3.恋してる場合
文化祭で演劇部の舞台に出ると決めたのは、とても単純な話だ。
演劇部部長、二年三組の本多莉奈。彼女は入学してきた時から学年のみならず学校全体でも有名になるほどの美少女で、勿論俺も彼女のことは知っていた。それまで部員が少なく存在感皆無だった演劇部は去年彼女が入部したことによって一気に部員が増え、三年生の引退後は二年を飛ばして当時一年だった本多莉奈が部長となり、それで誰からも文句が出なかった程の影響力とカリスマ性を持っている。
そんな本多莉奈と、今日声をかけられるまで話したことは一度もなかったし、放課後にこうして人気のない図書室の入り口横の階段で二人きり、なんてベタな状況にいるなんてちょっと前までは考えられないことだった。
去年の秋、初めてゴールデンタイムのドラマにちょい役で出てからというもの、認知度が格段に上がって学内や家の近所でよく話しかけられるようになったのは事実だ。それまでかっこいいなんて言われたこともあんまりなかったのに、ドラマの役補正とメイクやスタイリストさんの手腕もあってあれよあれよとイケメン枠に入れられ、「ドラマ見てました」、とか「応援してます」、とか、たまに告白なんてものまでされるようになった。
しかし俺は「浮かれるな、調子にのるな、冷静であれ」、と自分を律していた。小学生の時から芸能スクールに通い、下から色んな役者を見てきた俺は、ちょっと売れたからって調子に乗り、あっという間に自滅していった人間を沢山知っている。こんな風にちやほやされるのは一時のブームに過ぎない。それよりも今まで積み上げてきたものを大切にして、ただこつこつと精進していくことが大事だ、と自分に言い聞かせてきた。の、だが。
「北条先輩に、今度の文化祭で演劇部に客演として出て欲しいんです。プロにこんなこと頼むなんて、失礼だって分かってるんですけど…でも、どうしても出てほしくて。……駄目ですか?」
そう言って上目使いにこてん、と首をかたむける本多莉奈を目の前にして、俺は気が付けば「いいよ」、と即答していた。
「え!?ホントに!?」
ぱあっ、と開かれた本多莉奈の笑顔に、俺は無意識に半歩後ずさる。
「あ……えー……ああ、うん。俺、部活とかやったことなかったし……その、高校の思い出に、そういうの出るのもありかなって……うん、」
「ありがとうございます!絶対いい舞台にしますから!」
わあ、すごいすごい、と興奮気味に口で両手を押さえながら笑う本多莉奈は今まで勝手に抱いていたクールなイメージよりも随分幼くて、親しみやすい空気を持っていた。そんな本多莉奈の態度が、俺の背中を押したのは間違いない。
「う、うん。あの……それでさ、その、別に、出る代わりとか、そういうんじゃないんだけど、一個だけお願いしてもいい、かな」
「勿論!何ですか?私にできることだったら何でもします!」
ああ、そんなこと言っちゃダメだよ、と俺は目の前の本多莉奈の輝く笑顔にくらくらしながら思う。でも今ここを逃したら一生言えなさそうな気がして、何よりこの本多莉奈相手に、今の俺だったら多分イケる、と完全に調子に乗って。
俺は初めて舞台に立った時と同じくらいの勇気を振り絞り、今までだったら無謀としか言いようがない『お願い』を告げた。
「その……文化祭終わったら、一緒にどっか遊びにいかない?い、一度だけでいいから」
いきなり舞台に出てくれ、と言うのとどっちが唐突なんだか分からない俺の〝お願い〟に、本多莉奈は大きな目をぱちくりさせた。でもそれも一瞬で、すぐに ふ、と笑うと、「はい、いいですよ」、とあっさり頷いた。
「えっ……ま、マジで?」
「はい。それくらい全然。むしろ、北条先輩の方こそいいんですか?私とデートなんかして、仕事に影響とか」
卑怯にも言葉を濁して『遊びに』、と言った俺を笑うかのように、本多莉奈はあっさりと『デート』という単語を口にした。
「いやいや、俺なんてまだ全然そんな大層なもんじゃないし!校内ではちょっと有名になったけど、街に出たら全く大したことないし……え、マジ?マジで?うわあ……や、やったあ!」
両手を上げて飛び上がって、つい舞台でやるようなオーバーリアクションを素でやってしまった俺を、本多莉奈は面白そうに見つめながら、「あ、でも」、と付け足した。
