同士特有の空気感が胸を突く。

 そういえば以前、彼が友香を助ける場面に出くわしたことがあるが、あの時には既に、二人は知り合いだったのだろうか。思わぬ展開に、頭の中が真っ白に塗りつぶされた。だがそれでも、目と耳は変わらず状況を拾い続ける。

「でも、従妹と擦れ違ったのに挨拶もしないなんて、却って不自然だと俺は思うわけだ」

 ――…………イトコ?

 その時の俺は多分、これ以上ないほど間抜けな顔をしていたと思う。

 ――イトコってあれだよな、親の兄弟の……って、え?

 わざわざ当たり前のことを確認し、ついでに自分の従兄弟達の顔まで思い浮かべてから、俺は呆然と茂みの向こうの二人に視線を送った。

「そうかもしれないけど……」

「お前の悪いところは、自分を過小評価しすぎるところだな」

 苦笑混じりにそう言うと、次期指揮官はくしゃりと友香の頭を撫でた。

「もう少し自信を持て。今ならもう、お前のことをとやかく言う連中もそう多くないだろう?」

「……うん、そうだね」

 彼の言葉を噛みしめるように、友香は小さく頷き、やがてゆっくりと微笑んだ。

「ありがとう、アレク」

「ああ――ところで、そろそろいつもの練習の時間じゃないのか?」

「あ、そうだった!」

 と大きく頷くと、友香は笑顔で次期指揮官を見上げた。

「じゃあね!」

 軽く手を振ると、彼女はぱっと踵を返して軽やかに走り去っていく。俺は、遠ざかるその背を視認できなくなるまで見送っていた。

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