4.責任をとらない相談室
文化祭という名の、地獄の自由時間が大半を占める二日間をどう乗り切るか。ここ最近の僕の脳内会議は、もっぱらその議題に費やされていた。
文芸部は文化祭で文芸誌を作って配布する、と聞いた時から、「じゃあ文化祭の日は売り子に名乗り出て部室でずっと座ってればいいんだ」、と思っていたのに。
先手を取って早めに「当日は売り子をやりたい」と顧問の安藤先生に直接立候補したら、「毎年部室の前の廊下に机置いて、誰でも自由に持っていってもらってるから、売り子は置いてないのよ。そもそも売り物じゃないし」、と返された時の僕の絶望を、誰に分かってもらえるだろう。
「いや、でも、一人で何冊も持っていく人とかいたら正確な配布数がわかんないじゃないですか」、とダメ元で食い下がってみたものの、顧問は笑って「文芸誌を一人で大量に持っていく人なんて今までいなかったし、いたらいたで数が捌けてその方がありがたいわねえ。毎年大抵余るから」と、創作者のモチベーションが下がるようなことを平気で言う。
安藤先生はベテランの国語の先生で、文芸部が「文芸」とは名ばかりの漫研より軽めのオタクの集まりで、普段はただ放課後部室で喋っているだけの(勿論僕のようにそれすらせず、実態は帰宅部のような部員もいる)、文化祭の前にだけ適当に文やらイラストやらを書いて形だけの文芸誌を出している活動しかしていないことを知っている。そしてそんな現状を特に咎めることもなく、面倒な仕事がなくてラッキー、という、普段であればありがたいその姿勢は、今の僕にとっては恨み言の一つや二つぶつけたくなる代物だ。僕に下心があったから良かったものの、純粋に文芸誌作成に熱を入れている部員(そんなもの非実在部員であるが)に言っていたら一大事だったぞ、と心の中だけで悪態を吐く。
クラスの出し物はお化け屋敷で、僕は早々に「当日は文芸部で一日売り子をやるから出れないし、文芸誌の作品を書くのに忙しいから」、という理由で準備も本番も一律不参加を宣言していた。告げられた担任もホッとしただろう。クラスに友達が一人もおらず、クラスメイトとまともに会話すらしたことがないぼっち君に気を使わずに文化祭の準備にとりかかれるのだから。
ここで勘違いされたくないのは(誰に、と問われたらあらゆる人に、だ)、僕は決して一人が嫌いなわけではない。気が合わない人と一緒にいるよりは一人の方がよっぽど楽だし、一人でご飯を食べるのも苦にならないし、読書とか映画鑑賞とか、一人で楽しむ趣味だって持ち合わせている。でも、それと『大勢の中で誰とも仲良くならず一人でいても平気』なメンタルを持っているかどうかは別の話で、寂しいとか辛いとか大袈裟なことではなく、単純に恥ずかしさとか居心地の悪さを滅茶苦茶感じてしまうのだ。
一人が嫌なわけではない、でも好きで一人でいるわけでもない。実際中学校では自然とできた友達と普通に過ごしていた。しかしそれは小学校から中学校は面子がそれ程変わらず、まだ怖いもの知らずだった小学校の時の人間関係をそのまま継続できていただけのことだ。それが中学校からの友達が誰もいない高校に入ると、途端にどうすればいいか分からなくなり、入学時にたまたま誰ともタイミング良く話せず、話しかける勇気も話しかけられる幸運も持ち得ないまま、気がつけば『クラスに一人も友達がいないぼっち』という位置に立っていたのだ。
文芸部に入ったのも部活の方で親しくなってクラスでも話せるようになりたいという下心からだったのだが、選んだ部を完全に間違えてしまい、一年生の部員には同じクラスの生徒は一人もおらず、ついでに男子もいなかった。たまに顔を出す部活の間時々話す程度の相手はできたけれど、普段の生活ではそんなのほとんど意味がない。本を読むのが好きで、作文を書くのも得意だったから少しでも自分が興味のある部活を選んだが、そんなことよりもまず確実に同じクラスの男子がいる部活を調べてから入るべきだった。
と、今更そんな勇気の不在と不運の獲得を嘆いても、全ては後の祭り。今更クラスの出し物に参加なんてしたくない(というかできない)し、一人でふらふら文化祭を回るのは空しすぎる。かと言って誰にも見つからない場所でじっとしているのはあまりにも寂しい。本当にそのこと自体を空しいとか寂しいと思うわけではなく、客観的に見たそういう自分が空しくて寂しくて、恥ずかしいのだ。きっと、同じ状況でも一人で楽しめる人間はいる。そういう、強くて周りの目や自分の立ち位置を全く気にしない人間なら。
でも僕はそうじゃない。自分がクラスのぼっち確定と察した瞬間から、僕は常に何食わぬ顔で「一人だからって全く気にしてませんけど?」という態度を演じてきた。同情も憐れみもいらなかったし、何より蔑みや嘲りを恐れて、「ハブられてるわけではなく、自ら誰ともつるまない一匹狼キャラ」としての地位を確立しようと必死で平気そうな顔を作ってきた。
とは言え、流石に皆がいつもの百倍くらいテンション高く楽しそうにしている文化祭の間中、ずっとその状態を維持するのは精神的にきつい。じゃあ休めばいいじゃないか、と頭の中の冷静な自分が言うが、文化祭の日に学校を休むなんて、それこそそんなことを気にしている人間だと思われそうで躊躇われる。『文芸部の売り子』という仕事は、そんなこじらせてて面倒くさい僕(自覚はしているのだ)にとって、本当に希望の星だったのだ。実際はそんな仕事、存在すらしていなかったわけだが。
「ただいま〜、知之入るよ〜」
自室のベッドに寝転がり、終始そんなことを悶々と考えていたら、コンコン、というノックの音の後に、今年就職したばかりの姉がくたびれ果てた声と共にドアを開けて入ってきた。呑気な短大生だった姉は就職活動もそれほど必死にせず、今は契約社員として文房具ショップの店員をしている。それでも働けるだけ御の字でしょ、と気丈なのか呑気なのかわからない台詞を零していたが、最近は口を開けばもっぱら勤め先の上司の愚痴に終始していた。
「ちょっと知之、聞いてよ〜」
今日はよっぽど嫌なことがあったのだろう、入ってくるなり僕のベッドにダイブして愚痴モードに突入する。姉の僕へのそんな遠慮のなさは今更の話だ。僕はとっくの昔に到達した諦めの境地で、「どうしたのさ」、と姉に場所を奪われた形で起き上がり、ベッドの縁に腰掛けた。
「も〜、あのクソ上司、最悪最悪最悪!こっちが質問してもあからさまに『まだそんなことも知らないの?』みたいな顔してさあ!教え方にもいちいち棘があるから怯えて結局またろくに覚えらんないの!こっちだってあんたになんか聞きたくなんかないっつーのに、他に誰もいなかったから仕方なくしただけだっての!」
姉の愚痴の対象は、恐らく一人だ。名前は聞いたことがないけれど、一人だけどうしても苦手な人がいて、姉はその人と一緒に働くのが耐えられないようだった。
