2.結んで、開いて、待っていて

「それじゃ、前にも言ったけど文化祭の作品の〆切は六月二十日の金曜厳守で~。落としたらペナルティだかんね~。そんでくれぐれも二次創作はなしだからね~」

部活終わりの帰り際、部長からのゆるいお達しに、二十人程の部員が「は~い」、とやはりゆるく返事をする。

 文化祭にはオリジナルの漫画か好きな漫画の考察レポートを提出する、それが耀坂高校漫画研究部の毎年の決まり事項だ。今年の文化祭は、どうやら今世間で大ブレイク……とまではいかないものの、少なくともうちの学校内では大人気の若手俳優、二年の北条敦が演劇部の劇に出るとかで準備からすごい盛り上がりを見せている。とはいえ、我が漫画研究部は例年と至って変わらないらしい。それでも一年生の私にとっては初めての経験であり、〆切って言葉だけで何だかちょっとかっこいいと思ってしまう。

「ねね、弓生はレポート派だっけ?」

「うん。漫画なんて描けないし。『歌う星の欠片』について書いてんの」

 部活の後はいつも一緒に帰っている同じクラスの皐月に部室を出ながらそう問われ、私は往年の名作少女漫画の題名をちょっと胸を張って答えた。

「うわ、そんな名作でやっちゃうの?絶対過去に誰か同じの書いてるっしょ。それにあんな昔の、漫研以外じゃ知ってる人少ないだろうから、あんまり読まれないかもよ?」

「そりゃ書いてるだろうけど、私が書くのは私だけの歌星論だし。知ってる人が少ないからこそ、あの面白さを伝えたいの」

「はー、弓生ってホント昔の漫画好きだよねえ」

「まあねー」

 昔から、常に漫画に囲まれて暮らしてきた。我が家はお母さんもおばあちゃんも少女向け、少年向け問わず大の漫画好きで、家の書棚にはおばあちゃんの時代から集められていた往年の名作漫画がずらりと並べられている。勿論今流行っている漫画も大好きだし、マイナーで面白い漫画を発掘するのも楽しい。ウェブ漫画もいいけどやっぱり紙で読むのが好きで、未だにお母さんも私と一緒に漫画を集めているから、我が家の書棚の漫画蔵書は増える一方だ。

だから、高校に入学して漫画研究部があると知った時はすぐさま入部を決めた。その時同じく漫画が好きだというクラスメイトの皐月ともすぐに友達になれて、今ではこうして気軽に話せてつるむ仲だ。皐月は主に最近の少年漫画を読むタイプで、昔の漫画のことはあまり知らなかったけれど、この一ヶ月で私が家の漫画を貸しまくったこともあってタイトルで通じるくらい詳しくなった。

「でも、それって先輩たちもそうじゃん?私、こんなに家族以外の人と漫画の話が合うの初めてだったから、入部した時はびっくりしたなー」

この学校の漫研は結構真面目に活動していて、ただ自分の好きな漫画を読んでいるだけ、という人はほとんどいない。部員内での漫画の貸し借りが盛んなこともあり(私も家の蔵書のことを話したら真っ先にターゲットにされた)、大抵の部員が普通の高校生なら知らないであろう昔の漫画も読んでいて、その上で最近話題の漫画を考察したり、漫画家を世代別に独自で分類分けしたりしている人もいて面白い。勿論漫画を描く人もたくさんいて、その中の何人かは本気でプロを目指している。何度か読ませてもらったことがあるけれど、すごくクオリティが高くてびっくりしたものだ。

「そんなに好きなら弓生も漫画描いてみればいいのに。いっつも読み専だよねえ」

「好きなのと描けるのは別でしょ。私は面白い漫画が読めればそれでいいし」

「弓生も絵描けるじゃん。プリントの裏とか机とかに時々落書きしてるの、結構上手いって思ってたけど」

「あんなの上手い内に入らないって。それに、皐月だってレポート派でしょ?」

「そ。『全足前進!』で。私は読み専って決めてるもーん」

「うーわ、人には描けって言っといて、勝手だー。ていうか、それこそ絶対誰かと被るでしょ」

 皐月の挙げた漫画は、今アニメ化もされていて大人気の陸上少年漫画だ。

「あは、まあ人のことならいくらでも言えるよねー」

ま、楽しみだよね文化祭、なんて話しながら学校を出ると、外はまだまだ明るくて、空には控えめな青と、赤になりきれない赤と、その二つが混じり合った、私が一番好きな色が広がっていた。日中の暑さと、夕方の冷えた空気の境目から吹く風が気持ち良くて、今日はいいレポートが書けそうだな、と、何の根拠もなくそう思った。