「そのことはみんなに秘密にしてもいいですか?何か、色々やりづらくなるかもだし。快く引き受けてもらえました、ってことで」
そう言ってぱんっ、と手を叩き、またしてもこてん、と可愛らしく首を傾ける本多莉奈に逆らえるわけもなく。むしろそれは俺にとっても都合のいいことだったので(何せ舞台に出る代わりにデートしろ、なんて傍から見たら最低な交換条件だ)、俺は「うん、もちろん!」と都合のいい男よろしく即答したのだった。
さて。あんなお願いをして、果たして俺が以前から本多莉奈のことが好きだったのかと言えば、もちろんそんなことはない。
いや、好きとか好きじゃないとか、最早そういう次元の問題ではないのだ。
入学式の時から、本多莉奈はとにかく目立っていた。綺麗な白い肌に大きな目、その目を縁取る何も加工されていない長い睫毛、すっと通った鼻筋にちょっとエロい厚めの唇。ほっそりとした手足に、染めていなくても色素の薄いさらさらな茶色の髪。どうやら祖母だか祖父だかがロシア人らしいと噂が流れてきたのは、入学式からまだあまり日にちが経っていない頃だった筈だ。とにかく人形みたいだという形容詞がぴったりで、いつも一緒にいる親友の皆川アリスがこれまたタイプの違う元気系の美少女というのもあって、男子たちはアイドルユニットを見るように、二人セットで彼女たちに好意と憧れの眼差しを向けていた。
昔から生で有名な女優さんにもちょこちょこ会っていたけど、そんな俺の目にも本多莉奈の美しさはずば抜けているように見えた。今までの俺だったら、ちょっと話しかけられて劇に出て欲しい、と言われたくらいじゃあんな大胆なことは言えなかっただろう。でも実態はあんなに明るくて、打ち解けやすそうで。これだったら、そして今の俺だったらイケるかもしれない、と、つい思ってしまったのだ。
恋なんて、別にしたいとか全然思っていなかったのに。いざ目の前に可能性をぶら下げられたら、こんなにも食いついている自分に驚いた。
(……うしっ、気を引きしめよう)
盛者必衰、諸行無常、驕る平家は久しからず。
ちょっとドラマで人気が出たからって調子こいてんじゃねーぞ、俺。
とは思うものの。調子に乗ったからこそこうして本多莉奈とデートの約束をこぎつけたのだから、たまには調子に乗るのもありなんじゃないか、と、さっきまでの自分を正当化して。俺の心はウキウキと、既に文化祭が終わった後に飛んでいた。
「——じゃあ、改めて。文化祭の劇に客演で出てくれることになった北条敦さんです。みんな、よろしくお願いします」
翌日、早速俺は本多莉奈に連れられて、体育館の狭い舞台裏で演劇部員達を前に紹介されていた。部員はざっと見て二十人くらい、内男子が半分もいて、演劇部の男子は少ない、というのは演劇部あるあると言ってよく、そうなると彼らは本多莉奈目当てで入ってきたと考えてよさそうだった。とは言え、俺を見る演劇部員たちの目はどれもきらきらと期待に満ちていて、元々人の期待に応えるのが好きな性質でもあるので、俺はこの話を引き受けてよかったなと改めて思った。
そんな中で——だからこそひとつだけ、不穏な空気をにじませて睨み付けてきている存在に気が付く。
並んでいる部員達の一番端から、じ、と、まるで怒っているかのような目でまっすぐに見つめてくる不躾な視線。女子にしては長身で髪は短く、ジャージを着ていると中性的な男子にも見えるようなそいつは、俺が負けじと見つめ返してもその視線を外すことはなく、むしろますます力を込めて睨み付けてきた。
「じゃあ、みんなを紹介していきますね。まずは——」
本多莉奈の紹介で、部員たちは一人ずつ前に出てお辞儀をする。中には同じ学年で見覚えのある奴もいたけれど、全員律儀に「よろしくお願いします」、と頭を下げるのだから随分礼儀が徹底されているなと思った。そんな中であんな無遠慮に睨んでくる奴はやはり異質だ、と思いながら、最後に紹介されたそいつの名前を、俺はあらゆる意味で一番深く頭にインプットすることになった。
「——で、最後が蓮沼宝ちゃん。一年生で、今度の劇のヒロインは宝ちゃんなんです」
「え、」
つい出てしまった俺の声に、蓮沼宝は む、と顔をしかめた。うん、確かに今のは俺が悪いなとは分かっていたが、しかしそれよりも本多莉奈の発言の方が今は重要だった。