「これから先もずっとあいつがいるなんて耐えられない……あ〜、私も高校生になりたい、そしたらどんなに長くても三年我慢すればいいのに〜」
以前、姉の話を聞く流れの中で、自分もクラスに友達ができなくて悩んでいると口を滑らせたことがあった。姉はそんな世間一般的にはまあまあ重い高校生の悩みを、「別にいいじゃん、嫌いな人間と一緒にいなきゃいけないよりは一人の方が楽でしょ。三年後にはどうせ卒業するんだし」、と、こともなく一蹴した。
まだ僕が自分でもそういう考えを持てる人間だったから良かったものの、本気で苦悩していたらあまりにも無神経な発言だ。先述の国語教師といい、どうにも最近はデリカシーに欠ける大人が多い。
まあ、そういう細かいことは気にしないところは姉の長所でもある。良くも悪くもマイペースで人にあまり関心のない姉は、まず誰かに対して怒りをぶつけるということがあまりなかった。姉がこんな風に日々誰かのことを悪く言ったり愚痴をこぼしたりするなんて、就職する前は考えられないことだ。
「もうホント、いつかマジで後ろから蹴り入れちゃいそうな自分が怖い……」
「いっそ入れちゃえば?そしたらすっぱりやめられるんじゃないの」
「そんなことできるわけないでしょ!ったく、これだからお子様は」
そのお子様に毎度愚痴ってるのは誰だ、と思うが口には出さない。何を言っていいかはよく分からないけれど、言ってはいけないことは最近の経験上分かっているつもりだ。
「じゃあ考え方を変えてみるとか。怒るぐらい相手にも非があって良かったな、とか」
「え?なに?どういうこと?」
僕の言っていることの意味が分からないらしく、姉は首を傾げてようやく僕の枕から顔を上げた。
「つまりさ、相手に全然非がなくて、何にも突っ込みどころがなくて、自分だけが悪いって思ったらさ、姉ちゃんの場合すごい落ち込んで自分を責めそうじゃん。自分の失敗でも誰かを責める方に気持ちをシフトできてるんなら、少なくとも自己嫌悪には陥らなくて済むんじゃないの」
姉は人に関心はないが、人から自分がどう見られているかは気にする面倒くさいタイプだ。呑気者のくせに(だから、ともとれるが)失敗や間違いを異様に嫌い、誰かに怒られることを極端に恐れる。何でそんなことが分かるかって、僕も全く同じタイプだからに他ならない。
「死にたいって思うより倒したいって思う方が、まあ元気だよね」
我ながら物騒なことを言ってるなと思ったが、そんな僕の言葉に、姉は「はー、」と感心したような、呆れたように息を吐いた。
「知之、人を慰めんの上手くなったねえ。前まではただ黙って聞いてるだけだったり、何か返したと思ったらこっちの神経逆撫でするようなこと言ってきたりしてたのに」
「そりゃ、ここ最近ずっと姉ちゃんの話聞いてたらちょっとはね……」
「人生相談とか向いてんじゃない?雑誌とかラジオとかでやってるやつ。ああいうのってどうすればなれるんだろうね」
「人生相談だけを職業にしてる人はいないと思うけど。何かよくわかんないエッセイストとかがやってるイメージだね。あと何か文化人?みたいな感じの人とか」
「街で道端に椅子に座って話聞いてる人いるじゃん。あの人たちは?」
「あれは人生相談じゃなくて占いじゃない?手相とか」
「あー、そっか。じゃあ占いとか勉強すればなれるのかなあ」
「え、何、マジでなりたいの?」
仕事を辞めたいのは分かるが、転職希望先が占い師とはあまりに突拍子もない。
「ていうか、ああいう人たちって、パッと見異物なのに不思議とすごい街に溶け込んでるじゃん。ここは私の席なので、って飄々としてるというか。まあ、話しかけようとは思わないけど、いつか話しかけてみたいなって思う。思うだけで終わるだろうけど、そういうのいいなあって」
「うーん、ちょっとっていうか、大分分からん」
「つまり、私が今仕事辛いのはさ、勿論あのクソ上司が一番の原因なんだけど、何か職場に自分の居場所が見出せないってのもあるんだよね。自分がここにいてもいいと思えないっていうか」
「それは、契約社員だからとか?」
「どうだろ。他にも契約はいっぱいいるけど、同じように感じてるとは思えないなあ……まーまだ始めたばっかだし、甘ったれてるって言われたらそれまでなんだけどさあ」
「あー……でも、そういうのちょっと分かるかも」
教室での僕もそんな感じだ。本当にそこが自分の居場所と思えれば、一人でいてもきっと周りの目なんか気にならない。文化祭も、自分がそこにいていいか、どこにいればいいか分からないから、一人で行動することを恐れてしまう。
「お、分かる?分かっちゃう?」
「うん。今度文化祭があるんだけど、ちょっと事情があってどこにも居場所がない感じになりそうなんだ。『ここにいてもいい』って思えるところがあれば楽なのにって思う」
どうせまた「そんなことか」と一蹴されるんだろうなと思ったが、声の軽さは同じでも姉の返答は思いもよらぬものだった。
「なあんだ。そんなの簡単じゃん」
「え?」
「会社ならともかく、学校の文化祭でしょ?そんなの、適当に『ここでこういうことしますー』って申請すればいいんだよ。そしたらそこが居場所になる」
「いや…そんなの簡単にできなくない?」
「何でもいいんだって。客集めが目的ならそれなりに企画練らなきゃだけど、ただ気兼ねなく一人でゆっくりできる場所が欲しいんでしょ?誰もこなさそうな、お金もいらなそうな、でも真面目な感じで許可が取れそうなもの。考えればいくらでもありそうじゃん。あ、それこそ人生相談とか」
「それで本当に相談にこられたらどうすんの。僕、知らない人となんて話せないよ」
そんなコミュ力があれば、とっくの昔にクラスで自分から話しかけて友達を作り、こんなことで悩んでなんかいないのだ。
「その時は乗ればいいでしょ。知之、親戚と話すのはめっちゃ苦手だけど道端で知らないおばあさんと話すのは得意じゃん。それと同じじゃない?」
「………」
そういえば、確かに。僕は何かしら自分と接点があったり、この先ずっと顔を合わせるような相手だと緊張して上手く話すことができないが、その場限りの相手だったらあっさり会話を交わせている。
「会社じゃそうはいかないからさあ〜。でも、別に自分の居場所だと思えなくたって仕事に支障はなかったんだよ。それをあのクソ上司がいるから〜!」
結局そこにまた戻るらしく、姉はばふばふと五、六発布団を叩いた(というか殴った)後、「あースッキリした!」、と、勢いよく身体を起こした。
「でもホント、知之と話すと楽になるよ。何も言わなかった頃も、ただ聞いてもらえるだけで全然違ったし。今は気付き?違う視点?を教えてくれる、みたいな」
マジで人生相談やってみたら?
