7:ロン

 翌朝。

「来ないね、友香ちゃん」

 約束の時間になっても、友香は一向に姿を見せなかった。時間に几帳面な彼女らしくない遅刻に、忘れていた昨夜の不安が再び頭をもたげる。

「一度、部屋を見に――」

 と、俺が言いかけたその時。

「――あれ、ハルにロン」

 背後から聞こえた声に、俺達は振り返った。

「ああ、ショーンか」

 よお、と軽く手を挙げたのは、同じ公安組のショーン・リンゼイだ。いつものようにせかせかと、落ち着かない歩き方でこちらにやってくる。

「お前ら、残ったって?」

 傍に来るや、声を潜めて、奴はそう訊ねた。

「何で知ってるの?」

 余計なごたごたを避けるため、最終選考に残ったメンバーは発表されていないはずだ――まあ、休暇に向けた荷物のまとめ方や本人達の雰囲気で、何となくは分かるモンだけど。

「んー…………まあ、何となくな」

 かり、と顎の辺りをひっかきながら、ショーンは言葉を濁す。何か、引っかかる物言いだな。ちらりと視線を挙げると、ハルも少し釈然としない表情を浮かべていた。

「それはそうと、ショーン、友香ちゃん見なかった?」

 だがまあ、バレてるものは仕方ない。その件はさらっと流すことにして、ハルが目下の問題に話を向ける。

「あー……中山?」

 ――ん?

 その瞬間、何となくショーンの肩がぴくりと動いたような気がしたんだが、気のせいだろうか。

「中山なら……あ、そうだ悪い! お前らに伝言頼まれてたんだった!」

 ぽん、と「今思い出しました」と言わんばかりに手を打ち、大声を上げて、奴は俺達を代わる代わる眺めた。

 ――何か、演技くせえ……

 忙しない動きにしろ言動にしろ、普段から少し嘘臭い奴ではあるが、今日のはいつにも増して嘘臭い。こいつは何か隠してると、勘が囁く。

 俺がそんな風に感じているとも知らず、ショーンは早口で続けた。

「昨日の夕方だけどさ、親父さんが急病だとかで、急いで帰らなきゃって慌ててたぜ」

「……マジか?」

「おう、マジマジ――っと、やべ、そろそろ俺も帰んなきゃなんねえんだ。じゃ、伝えんの遅くなって悪かったな」

 驚く俺達に、ショーンはそう告げると、忙しなく――妙に急いだ様子で寮の方角へ立ち去っていく。

「――ロン、どう思う?」

 その背中を見送りながら、低い声でハルが囁いた。

「何か、怪しくない?」

「……ハルもそう思うか?」

「思うね」

 ハルの答えに、躊躇はない。

「ショーンが忙しないのも、いちいち嘘臭いのもいつものことだけどさ」

 軽く腕を組み、奴は続ける。

「でも、さっきのは絶対に嘘だよ」

「根拠は」

「――僕らに何も言わずに帰るなんてこと、あの子にはできない」

「……俺も、そう思う」

 兄の失踪という過去を持つせいで、友香は周りの誰かが前触れなく姿を消すことを極端に恐れている。同じように、彼女自身も誰かに心配を掛けないよう、外出するときには細心の注意を払っていることを、俺達は知っている。

 だからこそ、ショーンの発言にすんなり納得することはできない。今日、一緒に外出する約束をしていた以上、自分が現れなければ俺達が心配することは子供だって予測できる。だから俺達に直接告げず、伝言なんて不確かな手段に頼るなんてこと、友香にはできない。

「まあ、お父さんが倒れたってのが本当なら、それどころじゃなかったのかもしれないけど」

「いや、それならなおさら一言言いに来るだろ」

 友香の部屋から外に出る時には、必ず俺達の部屋の前を通る。ショーンに伝言を残すくらいなら、俺たちの部屋に顔を出すはずだ。まして昨日なら、俺達が部屋で掃除をしていることを、彼女は知っていたんだから。