私がそのノートを見つけたのは、翌日、二時間目の移動教室先の生物室だった。生物の時間に座る定位置の席、その大きな黒い机の下に設置されている棚部分に、名前もクラスも書かれていない、ありふれたノートがぽつんと置かれていたのだ。

私はそのノートを手に取ると、ここにおいてあるからには生物の授業ノートだろうと決めつけ、ついぱらぱらとめくってしまった。するとそこには、遺伝子や細胞に関する文字列は一切なく、代わりに本当の『生き物』とも見えるものが瑞々しく動いていた。

「……ぅ、わ……」

「弓生?どしたの。そのノート何?」

 見入っている内についおかしな声をあげてしまい、同じ班のクラスメイトからいぶかしげに問われる。私は慌ててぱん、とノートを閉じて、「ううん、何でもない」、と笑顔を作った。

「何か忘れものみたいでさ、多分一時間目に使ったクラスの人のだろうから、後で先生に聞いてみる」

そんな私の言い訳に、幸いそれ以上の言及はなく、その内授業開始のチャイムが鳴った。そして始まった授業の最中、私の頭には先生が説明する染色体や葉緑体の話などまるで入ってこず、ひたすらさっき見たノートの中身がぐるぐると回っていた。

(漫画……?ていうか、絵コンテに近い……?女の子がごはん食べてる様子が延々と…それだけなのにすごく惹きつけられた……それくらい絵が上手い……!)

 そう、そのノートは生物のノートでも、勿論化学でも物理でも、その他どの授業ノートでもなかった。名称を付けるとするなら落書きノート、と言えるのかもしれないが、そこに描かれていたのは落書きとは言いがたい高レベルな絵だった。シャーペンでさらさらと引かれた線は無造作ながらも迷いは一切なく、ペン入れしているかのようにしっかりとしている。その線によって、ただ女の子が食事をしているところがぱらぱら漫画のように描かれているのだが、その描写があまりにも上手くて、何があるわけでもないのに続きが見たい、と思わせるものを持っていた。

 もしかして漫研の人?と一瞬思ったが、今まで見せてもらった漫研部員の作品にあんな絵のタッチのものはなかった。いいや、その言い方は適切ではなく——はっきり言うと、あんなに上手い絵を描く人は漫研にはいない、と、残念ながら断言できた。

 全く頭に入らなかった授業の後、私は先生に前の時間に生物室を使っていたクラスを聞いて、一年三組だという返答を得た。その事実に、私は二重の意味でびっくりした。

ひとつは、まず同じ学年であるということ。あんなに上手い絵、てっきり年上かと思っていた。そしてもう一つは、三組だということ。耀坂高校は一組から五組が普通科、六・七組がそれぞれ美術科と音楽科に分けられている。つまりこの絵を描いた人は、美術科ではなく普通科だということだ。

(普通科で、あんな絵……?)

 漫研でプロの漫画家を目指している上手い先輩たちは、全員漏れずに美術科の人たちだ。一年生にも漫画を描く子はいるけど、その子たちもこぞって美術科。というか、美術科の子と一緒にいると、普通科の生徒は『絵を描く』、という気が自然となくなってしまうのだ。どう逆立ちしたって向こうの方が上手いのに、自分の下手な絵をわざわざさらすような勇気も、またはやる気も持ち合わせていなかった。

(でも、この人は普通科でこんなに上手いんだ……このノートをみんなに見せたら、きっとびっくりする……!)