姉はそう笑うとベッドから立ち上がり、「さーて、お風呂入ってこよー」、と、帰ってきた時よりも優しくドアを開けて僕の部屋を出て行った。今更ながら風呂に入っていない、外から帰ってきたばかりの体でよく人の布団に寝転がれるよな、と少々不満が生まれる。けれどそんな小さな不満は、脳で反芻されたその前の姉の発言にすぐ打ち消された。
気付き、違う視点。それは、今に限ってはもらったのは自分の方だ。
そんなこと、全く、ちっとも、思いつきもしなかったけど。
「……いけるかも」
僕は机の引き出しに入れたまま放置していた文化祭の要項が書かれているプリントを引っ張り出し、とりあえず希望申し込みの欄に書かれた締切日を真っ先にチェックした。
呆気ない程に迎えた、文化祭当日一日目。
雨が降りそうで降らない曇り空の下、身体にまとわりつく湿気を吹き飛ばすような熱気と興奮の中、体育館での開催宣言と共に祭は幕を開けた。
まずは文化祭実行委員会のオープニングムービーが流れ、準備のある生徒たちはステージ発表や展示会場に向かっていく。例年は一日目がステージ中心、二日目が模擬店中心というスケジュールだったらしいが、今年は演劇部にうちの学校に在籍している本物の芸能人が出るとかで、一日目と二日目にステージの目玉を分けたらしい。そういえばその演劇部の舞台の脚本を文芸部の誰かが書いたとつい最近知って、あのやる気のない文芸部にそんな才能がある奴がいたのかとびっくりしたものだ。まあ、そんなことはどうでもいい。つまりはそんな演劇部の都合により一日目のステージは吹奏楽部とダンス部を中心とした部活やクラスの団体発表、二日目は演劇部以外は有志で集まった小規模な個人発表というスケジュールになっている。二日目のステージ発表の一般客は事前申し込み必須で、入場制限が設けられているというのだからご苦労なことだ。とは言え、そんなこと自分にはどれひとつとして関係ない。
僕は体育館から本校舎に伸びる渡り廊下の道中、喧騒を抜け出して、一人文芸部の部室へと歩を進めた。
隠れるでも、逃げるでもない。
そこに、僕がこの手で作った、今日の僕の居場所がある。
姉と話した日の翌日。
僕は恐らく今まで生きてきた中で一番と言っていい程の勇気を振り絞って、生徒会室に参加希望申込書を直に持ち込んだ。中にいたのは二人、生徒会長と副会長だ。先輩と話すことなんてほとんどないから緊張する。それでもまだ、毎日顔を合わせるクラスメイトよりも、普段会うことのない二年生の生徒会役員と話す方が断然楽だった。
「提出ギリギリになってすいません、でも、どうしてもやりたくて」
文化祭の個人での参加希望提出日は明日までだった。けれどクラスで文化祭実行委員が集める分はもう回収が済んでいて、直接生徒会長に渡した方が確実だと踏み、僕は入学して初めて生徒会室のドアを叩いたのだ。
「人生相談、場所は文芸部部室……文芸部はもう文芸誌の配布が決まってるだろ」
渡した申込書に生徒会長のぎょろりと大きい目が通る。普段から厳しい雰囲気の生徒会長は、全校朝会なんかで壇上にいる時よりも、こうして近くで話す方がより威圧感が増して見えた。その隣では、副会長が涼しい顔で僕が提出した書類を覗き込んでいる。
「あ、えっと、文芸誌の配布は廊下に長机を置いて、ご自由にお持ちくださいって形なので、部室の中は何もないんです。僕は文芸部員なんで、そこが一番やりやすいだろうと思って……」
「成程。で、この人生相談ってのは何だ。占いなら二年二組が占いの館で既に登録済みだぞ」
「占いじゃなくて、相談です。えーと、その、僕、心理学に興味があって、独学で色々勉強してて……将来は心理カウンセラーになりたいと思ってるんです。だから、こういう場で色々試してみたいと思って、」
昨夜必死で考えて練習した文言を、僕はところどころつっかえながらも何とか唱えてみせる。勿論僕は心理学に興味なんてないし、心理カウンセラーになりたいと思ったことなんて一度もない。
「けど、人生相談なんて客がくるか?自分の悩みを明かす相手なんて余程信頼のおける人間じゃないと無理だろ。大体悩みなんて人に知られたくないことなんだから、よく知らない相手にやすやすと相談したりしないだろうし、きたとしても冷やかしがほとんどじゃないか」
「勿論、相談者のプライバシーは守ります。相談されたことは絶対口外しないって誓約書を書いて、外からは見えないように窓にカーテンを張ります。冷やかしでも、一応相談に乗るという形が作れれば十分いい経験になると思ってます」
その通り、普通だったら人生相談なんて話したこともない人間に面と向かってしようと思わないし、怪しくて大抵の人間がスルーする筈だ。きたとしても複数人がふざけてくるだけで深刻な相談などされないだろう。つまりは文化祭の間、ほとんどの時間誰とも会わず、けれどそこにいてもいい空間が約束される。プライバシー保護の為カーテンを張るという大義名分を手に入れれば、僕が一人でいるところを誰にも見られずに済む。この案が通れば、僕の文化祭にまつわる全ての悩みが解決されるのだ。
「いいんじゃない?動機もヴィジョンもはっきりしてるし、文芸部の部室は元々文芸部が使うものだと思ってたから最初から教室割り振りの数に入ってない。経費もかからないし、特に却下する理由ないだろ」
副会長の助言に、僕は心の中で実際にしたことは多分一度もないガッツポーズをする。ありがとうございます、もっと言ってください、と念を送っていると、そんな僕の声なき声が届いたのかもしれない。
「まあ……そうだな、今の段階で決定とは言えないが、前向きに検討する、とだけ言っておく。結果は来週には配布される予定だ」
「分かりました。どうもありがとうございます」
そうして、翌週配られた文化祭スケジュール予定表の一番隅に、めでたく『個人参加:人生相談室』の文字を見つけることができたのだ。
体育館から遠く離れた図書室の隣にある空き教室。授業では少人数の選択科目で使われるそこが、文芸部の部室であり、この二日間の僕の城になる。耀坂高校にはまるでヨーロッパの城のような芸術塔があるが、今の僕からすればこの小さな教室が芸術塔など目じゃない極上の宮殿だ。
外側の窓が閉まっているか確認し、廊下側の窓にはカーテンを引いて中が見えないようにする。机と椅子は教室の後方にまとめて引いて、中央に僕が座る分と来る筈もない客の分だけ対面型にして残しておいた。そうして、ドアに薄いシャーペンで『人生相談室』と書かれた何の工夫もされていない紙を申し訳程度に貼れば、立派な僕だけの城の完成である。