「ヒロインって……あの子が?」
まだ劇の内容も聞いてないし、ヒロインがいる演目だということも知らなかったが、それでもてっきり本多莉奈がメインの女子キャストだと思っていた俺は、予想外の展開に驚きを隠せない。
「はい!宝ちゃんはすごいんです。まだ入ったばかりだけど、うちじゃ一番の演技力で!きっと北条先輩の相手に不足なしだと思います!」
そう言ってぐ、と拳を握る本多莉奈に、ずっと黙っていた蓮沼宝がようやく口を開いた。
「莉奈先輩……あの、大袈裟です。私、全然、そんなんじゃ……」
「あは、ごめんごめん。変なプレッシャーかけちゃったね。えと、そういうことなので、よろしくお願いします、北条先輩」
「……よろしくお願いします」
本多莉奈の後にようやく頭を下げた蓮沼宝に、俺も「よろしく」と返す他ない。……いや、別に、舞台上で本多莉奈と共演することが目的なわけじゃないからいいんだけど。でもせっかくだったら本多莉奈がよかったな……と、普段の舞台だったら絶対浮かばない不埒な考えをかき消すように、俺はぶん、と大きく首を横に振って改めて気を引き締めた。
「……で、演目は結局何なの?まだ聞いてなかったけど。オリジナル?古典?」
「あ、ええっと、これです。オリジナル……というか、白雪姫をアレンジしたもので。アレンジというよりパロディに近いかもしれません」
まあ、無名の演劇部だったらそんなものか。むしろパロディとは言えきちんとオリジナルを用意していることに驚いた。自分で聞いておきながら、恐らく演劇脚本集の中から一作選んでそれをそのまま使うものだろうと思っていたからだ。
渡された台本には「白雪王子」というタイトルが付けられていて、男女逆転だろうかとパラパラめくって簡単に目を通してみる。
男女逆転かと思ったら、白雪姫が王妃の嫉妬から男装して男として育てられている世界線の話だった。俺の役は白雪王子の幼馴染の猟師だ。七人の小人や王妃様、最後に出てくる王子様までキャラクター全員クセが強い感じで、ラブコメ調の中にも昨今の社会問題に対する風刺が効いている。荒削りながら素直に面白いと思った。
「へえ、結構面白い。誰が書いたの?」
「……私の友達が、文芸部で。その子に頼みました……」
俺の問いに答えたのは本多莉奈ではなく蓮沼宝だった。
あ、ちゃんと答えてくれるんだ、と、すっかり彼女から敵意を向けられていると思っていた俺はそれだけでちょっと意外な気持ちになる。とは言え、今度は睨みはしないにせよ逆に す、と目をそらされて、あまり好かれていない、という印象はぬぐえなかった。
俺が演劇部の舞台に出る、という話はその後あっという間に広まって、噂はやがて熱となり、突風が吹いて学校中がその熱に浮かれていったのを肌でひしひしと感じた。そんな熱に俺は自分が今置かれている立場というものを改めて思い知り、やっぱり自分自身も浮かれそうになってしまいそうなところを何とかこらえる。
それよりも、今は目の前の舞台に集中だ。仮にもプロである自分が文化祭の舞台で失敗するなんて許されない。芸能スクールからも舞台出演のOKはもらい(元々許可が必要なほど大層な身分でもない)、あとは本番に向けて稽古するのみだ。
台本はもう頭の中に入っている。俺の役……白雪王子の幼馴染の猟師・黒墨は面倒見のいい明るい人情家。ある日王妃から白雪王子の暗殺を依頼された黒墨は、そのまま白雪王子と一緒に逃げることを決める。逃げた先で七人の小人と出会い、彼らの世話になる内に黒墨は白雪王子が実は姫だということを知り、小人たちを巻き込んだ騒動へと発展していく……と言った内容だ。
特に白雪王子と黒墨が互いに「姫だとバレてはいけない」、「姫だと気付いてしまった」ところから発展するラブコメ部分が面白く、ここの白雪王子と黒墨の掛け合いがこの舞台の肝、と言ってよかった。しかしあの蓮沼宝の態度を考えると中々難しそうだと思ったが、その心配は稽古の三日目を迎えるころにはすっかり消え去っていた。
本多莉奈が言っていたとおり、蓮沼宝の演技力は他の部員達より抜きんでたもので、そこらのプロよりも上手いんじゃないかとすら思えた。演技の中でくるくるとコミカルに変わる表情は愛らしく、滑舌も声のとおりもいい。かと言って素人にありがちなただ読み上げてるような喋り方じゃなくて、台詞からちゃんと感情が伝わってくる。すごいな、というのが率直な感想で、これはやりやすいぞ、と俺は胸を撫で下ろした。だけど……