「……で、どうする?」

 囁くハルに、俺は唸りながら壁に凭れた。

 俺達の関知しないところで、何か重大なことが起こっている。そんな気がする。今や、背筋を虫が這い回るような昨日の悪寒が、再び存在を主張し始めていた。

「……とりあえず、親父さんのことが本当かどうか、確認しなきゃな」

「どうやって? 彼女の家の場所も連絡先も知らないのに」

 低い声で呟いた俺に、ハルが訊ねる。

「それは、俺に心当たりがあるにはある……けどよ」

 歯切れが悪くなったのは、その心当たりの居場所を知らないからだ。

「その前に、もう一度部屋に行ってみない?」

「だな」

 そうして俺達は友香の部屋に向かった。しかし昨夜と同じく、閉じたドアの向こうからは人の気配ひとつ漂っては来ない。

「……いないね」

「ああ――?」

 頷いた視界の隅に、何かが映る。ドアの下からほんの少しだけ、何かがはみだしていた。

 上体を折って拾い上げると、それは二つ折りにされた紙だった。

「……何だ、これ」

「え……」

 紙を開いた俺達は、同時に言葉を失った。

 中には、見覚えのある友香の筆跡で、文章が綴られていた。


 自分がこれまで皆を騙していたこと。

 失踪した兄とは今でも連絡を取り合っていて、色々な情報を外に流していたこと――もう二度と、ここには戻ってこないこと。


 とても信じられない言葉ばかりが、そこには綴られていた。その最後には、俺達に宛てた謝罪の言葉。

 ――嘘だ、こんなの

 俺の知っている友香が、こんなことをするはずがない。そう思うのに、よく見知ったその筆跡が、誰かのでっち上げなんかじゃないことを告げている。

 知らぬ間に力の入った指先が震え、かさりと紙が鳴った。

 ――嘘だ

「ロン、待って落ち着いて。よく見てよ。この手紙、おかしいよ」

 足元が音を立てて崩れていくような、喪失感が猛烈な勢いで襲ってきて、まともな思考回路を奪い去っていく。

 だがそんな俺の肩を掴み、ハルがいつもと変わらない冷静な口調で、混乱しかけた俺を引き留めた。

「昨日、僕らがここに来た時、こんなものはなかった。彼女があの時点でもういなかったなら、いつどうやってこれを置いたっていうの? それに――」

 と、ハルは手紙を示す。

「見て。あちこち字が震えてるし、誤字も妙に多い。絶対におかしいよ、これ」

「…………」

 ハルの言うとおりだった。

 改めてみれば、ごく簡単な言葉しか使っていないのに、妙に誤字が多い。文字が震えているのは、緊張していたからだとしても、こんなに綴り字を間違えるのはおかしい。

「ね?」

「ああ――悪い、目ぇ覚めた」

「これ、絶対何か裏があるよ。僕ら以外に、誰が彼女を信じてあげられるのさ」

「そうだな」

 これまですぐ近くで友香を見てきた俺達は、あいつがどんな奴かよく知っている。まっすぐで馬鹿正直、少し天然な所があって、情に脆い。そんな奴がスパイなんかできるもんか。一瞬でも疑いかけるなんて大馬鹿だ、俺は。

「……ん?」

 そうして改めて、文面に目を落とした俺は、あることに気付く。

「これ、もしかして……暗号?」

 ほぼ同時に、同じことに気付いたらしいハルが、小さく呟いた。

「気付いたか?」

「うん、多分」

 ぱっとポケットから紙とペンを取りだしたハルが、さらさらとメモを取り始める。

 文章全体から誤字だけを取り出していくと、俺達が予想したとおり、いくつかの単語が浮かび上がった。


 ――監察、ギイ、たすけて


 偶然とは思えない、明確な意思をはらんだその単語の羅列に、俺たちは言葉を失った。

「――うっそだろ、おい……」

「…………やばいね」

 間違いない。これは友香が残したメッセージだ。だが、その断片的な情報から推測される事態に、サアッと、顔から血の気が引いていくのがわかる。

 ――あんの野郎……

 脳裏にギイの嫌味な笑みを思い浮かべ、俺はぎり、と歯噛みした。

「でも――監察に連れて行かれたんじゃ、僕らには手出しできないよ。こんなの他の人に見せたって、信じてくれるかどうか。下手したら逆効果だ」

 ハルの言葉に、頭に上っていた血がさっと引いた。奴の言うとおりだ。一介の候補生では監察になんて入れないし、かといってこんな手紙、他人に見せたら大変なことになる。

 ――いや、待てよ

 さっき血の気が引いたのが功を奏したんだろうか。再び軽いパニックに陥り掛けたその瞬間、脳裏を過ぎった面影に、俺は安堵に息を吐いた。

「大丈夫だ。確実に味方になってくれる人に心当たりがある」

 焦る気持ちを落ち着かせ、俺はハルを見上げた。とはいえ彼がどこにいるか、俺は知らない。

「――とにかく、探すぞ」

「ちょっ、誰を!?」

「次期指揮官!」

「……え? …………ええ、何で!?」

 答える暇ももどかしく駆けだした俺の後ろで、事情を知らないハルが困惑気味の声をあげた。

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