とは言え、いつ先生や生徒会役員が巡回にくるかは分からないから、カモフラージュとして机上には図書室から借りてきた心理学の本を積んでおく。心理学の本なんて堅苦しい難しいものばかりだろうと思っていたけど、図書委員に探してもらったら意外と図やイラストを用いて分かりやすく書かれているものも沢山あり、結構面白そうだったので、この二日間はここでゆっくりとそれらの本と趣味の小説を読んでいればあっという間に過ぎ去りそうだ。
一仕事、とも言えないような準備を終えて、椅子に座りほっと一息吐く。
いるべき場所があるだけで、ただ座っているだけでも気持ちの落ち着きが全く違う。誰の目も気にせずに、自分はここにいていいのだという絶対的安心感。
「落ち着くなあ……」
柄でもない独り言なんかを零したりして、僕はとりあえず読みかけの文庫本に手を伸ばし、遠くから聞こえる喧騒をBGMに、本の世界へと耽っていった。
城のドアが開かれたのは、それから一時間程経ってからのことだった。
「ども、生徒会の見回りです、と。どう?お客さんはきた?」
「あ、いえ、まだ全然。やっぱりなかなか難しいみたいで……」
入ってきたのは、この空間を手に入れるのにお世話になった副会長だった。現れたその姿に、僕は読んでいた本を伏せて立ち上がる。この人の助言がなければこんなにスムーズにことは進まなかったかもしれない。そう思うと、自然と背筋も伸びるというものだ。
「そりゃそうでしょ。だから君もこんな企画出してきたんだろ?」
「え?」
そんな副会長からの、思いがけず放たれた問いかけに、伸ばした背筋が急激に冷えていく。
「学校内で、友達でもない生徒に相談しようなんて物好き滅多にいないだろ。いい理由考えたよね。勉強とか将来の夢の為とか言えば学校って結構寛大だし。まあ時々本当にそういう真面目で熱意のある奴もいるけど、君どう見てもそういうタイプじゃないっぽいし。一応君のクラスの担任に聞いてみたけど、いつも一人でいるんだって?クラスに居場所も、文化祭を一緒に回るような友達もいなくて、一人になれる場所を探してたんだろ?で、ここに目を付けたと」
人を見た目で判断するのはどうかと思う、とか。デリカシーがないのは大人だけじゃなかったのか、とか。頭の中ではぐるぐると思考が回っているのに、それらは一切言葉にならず、喉を通らない。バレていた、と、そればかりに意識を奪われる。
「あ、別に責めてるわけじゃないよ?むしろ感心したんだ、一人でこんなこと考えて行動に移せるなんてすごいなと。だから協力したわけだし」
「……じゃあ、この場所没収されるとかは、」
「ないない。そんなことしたってお互い何のメリットもないだろ。空き教室がなくなれば祭りにかこつけてハメ外す集団がたむろする場所も潰せるしな。大体気付いてるのは多分俺一人だし」
最後の言葉に、ようやくホッ、と詰まっていた息を吐く。多分、という不確定要素はあるものの、とりあえず「文化祭を一人で回るのが嫌で誰にも会わずに篭れる場所を作った」、なんてことを知らない人たちに噂されているわけではないらしい。
「何かいじめたみたいになっちゃったな。そんなつもりはなかったんだけど」
「い、いえ。すいません、こちらこそ何か。見逃してくれてありがとうございます」
「見逃すも何も、別に悪いことしてるわけじゃないだろ。一応そういう本も読んでたみたいだし」
副会長はそう言って机上に積まれた心理学関係の本を指差す。カモフラージュの為に置いた本が功を奏したようだ。
「ちゃんとカモフラも準備して偉い偉い。用意周到な奴は好きだよ」
……違った。本当にこの人には、何もかも全部お見通しみたいだ。こうなれば全てを甘んじて受け入れるしかないだろう。この見回りが終わるまで、何を言われようとただ頭を下げて、穏便に出て行ってもらうのだ。
「ありがとうございます……って、あの、」
「ん?」
「ほ、他にもまだ何かあるんですか?」
誰も座ることを想定していない、僕が座っていた席と向き合う形で並べられていた形だけの相談者用の机と椅子。そこに、副会長は当然のような顔で優雅に座っていた。
「何かも何も、相談だよ、人生相談。客第一号。二日間とも誰もこなかったなんて報告したら、来年企画が通らなくなるかもしれないだろ?」
いや、来年もする予定なんてないし、できればしなくてもいい状況になっていてほしいのだけど。余程そう言いたかったが、さっき全てを甘んじて受け入れ、何を言われようとただ頭を下げる、と決めたばかりだ。善意で(多分、きっと、そうだと信じたい)やってくれているんだし、ここは乗るしかないだろう……と、僕は我ながら全く心のこもっていない声で「ありがとうございます」とお礼を言って、渋々副会長の正面に座ってその怜悧な顔に向き合った。
「えーと、じゃあ、相談の前に、まずこの誓約書を渡しておきます」
今日あなたに相談されたことを、僕は誰にも言わず、どこにも書かないと誓います。
一年二組 松田知之 令和元年六月二十九日
まさか本当に使うことになるとは思わなかった誓約書。こういうのも本当に作ってるから立派だな、なんて言われても、最早褒められているのか馬鹿にされているのかも分からない。
「えー、その、では、相談したいことは何でしょう」
どうせ親切を装った冷やかしみたいなものだ、適当なことを言ってくるんだろう。こちらも適当に耳障りのよさそうなことを言えばいい。
「うーん、そうだなあ……」
そう、僕はタカを括っていたので。
「俺、今、すごく殴りたい奴がいるんだけど、殴ってもいいと思う?」
「へ……」
思いもよらぬ方向から打たれてきた副会長の問題発言とも言えるような相談に、僕は目を丸くして固まるしかなかった。
「あれ、聞こえなかった?俺、今すごく殴りたい奴が」
「い、いえ、いえ。聞こえてます。聞こえました」
「あ、そう?何かフリーズしてたから」
聞こえたからこそフリーズしたのだ。まさかそんな過激なことを言われるなんて、全く想像もしていなかった。よりにもよってあのクールで落ち着いたイメージの副会長が、人知れず誰かを殴りたいと思ってるなんて誰が予想しただろう。まだあの怖そうな会長の方が幾ばくか納得できる。
「えーと、その、どんな理由があっても暴力はいけないかと……」
とりあえずはそう言うしかないだろう。誰が相手だろうがここで「殴っていいですよ」なんて言ったら大問題だ。むしろ僕の方こそ誓約書が欲しかった。「ここで相談したことは誰にも話しません」みたいな。次はきちんと用意しておこう。いや、別に次なんてないんだけど。
「理由なんてないよ」
「え、」
「理由なんて何もないけど、無性に殴りたい。そして、向こうにも殴り返されたい。そう思ってる」
何だそれ。言ってることが全然微塵も理解できない。これってあれか、サイコパスってやつ?