「……はいっ、OK!通し稽古もばっちりだね!」
本多莉奈の部長らしい声が力強くかかって、演技中の緊張感が解ける。ラストは白雪王子と黒墨が向かい合って笑うシーンのため、舞台上には俺と蓮沼宝の二人だけだ。だからだろう、その心地いい緊張感がなくなってしまうのが惜しいのは。
案の定、さっきまで俺をまっすぐに見つめて笑っていた蓮沼宝は、一気にその表情をなくして俺から目をそらした。結局通し稽古の段階に入っても、蓮沼宝が俺と打ち解けることはなかった。どころか役の上での距離が縮まっている分、余計に役を離れた瞬間の冷たさをひしひしと感じてしまう。
(オンとオフの差が激しい人ってたくさんいるけど……でもここまでされるとなあ……)
しかもまだプロの女優相手なら割り切れるけれど、下級生の女子となるとどうしても気になる。どうやら元々無口な性格らしく、他の部員と楽しくおしゃべりしたりする様子もあまり見られなかったが、俺に対するみたいにあからさまなよそよそしさはない。外部の人間相手だとそうなってしまうのかとそれとなく本多莉奈に聞いてみたが、むしろ大道具を作ってくれてる工作部の人や、台本を書いてくれた文芸部の人との方がうちの演劇部員より合うみたい、と少し困ったように笑っていた。
それなら実は俺の熱狂的な隠れファンで緊張してるのかな、と楽観的に考えてもみた。こういう仕事をやる上で物事をいい方にとらえるのはとても大事だと思っている。かと言って、「俺のファンなの?」なんて本人に聞くのは恥ずかしいし、周りに聞くのはもっと恥ずかしい。何よりそれが芝居に支障をきたしているのならば、俺だってそれなりに対処しただろう。けれど芝居そのものには全く問題なく、むしろ蓮沼宝に関して言えばお互いずっと演技していた方がやりやすいくらいなのだ。
そんなわけで、結局俺と蓮沼宝はぎくしゃくしたまま通し稽古まで終えてしまい、文化祭本番はもう後十日というところまでせまっていた。
(そういえば、何だかんだ芝居に夢中になって、本多莉奈とどこに行くかとか何も考えてないな……)
やっぱりここはベタに映画か、今何かいいのやってたっけ、後で調べてみよう。俺は気持ちを切りかえて文化祭後に控えている楽しいことを考える。そうだ、元々文化祭に出ることにした理由はそれなんだから、関係ないことで悩んでいたって仕方ない。どっちみち文化祭が終われば蓮沼宝と会うこともなくなる。芝居はばっちりなんだから何も問題はない……と自分に言い聞かせ、俺はいつもどおり他の部員達より一足先に着替えを終えた。初日に後片付けを手伝おうとしたら、本多莉奈に「客演のプロの人にそこまでさせられません」、ときっぱり断られてしまったのだ。なのでいつもどおり、「おつかれ、お先でーす」、と声をかけて、部員達の「おつかれさまでしたー」の声を浴びて体育館を出る。長い渡り廊下を歩いて校舎に入るとそこはすぐに昇降口だ。普段はこの時間ほとんど無人のそこに、今日は人の姿……はっきり言うと蓮沼宝の姿を見つけた。
「………、」
ここは何か話しかけるべきなんだろうか。いや、別に俺を待ってたわけじゃないだろうし、ていうかさっきあっちにいなかったのか、片付けはどうしたんだ、などなど考えたが、ここは普通にあいさつして去るのが一番だろうという結論にいたる。きっとちょっと用事があって抜けていて、体育館に戻るところを出くわしてしまっただけなのだ。意識せずに、自然に、今みんなにやったように「おつかれ」の「お」を言おうとした瞬間。蓮沼宝の方が、俺よりも一寸先に口を開いた。
「——北条先輩、あの、ちょっとだけお話しいいですか」
「へっ……」
まさかの蓮沼宝からの申し出に、俺はつい声を裏返してしまう。あまりにも自然な裏返しぶりに、これが演技でできたら最高だろうな、と、つい間抜けなことを考えた。
「あー、うん、いいけど……片付けは?いいの?」
「はい。莉奈先輩には許可をもらったので」
「あ、そうなんだ。えーと……ここでいいか?移動する?」
「ここで大丈夫です。……あっちには、聞こえないだろうし」