 そこでノートを部室に持っていく——なんてマネは、勿論しなかった。それくらいの常識はある。私は当初の予定どおり昼休みに三組に行って、開いていたドアからひょこりと顔を出して声を上げた。

「あの、すいませーん、このノート生物室に忘れてあったんだけどー……」

心臓がどきどきしていたのは、よそのクラスに入って皆の注目を浴びただけが理由じゃない。一体どんな人が、こんな絵を描いたんだろう。あの絵を描いた人に会える、と私は興奮していた。

「あ、あたしだー。ないと思ってたんだあ」

 私の問いかけに席を立ったのは、小柄で雰囲気の幼い、可愛らしい女の子だった。とてとて、と小動物のように小走りに駆け寄ってきて、「ありがとー」、と笑う。

「あなた、の?」

「うん、そう。あ、そういや名前書いてなかったっけー。でもあたしんだよ。中見なかった?変な絵とか描いてあるんだけどー、」

「な、全然変じゃないよ!」

 とっさにそう叫んでしまい、しまった、と思った。勝手に人のノートを見たなんて、本人は気にしなくてもやっぱりいいことじゃないだろう。

「あ、その、ノート、つい落としちゃって。わざとじゃないんだけど、中、ちょっと見えちゃったんだ、ごめん」

「そーなんだー?あは、別にいーよー。見られて全然困るものじゃないしー」

 ほがらかに可愛らしく笑うその子からは、ノートに描かれたきめ細やかな絵など全く連想できない。

「その……あの絵……あ、えっと、名前……」

「え?名前?橋本だよ、橋本楠実ー」

「あ、私は一組の朝倉弓生。あの、そのノートの絵って、橋本さんが描いたの?」

「うん、そうだよ?」

「橋本さんって、美術部?それか、絵とか習ってたり?」

「ううん?何にも?あたし帰宅部だし」

「何にも?誰にも、絵とか習ってないの?」

「うん。何でえ?」

 ここまで言えば、私が橋本さんの絵に何かしらの感銘を受けたことに気付いてもよさそうなものを。

 橋本さんはそのことに気付きながらあえて分からないフリをしているのか、それとも本当に分かっていないのか、不思議そうに大きな目で見上げてくるばかりだ。

「だって、すごく上手かったから。てっきり本格的に絵やってる人かと思って」

「あははー、そしたら美術科行ってるよう」

「それ、何で美術科行かなかったの?」

「えー、だって美術科って、真剣に絵を描く人が行くところでしょ?あたし、絵は遊びで描いてるだけだもーん」

 遊び?あの絵を、遊びで描いたっていうの?橋本さんの発言に、私はぞくぞくと自分が興奮していくのを感じた。

「あ、でも、芸術塔には時々入るよ。知ってる?あそこ一階は暗くてなんか怖いけど、四階のバルコニー出るとちょー気持ちいいの」

 知らないし、興味もなかった。私が今知りたいのは、目の前のこの子自身だ。思いも寄らないところからダイヤの原石を見つけた人って、きっとこんな気持ちなんだろう。

「あの……あのさ、これからも、時々話しかけていい?私、橋本さんと色々話してみたいんだけど」

「えー?うん、いいよー?わー、あたしと話してくれる人ほとんどいないからうれしー」

 橋本さんの人目をはばからず放たれたその言葉に、教室の中の空気にぴし、と薄いヒビが入ったのが分かった。わざとなのか天然なのか、多分後者なんだろう。そしてだからこそ、彼女はこの教室の中で話す人がいないのだと、この数分で私は理解してしまった。でも、そんなのは私にとってはどうだっていいことだ。

「ありがと。じゃあ、またね」

「うん、またねー」

 嬉しそうに手を振る彼女に私も軽く手を振って、自分の教室に戻っていく。これからのことを思うとわくわくする気持ちを抑えきれず、私はすれ違う人の目があることが分かっていても、緩む口元を抑えきれなかった。


「うわあ……これもすごーい……え、これとか中一の時に描いたってマジで?」

 あれから二週間、私は昼休みや放課後の合間を縫っては橋本さんと話すようになった。その際必ず橋本さんに「何でもいいから描いた絵を見せてほしい」とお願いし、彼女はそれに快く応じて毎回びっしりと絵が描かれたノートを持ってきてくれる。会う場所は自然と文化祭前で人気の少ない図書室になり、その日も私は昼休みに図書室の隅のテーブルにノートを広げて、「すごいすごい」と感嘆の声を上げていた。