「……だったら、余計ダメなんじゃないですかね。理由なく人を殴るなんて、下手したら警察沙汰ですよ」
「うーん、でも向こうも別の奴を殴って、殴り返されたいって言ってるんだよ。だったら俺がそいつを殴るのも別に良くないか?と思うんだけど」
「は?」
ダメだ、もう何もかもが僕の理解の範疇を超えている。
「でもやっぱり君の言うとおり暴力は良くないし、警察沙汰にはならないだろうけど意味なく終わる可能性も大だから、だったら最初からやらない方がマシじゃないか?とも思うし。もう自分で考えても埒が明かないから、第三者の意見を聞きたくてさ」
「あの、ちょっと待ってください。えーと、その人を殴りたいのに、特に理由はないんですよね。じゃあ意味なく終わる可能性って何ですか?元々意味なんてないんじゃ?」
「理由はないよ。でも、意味が生まれる可能性がある」
何だこれ、完全な言葉遊びだ。やっぱり一周回ってからかわれているんだろうか。
「……あの、詳しく聞いてもいいんでしょうか。それだけだと、僕はどうしても暴力は良くない、としか言えないんですが」
「そうだね、名前や詳細な経緯は省きたいけど、俺の心情だけならいくらでも」
「せめて相手の情報を少しだけでも。性別とか、年齢とか、副……先輩との関係とか」
「高瀬雪彦」
「え?」
「まずは、俺の名前。覚えてないんだろ?」
「……殴りたい相手の、〝高瀬先輩〟との関係とか。まずそこを教えてもらわないと、何とも言えません」
例えば相手が女の子だったり、子どもだったりお年寄りだったら、どんな意味があろうが僕は絶対に「殴るのはダメだ」という答えしか出せない。後者は人間としてありえないし、世の中男女平等が謳われているけれど、やっぱり男が女を殴る、というのはどうしても頭が拒否感を覚える。
「相手は同級生の男。関係は……友人と言っていいと思う」
なるほど、それならまだ考える余地はある。いや、どんな相手だろうと殴るのは良くないと思うけど、少なくとも僕の中での絶対に超えてはいけない線はかろうじて超えていない。
「友人ってことは、その人のことが嫌いで殴りたいわけじゃないんですか?」
「嫌いじゃないよ。基本的にいい奴だし、好きなところも沢山ある」
「それなのに、殴りたいんですか?」
「逆かな。だから、殴りたいんだと思う」
「……そして、殴り返してほしい、と」
「そう」
好意的に見ている相手を殴りたいだけなら、高瀬先輩は単なるサディストで、自分の性癖に人を巻き込んではいけないと思う。でも、殴り返されたい、まで考えているとなると話は別だ。
「一体、どういうきっかけで……?ずっとそう思ってるんですか?」
「いや、ここ数ヶ月の話。きっかけはそもそもあっち。さっきも言ったけど、まず向こうが他の奴を殴りたい、そして殴り返されたいって言ってたんだ」
「何でそんなこと言ったんでしょうか」
「……さあね」
「それで、高瀬先輩はその人のことを殴りたくなったと」
「うん、そう」
「高瀬先輩はその人に殴られたことはないんですか?」
「ないよ、一度も。俺が殴ったこともない」
こんなに殴りたいだの殴り返されたいだのなんて話をすることなんて、僕の人生の中でこの先もう二度とないだろうな。でも、同じような問答を何度か繰り返す内に、何となく見えてきたものがある。まだ僕のぼやけた想像に過ぎず、質問を重ねなければ確信には至れないけど。
「じゃあ、その、高瀬先輩が殴りたいって人が殴りたい相手のことは、実際には殴ってはいないんですか?」
「ないね。今はまだ」
「その相手も同級生?」
「そう」
「男子で、友人?」
「男子だけど、友人ってほどの仲じゃない。……多分」
「高瀬先輩はその友人じゃない人のことは、殴りたくないんですか?」
「殴りたくないよ、別に」
ここで、可能性は二択に絞られた。高瀬先輩の友人を「殴りたい」という感情が、果たして友人と友人じゃない人、どちらに傾いてのものなのか。
「じゃあ……友人がその相手を殴ることを、高瀬先輩は望んでるんですか?それとも、殴ってほしくないんですか?」
本当は、もっと直接的な質問した方が分かりやすいんだろう。でも、それよりもこっちの方が、より本質的な答えが見える気がした。
「──望んでるわけじゃない。でも、殴るなら殴るで、別にいい。ただ、」
「ただ……?」
「それなら、俺もあいつを殴っていいじゃないかと思う。そうじゃなきゃ──」
そこで高瀬先輩の言葉は途切れ、そのまま続くことはない。高瀬先輩自身、納得できる適切な言葉が浮かんでこないようだった。けれど、僕はまるでクイズを解いたかのような達成感を覚えた。
「じゃあ……高瀬先輩は、殴ってもいいと思います」
僕の出した答えに、高瀬先輩は切れ長の目をぱちり、と見開いた。それは多分、僕が最初に高瀬先輩の相談を受けた時の顔ととても似ているものだろう。
「へえ……いきなり宗旨変えしたね。何でまた?」
「多分、殴った方が、高瀬先輩はスッキリするからです」
「警察沙汰になるかもしれなくても?」
「なることはないって、高瀬先輩言ってましたよね。でも意味なく終わる可能性はあるって。多分、高瀬先輩が殴ってもその友人は怒らない。怒らないからこそ、高瀬先輩は殴りたいと思うんじゃないですか」
「……そうだね。そうかも」
何だか人生相談というより、犯人を追い詰める探偵みたいな気分だ。別に推理なんて大層なことはしてないけど。
今思えば高瀬先輩の相談は最初から、罪の告白めいたものだったようにも思う。大体人生相談なんて、まずは何で悩んでいるのか、その原因やきっかけを詳細に話すべきだ。そうじゃなきゃ状況に適切な答えなんて導き出せない。
けれど、高瀬先輩は詳しい情報の開示を避けた。それは自分や相手のプライバシーのことを考えて、と同時に、自分の抱えた感情に後ろめたさを抱えているからかもしれない。
「高瀬先輩が殴らずにその不満をぶつけられるなら、それが一番いいですけど。でも実際に殴った方が、相手にも先輩の気持ちがより強く伝わると思うので。例え殴り返してこなくても、いきなり訳もなく殴られたら少なくとも理由は聞いてくるでしょうし、完全に意味がないことにはならないんじゃないでしょうか」
友人にも殴りたい相手がいる、ということは、例え殴り返さずとも殴られっぱなしで黙っている大人しい気性ではないだろう。だったらもういっそやりたいようにやった方が悶々としているよりは心の健康に良さそうだ、というのが僕の出した結論だった。
「俺は、理由を聞かれるのがムカつくから殴ろうかどうか悩んでたんだけどね」
「この際相手の出方は考えない方がいいんじゃないでしょうか。他人が自分の思いどおりに動いてくれることなんて奇跡だと思いますし」
言いながら、これって盛大なブーメランだな、と僕は思う。相手の出方ばかり考えてクラスメイトにも話しかけられない僕が言えるようなことじゃない。言い訳させてもらうなら、何の関わりもないクラスメイトと、──大袈裟な言葉を使うならば独占欲を覚えるほどの友人相手とじゃ親密度が桁違いなのだから、同じように考える方が間違っている、といったところか。
「殴って、そいつとの関係が壊れてしまっても?」
「殴っても壊れる程に何かが変わるとは思えないから、高瀬先輩は殴ろうかどうか悩んでたんじゃないですか」
「…………」
「それにもし壊れそうになっても、高瀬先輩はそうならないよう言いくるめるの得意そうなので、多分大丈夫なんじゃないかと」
人を見た目で判断するのは良くないけれど、この場合はプラス言動も理由に入っているのでまだマシだろう。それに、