つまり、聞かれたら嫌なことか。蓮沼宝の発言に、俺はついびくついてしまう。傍から見たら下級生の女子に何びびってんだって話だけど、演技中以外の彼女に対してはすっかり苦手意識が出来てしまったのだからしょうがない。そしてその原因は間違いなく蓮沼宝の方にあるのだから、責められるいわれもない。はずだ。
「……今日、通し稽古して。北条先輩、どうでしたか」
「え……いや、ばっちりだったと思ったけど……」
何だ、芝居のことか、と俺は胸を撫で下ろす。それだったらどんな話だろうと大丈夫だ。いや、じゃあ何だったら大丈夫じゃないんだと言われても困るけど。
「……本当ですか?」
「え?」
「本当に、ばっちりでした?私、何かダメだったり、やりにくいとこなかったですか?」
「は?えー、あー……?い、いきなりどうした?」
いきなり勢いづいて喋り出す蓮沼宝の形相に俺が戸惑いを隠せずにいると、蓮沼宝は「——すいません」、と短い髪をくしゃりとつかんでうつむく。そうして大きくひとつ息を吐くと、今度はゆっくりと自分の気持ちを整理するように話し始めた。
「……ずっと、不安で。私、ちゃんとできてるかなって。一年生で……プロである北条先輩とダブル主演みたいな役もらって。しっかりしなきゃ、完璧にやらなきゃって思ってるんですけど……本当にこれでいいのかな、正解なのかな、って、稽古が進めば進むほど分からなくなって」
初めて聞く蓮沼宝の本音に、俺は驚く他ない。まさかそんなことを考えていたなんて、あのよそよそしい……言ってしまうとふてぶてしい態度からは思いもよらなかった。
「でも、北条先輩は何も言わないし、他の人に聞いてもいいよ、としか言われなくて……きっと大丈夫なんだって思おうとして……だけど、今日の通し稽古で、本番もこんな感じなのかなって思ったら、怖くて仕方なくなって。もしかしたらどうでもいいから、何も言わないだけなのかなって……そもそも、北条先輩に出てもらうようにお願いしたのも、莉奈先輩が私のためにしてくれたことで……北条先輩は、ただ気まぐれで参加してるだけなのかもしれないけど、」
「ちょ、ちょい待って」
どうしても聞き流せない発言に、俺は蓮沼宝の話を一旦中断させる。色々気になるところはあるが、それでも一番は。
「本多さんが蓮沼さんのために、って……どういうこと?俺、何も聞いてないんだけど」
「あ……」
しまった、と分かりやすく顔に出た蓮沼宝に、俺は少しだけ庇護欲を覚えた。何だ、普段からこんな顔もできるんだったらもっと早く出してくれればよかったのに、と思ったけれど、正直今はそれどころではない。
「あー……ちょっと、最初から整理するか」
結局ここは人がくるかもしれないからと、俺たちは昇降口から更に先に進んで体育館とは逆方向の、芸術塔に繋がる渡り廊下に移動した。普通なら下校時間で人が通るかもしれないが、芸術科の生徒の場合この時間はまだまだ練習や作品作りに精を出していて帰る人間はいなく、かと言ってこの時間から塔の中に入ることもない、丁度人の通りがなくなる狙い目の時間なのだ。ドラマ出演から何かと注目を浴びて常に人目にさらされているような状態になり、どうにか落ち着ける場所を探した結果、俺はすっかり校内で人気のない場所や時間帯に詳しくなってしまった。何を隠そう本多莉奈に声をかけられた時も、場所の指定をしたのは俺の方だ。
「で、結局どういうこと?」
そんな本多莉奈からの話の真相を聞くべく問いかけると、蓮沼宝はしばらく言いにくそうにうつむいていたが、やがて覚悟を決めたかのように顔を上げて口を開いた。
「……私、女優になりたいんです。夢、とかじゃなくて。いや、夢なんですけど。その、本気、で」
その言葉を普通の女の子が人前で言うことにどれだけの勇気がいるか、俺は知っている。小学生の時、芸能スクールに入っていることを言ったら一人のクラスメイトから馬鹿にしたような口調で『へえ、芸能人になりたいんだー』と言われた苦い思い出がふとよみがえった。人の目はあんなにも雄弁に「無理に決まってるのに」、と言えるのかと、俺はあの時生まれて初めて「目は口ほどにものを言う」という諺の信憑性に気づいた。
「子どもの時から、ずっと夢で。でも、色んな人に話しても本気にされなくて、ただ笑われるだけで。だから、本当に親しい友達以外には、もう誰にも言わないようにしてたんですけど……莉奈先輩と二人きりになった時、話の流れでぽろっと言っちゃって」
