5:ハル
少し遡って話をしよう。
「……いねえな」
友香ちゃんの部屋の扉を叩いていた拳を止め、ロンが呟いた。
他の部屋から離れたこの廊下にはあまり人気がなく、扉の隙間から漏れる灯りもない。対照的に、廊下の窓からは月の光が射し込んでいた。
ロンと二人で大掃除に熱中している内に、いつの間にかとっぷりと日は暮れて、月が顔を覗かせていた。そこで掃除を切り上げ、友香ちゃんも誘って食事に行こうという話になったんだけど、肝心の彼女は留守のようだ。
「先に行ったのかな。入れ違いになったのかもね」
「――だな。とりあえず食堂行くか」
時間が時間だから、既に夕食に向かったのかもしれない。さすがに帰省前に自主練には行かないだろうし。
けど、そう考えて向かった食堂にも、彼女の姿はなかった。寮から食堂へ向かう通路は一本道だから、どこかで行き違いになったとも思えない。
「…………こっちにもいねえ」
呟いて、ロンが頭を掻く。忙しなく周囲を見渡す視線が、彼の落ち着かない気分を如実に示していた。
夕食時に顔を合わせなかったことくらい、これまでだって何度でもある。つまり心配する要素なんか何もないってこと。普段なら、「過保護だね」とでも言ってロンを揶揄う場面だ。
けど――普段ならそれですむことなのに、それですむことだと解っているのに、今日は軽口を叩く気分にはなれなかった。ロンだけじゃない、僕自身もどこか落ち着かない、ざわついた気分を感じていたからだ。彼女の気配を探ってみても、どういうわけか、すこしもアンテナにひっかかかってこないのが原因かもしれない。
「どうする? 一応、武練場覗いてみる?」
虫が騒ぐとでも言うんだろうか。このまま見過ごしてはいけないような、いやな感じがする。
――彼女の気配そのものが、この周辺からスポッと消え失せたみたいな……
「まあでも、武練場に行ってるのかも。そうじゃなきゃ、掃除して埃被っただろうし、浴場にいるとか」
いやな想像を振り払うように、敢えてありそうな可能性を挙げてはみたけれど、指を折りながら僕自身、自分の言葉の空々しさを感じずにはいられなかった。
――むずむずと足元から虫がはい上がってくるみたいな、そんな感じ。なんだろう、これは。
まるで、人界での実戦で敵に遭遇した時のような感じ。無視してはだめだと、何かが警告を発している。
「どうする?」
今すぐに探しに行った方がいいという予感が、緊張感とともに肥大していく。だけど時間が時間だけに、大騒ぎするだけしてから取り越し苦労だったじゃすまされない。
「――心配なら、後でもう一度部屋に行ってみる? あと武練場と」
ついでだからほんの数分、食事でもしながら頭を冷やすのもいいかもしれない。そう思って提案すると、ロンはたっぷりと時間を掛けて悩んだ末、渋々と言った様子で頷いた。
「……そうだな」
表情から察するに、空腹よりも心配な気持ちが先に立っているけど、ここで焦って何でもなかったら馬鹿だと判断したんだろう。僕も同じことを考えていたから、多分当たってるはずだ。
どうしても落ち着かない気分を少しでも浮上させようと、僕は敢えて明るい声に切り替えることにする。
「とか言って、実は誰かに呼び出されて告られてたりして」
選んだのは、深刻さなんて欠片もない世間話。
「……」
予想通り、僕の言葉にロンは勢いよく振り返り、そしてじとっとこちらを睨んだ。
「あ、怒ってる」
「怒ってねえよ。てか何だその想像」
あ、声が低くなった。そんなに期待通りの反応を返されると、嬉しくなっちゃうなあ。
ピーク時を過ぎた食堂は、ガランとしていた。それぞれが会計を済ませ、空いた席に座るや、僕は口を開く。
「想像っていうか、実話。見かけちゃったんだよねー、こないだ」
途端、向かいに腰を下ろしたロンの眉間に深い縦皺が刻まれた。
「見かけたんなら止めろよ」
と、フォークの先をこちらに向けて唸るけど、別に怖くも何ともない。でも行儀は悪いよね。
「やだよ、そんな野暮なこと」
「……で、誰なんだ」
「何が」
「相手」
別に興味ないけどな、と口の中で小さく呟いたのを僕は見逃さなかった。
ほんっと、ロンってばわかりやすい。まあ、だから揶揄い甲斐があるんだけどさ。
「他人のプライバシーを勝手に公表できません。でも結果なら、多分アウトだよ」
「…………」
僕の言葉を聞いて、ロンは無言で視線を落とすと、肉を口に運んだ。
「あ、今ちょっとほっとしたでしょ」
「してねえし」
憮然と答え、フォークを銜えるロンに、ふふん、と僕は笑う。反応が面白いから、もう少しサービスしちゃおかな。
「明日早々に帰る連中も多いだろうしね。ま、変なことする奴はいないだろうけど」
「……」
あ、黙った。変なことって何だとか、友香ちゃんがそんなにモテてたっけとか、グルグル考えてるんだろうなあ。
「それはロンが知らないだけ」
他人を遠ざけていた頃とはうって変わって明るくなった彼女の笑顔に、秘かに心寄せる候補生は少なくない。ただ、ロンが彼女を好きなことは周知の事実だから、みんなロンのいない時を狙って話しかけるんだよね。
「年頃の野郎ばっかり集まってんだもん。まあ、そうなるのも道理だよね」
鹿爪らしく言ってみると、ロンは複雑な顔で唸る。眉間の皺は、もはや海溝レベルだ。目つき悪いんだから、そんな顔してると女の子に怖がられるよ。
「……だから止めろよ」
「だから、他人の人間関係に口出すつもりはないってば。まあそもそも、あの子自身が全く気付いてないしねー」
そう言うと、ロンは「あー」と遠い目をして嘆息する。
「……だろうな」
やたら重々しく頷いたロンに、僕は思わず噴き出しそうになった。いやあもう、実感こもりすぎだって。
こと恋愛に関して、友香ちゃんのニブさは尋常じゃない。端から見ていても、どうして気付けないのかと思うくらいだ。普段はむしろ他人の気持ちに敏感すぎる子なのに。
まあ――多分あれは、自分でそっち関係には蓋をしてるんだろうなと思うけど。
「お、さすがに実感こもってるね」
揶揄い混じりの僕の声に、ロンは恨めしげな視線を一瞬こちらに向けて、すぐに目を逸らす。
「うるせえよ」
そんなくだらない会話を続けている内に、二人とも、あっという間に皿の上がからっぽになっていた。
「で、どうする?」
茶を一口で飲み干して、僕は訊ねた。
「……心配しすぎな気がしてきた」
しばらく中空に視線を流した後、深々と溜息を吐いて、ロンが呟く。
「だね。僕も」
さっきまでは確かに感じていた、背筋を羽虫が這い回るような嫌な予感は、今はすっかりなりを潜めていた。掃除のしすぎで疲れ気味だったのかな、僕ら。
「まー、明日になりゃどこ行ってたかわかるだろ」
「あ、問い詰める気だ」
「……ちょっと訊くだけだっつの」
けれど、その決断を後悔することになるなんて、その時の僕らは思ってもみなかった。
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