「例え壊れてしまっても、どうせあと一年もしないうちに卒業ですし」
デリカシーのない人間にデリカシーのない対応をしても、きっと罰は当たらない、
「……と、いう回答に、なりました」
僕の答えを高瀬先輩がどう受け止めたのか分からない。納得したのか、それとも逆に思い留まることにしたのか。高瀬先輩の表情からは、何一つ読み取れない。
「ああ。どうもありがとう。参考にさせてもらう」
つまり殴るってことかな。改めて考えると、やっぱり人に殴ることを推奨するってまずいんじゃないか。そんな僕の不安は、どうやら分かりやすく顔に出ていたらしい。
「俺がこの先何をしようが君の名前は一切出さないから、その点は安心していいよ。君が何を感じるかまでは責任持てないけど」
まあ、無責任なのはお互い様だよな。
高瀬先輩はそう意地悪く笑いながら、椅子を引いて立ち上がる。確かにそのとおりだ。僕の回答だって結局はとことん他人事の、どこまでも無責任なものだった。
「じゃあ、相談に乗ってくれたお礼に、一ついいこと教えてやろうか」
「いえ、別にお礼なんて」
「まあ遠慮せずに。──友人ってね、卒業しても付き合っていきたい相手のことを言うんだよ」
それじゃ、邪魔したね。
全然悪びれていない顔でそう言い残し、高瀬先輩は開いたドアを静かに閉めて、向こうの世界へと消えていった。
一応真剣に考えたのに、お礼どころか今日一番の嫌味を真正面から喰らってしまった僕一人を残して。
「……知らないよ、そんなの」
卒業しても付き合っていきたい、とか。
まず在学中に付き合う相手がいないのに、そんな贅沢な話言ってられるか。
大体、友達がいないと分かっている相手に、友人関係の相談をするってのがまずどうなんだ。そんな根本的な所から疑問と憤りが湧いてきたけれど、終わったことをぐだぐだ考えるのは性に合わない。とにかく穏便に出て行ってもらうことが最重要事項だったのだから、目的は達成された。僕がここを手に入れたのは心穏やかにこの二日間を過ごす為であって、人の言葉を気にして一人もやもやする為ではないのだ。
そう気持ちを整えて、僕は読みかけだった本に手を伸ばし、半ば無理矢理意識を本の中に潜り込ませていった。
「……は?」
ついそんな声が出てしまったのは、波乱万丈だった午前中が過ぎ去り、朝コンビニで買ってきたパンを食べ終わって、ほっと一息吐いた時のことだった。
最初は聞き間違いかと思ったが、控えめながら確かにコンコン、とドアを叩く音がする。何だ、誰だ、また副会長か。一瞬そう思ったけど、あの人はノックもせずに入ってきたし、もう僕に用はない筈だ。
「は…はい、どうぞ、」
恐る恐るドアに向かってそう言うと、ガラリ、と開かれたそこには、見覚えのない女生徒(いや、見覚えがある人なんてほぼいないんだが)が、廊下に置かれてある文芸誌を手に、俯きがちに立っていた。
「あの…ここ、相談室って書いてあるんですけど…入っていいですか?」
……嘘だろ。
まさか、こんな怪しげで信用ならないところに、本気で相談にくる人間がいるなんて。しかも冷やかしや冗談ではなくこんなガチな雰囲気で。いや、もしかしたら友達との罰ゲームとかで、そういう演技をしているだけかもしれないけど。
「ど、どうぞ……その、間違ってないんで……」
でも、どんな理由であれ来られてしまった以上は相手をするしかない。まさか午前中の副会長襲来はこれを予見してのリハーサルだったのか。
「失礼します……」
教室に入り、ドアを閉めてこちらに向かってくる女子はよく見ると赤いリボンをしていて、同じ一年生だと分かる(二年生は青、三年生は紫だ)。同じ年、というだけで、僕はまずほっと胸を撫で下ろした。先輩の女子の相談なんて、僕の手に負える気がしない。いつも五歳年上の姉から散々愚痴を聞いて、この相談室だって姉からのお墨付きと提案で開いた筈なのに、同じ学校の異性の先輩、というだけで感じる距離は全然違う。
「あ、じゃあ、その、とりあえず座ってください」
かと言って、同学年の女子なら余裕、なんてことは勿論なく。僕はぎくしゃくとした動きで相手を促し、おずおずと座る彼女にもう二度と使うことはないと思っていた誓約書を出して見せた。
「えっと、じゃあまずは、これを渡しておきます。書いてあるとおり、ここで聞いたことは一切漏らしません」
「あ……はい、ありがとうございます。もらいます。……その、絶対、誰にも言わないって約束してもらえますか……?」
「勿論です。この誓約書に書いてあるとおり、誰にも言わないし、どこにも書かない。ここで聞いたことを、僕は墓まで持っていきますし、多分その前に忘れます」
ジョークだったつもりはないけれど、墓まで持っていくと言いながら「いや流石にそれまでには忘れているだろ」と思って、ついそのまま続けて声に出してしまった。しかし怪我の功名と言うべきか、そんな僕のふざけた返答に目の前の彼女は安心したらしく、あはは、と控えめに笑った。
「忘れてくれるのは嬉しいです。……あと、その、タメ口でいいですか。その方が話しやすくて。そっちもできれば。同じ一年、だよね?」
僕のネクタイの色に気付いたらしく、そう提案してくる彼女に、僕は戸惑いながらも頷いた。
「あ、はい。……えーと、うん。そう。その方がいいなら、それで」
個人的には敬語の方がやりやすいけれど、ここは(一応)客の言うことを聞いておく。
「じゃあ、始めま……始めよう。相談したいことって?」
まずは自己紹介した方がいいだろうか、とも思ったが、もう僕の名前は誓約書に書いてあるし、あっちも名乗りたくはないだろう。そうして改めて問いかけると、彼女はまた顔色を曇らせて、言いにくそうにもぞもぞと口を動かす。
「相談っていうか……もう、弱音とか愚痴みたいなものなんだけど、誰かにぶちまけたくてしょうがなくて、でも誰に言えばいいか分かんなくて。それで、パンフに人生相談室って見つけて、もう誰でもいいから聞いてほしいと思って、」
中々本筋に入らず、彼女はまず自分がここに入ってきたことの言い訳を語り始めた。けれど、相談と言うよりは弱音とか愚痴、と聞いて、僕は内心ほっとした。それなら、普段姉相手にやっていることだ。これで明確な答えとか判断を委ねられる相談だったら、僕はどうすればいいか分からず途方に暮れていただろうし、彼女にもガッカリされるところだった。この様子だと演技ということもないだろうし、こんなに思いつめて来たのに何の成果もなかったのではやっぱり申し訳ない。でも、最初から解決を求めず、ぶちまける場所を探していたのならどうにでもなる。
「いいよ、全然。弱音とか愚痴とか、むしろ大歓迎。ここはそういう場所だから」
ただ自分が一人で快適に過ごす為の場所で、断じて人の弱音や愚痴を聞くために作ったわけではないのに、つくづく人ってその場の勢いでどうとでも嘘が吐ける生き物だ。だから僕は、その場だけではない人に話しかけるのが怖い。
「……ここって、文芸部の部室なんだよね。あなた…も、文芸部員?」
「あー、はい、うん。そう」
「これにも、作品載せてるの?」
これ、とは、彼女が手に持っていた文芸誌だ。机の上に置かれたそれは、僕のカバンの中に入っている部員用の配布冊子と同じものだった。
「うん、載せてる。どれかバラすのは勘弁してほしいけど」
基本的に文芸誌投稿作には部員全員ペンネームを使っている。自分が書いた小説とか詩を実名で公表する勇気は誰も持っていない。
「どうだった?」