その様子はありありと想像できた。本多莉奈には、人を自分のペースに巻き込んで本音を引き出す力がある。
「そしたら……莉奈先輩は笑わずに、すごい、きっとなれるよ、って言ってくれたんです。お世辞でも、すごく嬉しくて。それで……色々話してたら、北条先輩と共演させてあげる、って言ってくれて……こんなチャンス滅多にないし、きっと勉強にもなるし、それに、その……」
「もしかしたら関係者が見にきて、目に止まるかもしれないし、って?」
そんなつもりはなかったのだが、自分でも思いの他、冷たい声が出てきて驚いた。蓮沼宝はかすかに肩を震わせて、黙ってこくん、とうなずいた。
「もちろん、それは莉奈先輩も冗談で言ったことで、私もそんなの望んだわけじゃなくて……ただ、プロの役者さんと共演できるチャンスだ、って思ったら、つい『お願いします』って言っちゃって……」
すみません、と頭を下げる蓮沼宝に、俺は別に怒ってない、と言いたかったし、言うべきだった。けれど、怒ってはないけれど。
でも、なんだあ、というか。落胆とまでは言わない、けれどがっかりしたような。
元々演劇部の為、文化祭での成功の為、そういう話だった。それがちょっとそれていただけのことだ。可愛い後輩の為、彼女の今後の為。前者と後者の間に違いなんてそんなにないし、実際本多莉奈の中では区別されていないだろう。だけど、演劇部部長である本多莉奈にとっての文化祭での成功は、彼女の功績——つまりは彼女自身に大いに関係あることだ。それに対して、蓮沼宝の経験やチャンスには、本多莉奈自身には言ってしまえば何の関係もない。そこにはただただ本多莉奈の彼女に対する思いやりや善意しかなく、俺という存在は本多莉奈にとって、蓮沼宝を通してしか必要がなかった。つまり、本多莉奈にとって、俺はまるきり蚊帳の外の人間でしかなかったのだ。
───一緒にどっか遊びに行かない?
そんな保険付きの交換条件を出してきた俺に、果たしてあの時彼女は本心ではどう思っていたんだろう。自分の為ではなく他人の為に声をかけた相手にあんな風に誘われて、あの綺麗な笑顔の奥で、実は小馬鹿にして笑っていたんだろうか。……いや、違う。本多莉奈はそんな人間じゃない。問題は、今、反射的に本多莉奈をそんな人間に仕立て上げようとしていた俺の方にこそある。自分の情けなさから目を逸らしたいが為にそんな思考が浮かんでくる自分が、もう、何もかも全部ひっくるめて、
(……かっこわる、)
そうとしか言いようがなく。
そしてそれは今まで決して高くすまい、高くすまいと自制しながら、それでもどうしようもなく高くなってしまっていた俺の鼻をへし折るには、充分すぎる力を持っていた。
「……北条先輩?」
俺が何も言わず黙って俯いていると、蓮沼宝から控えめに声がかけられる。俺はそんな蓮沼宝の顔を正面から見ることができず、「ああ、うん。それで?」と無理矢理話を続けさせた。謝罪に応えることなく振ってくる俺の問いかけに、蓮沼宝は特に文句も言わず答えた。
「えっと……それで、つまり……通し稽古して、本番もこんな感じなのかな、って思ったらすごく不安になって。……何か、北条先輩と、お芝居の中で繋がれてないような気がして……でも、考えてみたら北条先輩と私とじゃ文化祭の劇に対する想いとか全然違うし当然だよな、って……」
「違うって?」
「え……だって、プロの北条先輩からすると、文化祭の劇なんて遊びみたいなもので、」
「人前に立って芝居をするのを遊びだって思ったこと、俺一度もないけど」
自分の声がひどく冷たく響いて聞こえるのは、渡り廊下のコンクリートとその隙間に吹く夜風のせい、だけではないと自分でも分かっていた。
こんなのは、完全に八つ当たりだ。蓮沼宝はひとつも悪くない。勝手に喜んでいたのも、勝手に舞い上がっていたのも、勝手に期待していたのも、全部俺一人の問題だ。そんなことは分かっているのに、俺の口は俺の理解を無視して好き勝手に話し始める。