「え?」
「こういう、作品を書いてみて、あなたはどうだった?」
「どうって……」
何で僕が質問されているんだろう。そもそも、どうだったも何もない。一言で言うなら、「めんどくさかった」、以上だ。しかし目の前の彼女はいたく真剣な眼差しで、更に質問を重ねてくる。
「時間かかった?どれくらいで書けたの?」
「あー……いや、僕はそんな大したもの書かなかったから、二日くらいでちゃちゃっと、適当に」
それは紛れもない事実で、実際僕の投稿したページはたった二ページだし、できあがったものをパラっと見てみたが他の部員の作品より明らかに力の入れ具合が足りていない。何だ、みんなあんな適当な感じだったのに結構真剣に書いてるんじゃないか、と、そんなところでも疎外感を抱いたことを思い出す。
「適当に……二日間で……」
それなのに、何だかやけにショックを受けたような顔をされて、僕は慌てて理由も分からない弁解を重ねる。
「いや、本当に大したことなくてさ、二ページですごい短いし、クオリティも全然、」
「……私、一ページも描けなかったの」
「え?」
「私、漫研で。文化祭に出す漫画、描こうと思って。でも、描き始めたら漫画描くのってすごく難しくて。ストーリーは頭の中にあるのに、実際紙の上で動かそうとしたらどうすればいいか全然分からないし、コマ割りなんて途中からほとんど4コマ漫画みたいになっちゃうし、キャラクターがただ話すシーンひとつでも顔をどっち向きに描けばいいか毎回悩んで。〆切三日前にやっとネームができたけど、結局一ページもペン入れが終わらないまま〆切前日になっちゃって、」
成程、それで凹んでいるわけか。そこでようやく、僕は既に彼女の相談が始まっていたことに気付く。
「じゃあ、何も出せなかったんだ?」
「ううん。もう絶対無理だから、書きかけだった考察レポートを無理矢理終わらせて何とか提出はした」
ということは、問題は何も出せなかったことではなく、漫画が描けなかったことそのものか。
「漫画描くのは初めてだったんでしょ?じゃあ、別にそこまで気に病むことはないんじゃないかな。これから少しずつやっていけば……」
「違うの、別に描けなかったことは、いいの。そりゃショックだったけど、でも、問題はそこじゃなくて、ううん、原因はそこなんだけど」
何だそれは。何が言いたいのか分からない。とりあえず本人の考えがきちんと言葉になるまで、僕は黙って話を聞くことにした。
つまりは、こうだ。
元々彼女は漫画は好きだがあくまで読み専で、描いたことは一度もなかった。それが、最近友達になった子の勧めで文化祭で漫画を提出することになった。その子は漫研でも美術科でもないがとても絵が上手く、一人で誰にも見せない絵ばかり描いていたその子に、漫画を描いて漫研のスペースで発表するよう最初に勧めたのは彼女の方だった。その子は乗り気ではなかったが、彼女が漫画を描くことを条件に引き受けたらしい。曰く、「そんなに漫画が好きな弓生ちゃんの漫画が読んでみたいから」、と。
そこで初めて、僕は彼女の名前が「ゆみお」であることを知った。しかし彼女は話すことに夢中で、自分の名前を明かしたことにも気付いていないようだ。それなら、こっちも聞かなかったフリをして受け流すのが礼儀だろう。
「その子は、私が漫画が描けなかったって言っても怒らなかった。そっか、じゃあ残念だけどしょうがないねって。……それだけ」
それだけ、と発する彼女の声からは、到底額面通り〝それだけ〟を受け取ったとは思えない憤りが込められていた。
「で、その子が描いた漫画は、もう、すごくって……すごいってことは分かってたんだけど、自分が漫画描こうとして、よりそのすごさが分かった。今まで絵ばっかり描いてて、漫画は一回も描いたことないって言ってたのに。ストーリーもシュールで面白くてキャラクターも魅力的で、何より構図やコマ割りがすごかった。初めて漫画を描いてあのレベルなんて、すごい通り越してもう怖いくらいで、」
それなのに、と。
早口で動かしていた舌を一旦止めて、彼女は一息吐いた。
「本当に……すごい漫画で、面白くって。私はそれが読みたかった筈なのに、」
そうして今度はゆっくり、自分の中にきちんと落とし込むように、
「……私は、あの子が描いた漫画を好きになれなかった。あんなにいい漫画を、好きだって思えなかった。漫画を描こうとしなかったら、きっとこんな気持ちにはならなかった。純粋にあの子の漫画を読んで、感動して、褒めて…………無邪気に『もっと描いて』、って言えた」
言い終えて、ふ──、と吐かれた深い息は、弱音や愚痴というよりも、懺悔のそれに近い気がした。
つまり、友達の才能に嫉妬心を抱いて、作品を素直に読めなくなったということ。
それならば相手の作品はもう一切見ず、その友達とも距離を置いて自分の創作だけに向き合うか、あるいは描くことを止めて友人関係を続けていくしかないだろう。でも、本人はただ聞いてほしいとだけ言っていたし、ここは余計なことを言わず聞き役に徹するが吉か。
「……その子、クラスに友達がいないの」
「え?」
一瞬、自分のことを言われたのかと思った。何で今日初めて会ったこの人がそれを知っていて、面と向かって言われたんだ、と、心臓の裏側がひやっとした。
「クラスで浮いてて、ちょっと腫れ物扱いみたいにされてて、でもそれが全然平気な子だったの。スマホも持ってなくて、誰とも繋がってなくても一人で絵を描いていればそれでいい、みたいな感じで。私は違うクラスで、その子の絵を見たことがきっかけで、私の方から声をかけて、仲良くなりたいと思って近付いたの」
「…………」
それは、いいな。すごくいい。小説の中には「それまで一人だったキャラクターにとあるきっかけで友達ができる」というエピソードが度々出てくる。そんな展開になるたび、僕はついページを閉じてしまう。何だ、とあるきっかけって。友達がそんなに簡単にできるんなら苦労はしない。そんな都合のいい話現実にあるわけがない。ついそんな狭い視界とひねくれた思考が頭をもたげてきて、それ以上読もうという気がなくなってしまう。
でも実際、目の前の女子はそんな非実在生物だと思っていた誰かにとっての「都合のいい存在」だった。向こうから自分に興味を持ってくれて、話しかけてきて、仲良くなりたいと思われるなんて、僕にとってはどんななろう系小説よりも魅力的な展開だ。
「でも、この前、その子スマホ買ってもらったんだって。私と連絡取り合いたいからって。それで、ネットで動画とかも見るようになって、特に歌ってみた動画にハマったみたいで。自分も投稿してみたいとか、来年の文化祭はステージで歌ってみようかななんて言ってる」
「それは……また、すごい勇気だな」
この耀坂高校で、音楽科でもない生徒が一人で文化祭のステージで歌おうなんて常人の発想ではない。そんな子だからこそ、「都合のいい展開」を引き寄せたのだろうか。
「そういう子なんだ。今年だって、私が漫画を描いてって言う前は何をするかも決めてなかったのに、何かしなきゃって思ってステージの個人参加の申し込みしたくらいだし」
とは言え、考えてみれば僕が今やっていることも方向性や目的は違えど似たようなものだ。だとしたら運とタイミングの問題か。
「……あんなに絵が上手くて、すごい漫画が描けるのに。あの子にはその才能に対する執着が何にもないの。それよりも、私と仲良くなれたことや、新しくできた趣味の方が嬉しくて楽しいみたい」
「………」
それは、きっととてもいいことで。