「俺はむしろ、芝居の中でだけ蓮沼と繋がってるような感じがしてたよ。普段はお前よそよそしくて、私語のひとつもできないから。それが芝居に支障が出るようだったら対策考えたけど、特に問題はなかったから何も言わなかった。お前が俺と芝居中繋がれてないって思うのは、お前が普段意識的に俺に壁作ってるからじゃないか?本多が俺に頼んだのは自分の為だってこと、俺に黙ってるのが後ろめたくて。そのお前の後ろめたい気持ちが、影響を与えてない演技にまで影響を及ぼしてるって思いこませてるんじゃないかな」
言いながら、それって相当すごいことだな、とどこか冷静に考えた。精神的に不安定なのに、演技にはまったく響いていなかったとは、図太いんだか繊細なんだかよく分からない。でも役者には向いているだろうな、と思った。何があろうとも演技には支障をきたさない。役者は親の死に目にも会えず舞台に立つもの、とは昔から言い古されているものの、それくらいの精神力がなければやっていけないのは事実だ。
「……すごいですね、先輩」
「え?」
すごいのはお前の方なんだけど。まるで心の中を読まれたような蓮沼宝の声に、俺はつい心の中だけで返す。それを口から出す前に、蓮沼宝はまるで喉につっかえていた小骨が取れたかのように清々しい様子で話し始めた。
「私、心と演技は全部繋がってるって思い込んでました。自分がすっきりしない時は、演技もすっきりしないんだって。……でも、そうじゃないんですよね。心と体が切り離されて、自分が自分じゃなくなるからこその演技で。白雪は、黒墨とちゃんと繋がれてたってことですよね?」
「うん、いや、まあ、それは人それぞれだろうけど。プライベートが思いっきり演技に影響出る役者もいるし、逆にそれが味になったりもする。でも、少なくともお前は私情が演技に出ないタイプなのに、出てるって勘違いしてたんだろうなとは思う」
念押しの俺の言葉に、蓮沼宝はいつもの仏頂面でもさっきのような不安そうな顔でもなく、心底ほっとしたように顔の筋肉を一気にほころばせた。
「……っ……よかったあー……」
その顔は笑っているようにも泣いているようにも見えて、どちらにしろ俺は演技以外で蓮沼宝のそういう、〝嬉しそうな顔〟を、初めて見た。
「ありがとうございます……私、がんばりますっ……」
──小さい頃から、磨かれた綺麗な子たちを肉眼で何人も見てきた。その誰よりも本多莉奈は綺麗で、そんな本多莉奈とデートすることを交換条件として、俺はこの舞台への出演を引き受けた。それなのに——今、目の前の蓮沼宝が本多莉奈よりも綺麗に見えてしまっている俺は。
文化祭の後、本多莉奈と一緒に、一体どこへ行けばいいんだろうか。
足元を吹く風が、そんな行き場のない俺の足を、嘲笑うかのように掠めていった。
俺が蓮沼を好きになったことは、もうどうしようもない事実として受け入れる他ないだろう。
別にいいじゃないか、文化祭の劇で相手役を演じる人を好きになった、ごく健全な動機でどこにもやましいところなんてない。
と、そう言い切れないのは、その相手が他でもない蓮沼宝であるからだ。
蓮沼がこの劇にどれだけの覚悟を決めて臨んでいるか、「女優になりたい」という夢をどれだけの強さで抱いているか、俺はしっかりと分かっているつもりだ。
誰かに夢を打ち明けるのは勇気がいる。それが『女優』なんて、この年になれば荒唐無稽と思われてもおかしくないものなら尚更だ。でも、蓮沼は俺に自分の夢を打ち明けた。プロと共演できるなんて嬉しい、絶対に成功させる、と気を張って、最初のしかめっ面も、中々取れなかった仏頂面も、全て緊張と責任感から来ていたものだと俺はもう知っている。
それくらいこの舞台に賭けている蓮沼に対して、恋愛感情を抱くことは、何だか蓮沼を裏切っているような気がしてならないのだ。
別に、恋愛が悪いことなんて思わない。そもそも、俺が今回劇に出ようとした元々の動機も本多莉奈とお近づきになりたいという理由からだ。
そう、決して恋愛することを悪く思ってるわけでも、軽く見ているわけでもないけど。
でも、少なくとも蓮沼にとって、この舞台は恋よりもきっとずっと大事なもので。少なくとも「蓮沼に恋をする俺」は、そんな蓮沼にふさわしい相手とは思えなかった。
「北条先輩?どうしたんですか?何か、ぼーっとしてますけど」
「へっ……あ、ああ、うん、ごめん。ちょい寝不足で。何だっけ?」
今日は一緒に帰りたいから待っててくれないかと本多莉奈に頼まれ、それならば何もしないでその場にいる方がやりづらい、と片付けに加わり、皆と同じ時間に校門を出た。ドラマ出演した去年の秋からしばらくは出待ちを避けて帰るのも一苦労だったが、今はもう飽きられたのか忘れられたのか、誰の影も形もない。部員たちは徐々にそれぞれが個々の帰路にばらけていき、いつの間にか本多莉奈と二人きりになっていた。
「工作部の提案してきたオブジェのことです。北条先輩的に本当に使って大丈夫ですか?イメージとか……」
「あー、それは全然。別に元々壊すようなイメージなんて持ってないし、あれくらいの下ネタ何でもないよ」
今日、工作部の協力者が「舞台にこれを使ってほしい」、と言ってきた。目の前に出されたのは巨大な金色のソフトクリームのように巻かれたオブジェ……いや、きっぱり言うのならまぎれもない金色のうんこだった。
これを小人たちの庭に置いて、笑いのひとつにできないか、という提案に、意外にも一番乗り気だったのは蓮沼だった。これぐらいの下ネタだったらお客さんにもウケるだろうし、これに乗って主役二人が真面目に話してたらすごく面白そう、と提案してきた工作部の奴と二人で力説してきて、俺はむしろオブジェよりもその工作部の奴と蓮沼の関係の方が気になった。
そう言えば以前本多莉奈が言っていた「文芸部や工作部の協力者との方が仲良さそう」というのは、そいつのことだったのだろう。いや、別に蓮沼が誰と仲が良かろうと何の問題もないのだ。ただ、森谷という名のその工作部の奴が、俺と同じ三年の男子だった、というだけで。
「そうですか。ならよかった」
「どっちかっていうと本多がOK出した方が意外だったけど。何となくそういうの苦手っぽいと思ってたから」
「えー?北条先輩の中で私そういうイメージでした?」
「いや、てか、本多がっていうか、女子的にさ」
「別に、男とか女とか関係ないですよ。そりゃ苦手な下ネタもあるけど、北条先輩の言うようにあれくらいだったら、むしろ受けそうで大歓迎」
ふふ、と楽しそうに笑う本多莉奈の笑顔はそれは可愛らしく、やっぱりいいなあ、好きだなあと思うのに、しかしそれはまだまだ共演なんて叶わない、映像の中の手が届かない芸能人に対するような一般的な感想で、初めて本多莉奈と話した時からは信じられないくらい、全くどきどきしなくなっている。
「それに、女子的にって言うけど、宝ちゃんもノリノリでしたよね?その時点で男女とか関係なくないですか?」
おもむろに本多莉奈の口から蓮沼の名前が出てきて、途端にそれまで凪いでいた俺の心臓が跳ねる。
「いや、まあそうなんだけど……蓮沼と本多はさ、何かこう、違うじゃん。系統っていうか、種類っていうか……本多の方が、何かすげえ『女子』!って感じがする」
「えー、何ですかそれ?」
宝ちゃんだって女の子ですよ、と笑う本多に、俺は知ってる、と言いたくなる。
知ってる。分かってる。そんなこと、誰よりも俺が意識している。
だから苦しい。
だから、辛い。
女の子として、異性として、恋愛対象としてなんて、俺はあいつを見たくなかった。
ただあいつに尊敬される一役者として、あいつの前に立っていたかったのに。
「そうだ、ところでどうします?文化祭が終わった後の……デート?どこ行きますか?」
本多莉奈のとろけるような声が、俺の鼓膜を甘くくすぐる。
彼女が俺を誘ったのは、俺の、下心丸見えの交換条件を受け入れたのは、全て蓮沼宝の為だった。
そして俺は今、本多莉奈と行きたい場所がまるで分からず、文化祭が終わった後、蓮沼宝とどう繋がっていけばいいのかが気になっている。
蓮沼宝が俺以外の男子と親しくしていることに苛立ち、本多莉奈からの問いかけに答える術を持っていない俺は。
本多莉奈に対しても、蓮沼宝に対しても全く不誠実で、けれどどちらにとっても、まるでどうでもいいことだろう。
「──ごめん、本多」
蓮沼宝に対して、この先どうすればいいかなんて分からないけれど。今、本多莉奈に対してすべきこと、これだけははっきりと分かっていた。
「その約束、なかったことにしてくれないかな」
本多莉奈の為にも、蓮沼の為にも、何より蓮沼に相応しい相手でありたい、俺自身の為にも。
恋、なんて。
今は、そんな無意味で、不毛なことをしている場合ではないのだから。
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