そのいいことを、目の前の彼女は、一瞬で壊す力を持っている。
「……声をかけたのは私で、漫画を描くように勧めたのも私。でも、これからも今までどおり、あの子と仲良くできる自信がない。違うクラスだし、距離をとろうと思ったらいつでもとれる。ラインだって無視すればいい。……そんなのひどいって、分かってるけど。一緒にいたら私はきっとずっと苦しいし、いつか絶対あの子を傷つける。そうなる前に……」
「あの、」
彼女の意志は多分決まっている。それを自分一人で抱え込むのが苦しかった。周りの誰かに言うこともできなかった。だから、この部屋の扉を開いた。
僕はただその話を聞くだけ。何も言わず、黙って聞いて、彼女の心をちょっとでも軽くして見送るだけ。それが彼女にとって一番いいことで、一番必要なことだということは分かっている。そして僕にとってそれが一番楽で、楽なのが一番だということも。
分かっている。分かっている、けど。
「あの、一番大事なことを聞いてないと思うんだけど、それで、君はこの先も漫画を描くの?それとも、もう描かないの?」
そもそもの原因は、彼女──「ゆみお」が漫画を描き始めたから生まれた亀裂だ。その漫画を、「ゆみお」はこの先どうするのか、それをまだ聞いていない。
「……漫画は、描きたい。けど、私には描けないってことが分かった。きっとずっと、描きたい描きたいって思いながら、描けないでいるんだろうと思う。だから──」
「そんなの分かんないじゃん。少なくとも君は、漫画を真剣に描こうとしたことで、漫画を描くことがすごく難しいって分かったんでしょ?それなのに、描きたいって気持ちは今でも持ってる。それって、それだけでもすごいことだと思うよ」
僕はまるでやる気が出ない作家を奮い立たせる編集者の真似事のように、勢いをつけてまくし立てる。結局のところ、勢いしか武器にできるものがなかった自分が情けないが、今はそんなことを嘆いている場合ではない。
「……そんなこと、ないよ」
縋るようにも拒むようにも聞こえる彼女の声は、きっとそのまま、彼女の抱えた想いの表れだ。友達を遠ざけて切り捨てる決意を、迷っていたわけではないだろう。でも、何も悪いことをしていないその子を、突然またひとりぼっちに放り出すことの残酷さも分かっていた。誰かにそのことを話して、黙って送り出されたら、彼女にとっては背中を押されたことになる。けれど、引き止められたなら──
「まずは描けなかった漫画を完成させて、その子に見せるべきだと思う。その後どうするかは君の好きにすればいい。でも、少なくとも君が描いた漫画を見せることを条件にその子に漫画を描かせたんなら、それだけはきちんと果たすべきだと思う」
窓を開けておけばよかった、と思う。
今日は曇りで、湿気が多くて、決して気持ちのいい空気の日ではないけれど。それでも、少しでも外の風を入れて、彼女と話をすべきだった。
「そうじゃなきゃ、君は一生漫画が描きたいって気持ちと、その子に敵わないって気持ちに囚われることになると思う。僕は墓に入るまでには君の話を忘れてるだろうけど、君は本当に墓の中まで持っていくことになっちゃうよ」
窓を開けておけばよかった。外から入る、偶然に吹く風が彼女の心に僕の言葉を届けてくれるような、そんな可能性を残しておけばよかった。
「……約束、」
わずかな沈黙の後、彼女はかすかに口を開いた。
窓は開いていない。風も吹いていない。僕の言葉は薄っぺらい。
それでも、何かが彼女の琴線に触れてくれたらしいことが、分かった。
「約束、したの。小学生みたいに、指切りげんまんして。私も漫画を描くよって」
待っててって。私も、そこにいくからって。
何か大切なことを思い出したように、彼女は呟く。
「あの子と……私と、約束したんだ」
「うん。じゃあ、描こうよ。描き切ろう。描き切った人にだけ見える世界が、きっとあると思う。どうするかは、その世界を見てからまた考えればいいよ」
「描き切る……」
そうだね、そうだよね。
こくん、と頷いた彼女に、僕は僕の言葉が届いた安堵と不安を同時に覚えた。
「ありがとう。……私、描けなかったことがショックすぎて、描きかけだったってことが頭から抜け落ちてた。人のことをとやかく考える前に、まずは自分のものを完成させなきゃなのに」
完成させたところで、結局その出来に打ちひしがれて何も変わらないかもしれないし、逆に描き切ったことでまた別の何かが生まれるかもしれない。
「うん、頑張って。って言うのも、無責任かもだけど。でも、応援してるから」
「応援……」
ありがとう、嬉しい。
そう笑って、彼女はぺこりとお辞儀をした。
「本当にありがとう。何か、思ってたよりうんと楽になれたよ」
「ならよかった。愚痴や弱音聞くだけって言ってたのに、結局口挟んじゃったから」
「ううん、真剣に考えてくれてるんだなって、嬉しかった」
ありがとね。
もう一度そう言って、彼女は入ってきた時よりも足取り軽やかに教室を出て行った。
「……っは〜〜〜〜………っ」
勢いよく机に突っ伏し、僕はさっきまでの自分の言動をまるで他人事のように反芻し、言いようもない自己嫌悪と罪悪感に苛まれる。
大丈夫、「ありがとう」って三回も言われたし、本人は満足していた。全く本人の意志にそぐわないことなら、誰が何を言ったって無意味だった筈だ。他人からの助言であっても本人が納得して受け入れたのなら、それはもうその人自身の決断と言っていい筈。
そう考えようとしても、どうしても僕の勝手な感傷のせいで、「ゆみお」が自分と相手の為に出した結論を先延ばしにさせた、という事実は拭えない。
気が合わない人間と一緒にいるくらいなら一人の方がよっぽどいい。その考えは今も変わっていない。嫉妬心を抱いている相手とは距離を置いて関わらない方が、自分の為にも相手の為にもいいことなんて分かりきっている。
分かりきっている、けど。それでも、どうしても、阻止せずにはいられなかった。
だってあんなの、あまりにも可哀想だ。
クラスに友達がいない中、ある日話しかけてきてくれた人。自分が一人でしてきたことに気付いて、認めて、褒めてくれて。必要なかったスマホを持つようになるくらい、繋がっていたい友達。そんな唯一無二、世界の中心のような相手に、突然わけもわからず捨てられることがどれほどの絶望か、想像するだけでぞっとする。
友人とは、卒業しても付き合っていきたいと思う相手、なんて高瀬先輩は言っていたけれど。そんな贅沢な関係なんて、ハナから期待していない。ただ、高校生活三年間。できることならこの三年間だけでも。
僕は、「ゆみお」がその子の心を殺すのを、止めたかったのだ。
目の前で苦悩を語る「ゆみお」ではなく、名前も顔も知らない「その子」───いや、「その子」に感情移入してしまった、自分自身のために。
「ゆみお」には、「その子」にとっての都合のいい存在のままで、いてほしかったのだ。
……来年、もしまたこの城を築くようなことになったら、入り口の張り紙に「相談に対する責任は一切とりません」という一文を付け足そう。できればその必要なんてなくなることを祈るけれども。
そして、来年の今頃への、そんな祈りと同じくらい。「ゆみお」は「その子」と、ついでに、高瀬先輩は友人と、どうか仲良く肩を並べていられますように、と。僕はやっぱり全く無責任に、結局願うだけしかできないことを、願った。
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