「うん、それはねえ、えーと、確か夏休みにおばあちゃんの家に行った時、あまりにも暇だったから三日間ずーっと描いてたヤツかな」

「え、三日って、このノートの絵全部?」

「うん、そう。おばあちゃんちって何であんなに暇なんだろうねえ。それなのに親戚の人とかいっぱい会わなきゃいけないし、いいことないよねえ?」

 そんなありふれた世間話をされても、私の耳に彼女の言葉は全く残らない。それよりも問題はこの絵だ。三日間暇だから描いていたというそのノートには、恐らく彼女のおばあさんの家やその周辺の風景と、オリジナルキャラクターらしい女の子がその中で色々な遊びに興じていた。三日でこんなノートが丸々一冊埋まるくらいの、しかも極めてクオリティの高い絵を描くなんて私からすれば奇跡としか思えなかった。

「はー……すごいねえ。私も絵は時々描くけど、三日間でこんな量描けるなんて信じられない」

「そうかなあ?やってみればみんなできるんじゃない?」

「いやいや、無理だって。しかもこんな上手いの。……ねえ、橋本さんってさ、自分がこういう絵が描けるっていうの、本当に誰かに知ってほしいって思ったことないの?」

 橋本さんはもう耳にタコだろうが、それでもせずにはいられなくて、私は出会ってからもう何度目かも分からない問いかけをする。

「ただ描くのが好きなだけって言ってもさ、やっぱり描いたら誰かに見てもらいたいものじゃない?」

「え~、う~ん、そりゃこんな風にほめられたら嬉しいけどお、でも誰かに見てもらいたくて描いてるわけじゃないし……描きたいから描いてるだけでさあ。前も言ったけど、あたしのなんてホント趣味だからさあ~」

「趣味でも、ネットとかでみんな作品アップしてるじゃん。ピクシブとか知ってる?投稿式のイラストサイトなんだけど、ああいうとこに投稿してみたり……」

「あたしネットとかあんまやらないからよく分かんないんだよね~。スマホも持ってないし~」

「え、そうなの?」

 それでどうやって生活してるの?とつい言いそうになったが、流石にその前に口をつぐんだ。彼女にはスマホでやりとりするような友達はいないし、私たちみたいにネットやゲームで暇つぶしするくらいなら絵を描いてる方がよっぽど楽しいのだろう。

「あ、でもね、最近弓生ちゃんと話しててえ、やっぱりあたしも何かやらなきゃいけないのかなーって気になったの。一人で絵を描いてるだけじゃ駄目なのかな~って。だからね、今度の文化祭のステージで何かやろうかなーって希望出したんだけどお~」

「は?」

 ちょっと待って、何でそうなるの?

「ステージって……ステージ発表?文化祭で?な、何やるつもりなの?」

「それが何にも考えてなくてえ、とりあえずステージ許可取れてから決めよーって思ってたんだけど~、この前生徒会長からステージ許可は出せないって言われちゃってさ~。生徒会長ってあんな怖い人なんだね~、知らなかった~」

「そ、そっか」

 それはよかったね、とつい言いそうになるところをこらえる。これは逆にいいタイミングだ、と、私はここ二週間ずっと言おうと思っていたことを自然な流れで言うチャンスを手に入れた。

「じゃあさ……ステージが駄目だったんなら、橋本さん漫画描いて、文化祭で漫研のスペースに発表してみない?部長には私から話しとくからさ」

 それは二週間前、橋本さんの絵を見てから密かに考えていたことだ。橋本さんの絵を、こうして私だけが見て他の誰の目にも触れさせずにいるなんてもったいなさすぎる。ノートだけでも充分すごいけど、ちゃんとした原稿用紙に描いて印刷し、手製と言えど本という形にしたら、そのすごさはもっとはっきりするだろう。

「え~……でも、あたし描いてるのは絵だけで、漫画なんて描いたことないよお?お話なんて考えられないし」

「大丈夫、橋本さんの絵にはそれだけでストーリー性があるから、繋ぎ合わせるだけで充分物語になるよ。コマ割りとかも今は難しく考えることないし。漫画って、すごく自由なんだよ?」

「う~ん……でも、部外者のあたしがそんなことしていいのお?」

 そんな私からの提案に、橋本さんは戸惑った様子で不安を口にした。何をするかも決めないまま、いきなり一人でステージ発表をしようとしていた子とは思えないずれた気弱さだ。

「大丈夫!私が保証する!橋本さんの絵見せたら絶対みんなびっくりするよ!」

「え~……そうかなあ?」

「そうだって!もうストックはいっぱいあるわけだから、この中から選んで原稿用紙に清書してもいいし、もちろん新しくネームから描いてもいいし…」

 言いながらテンションが上がっていき、つい身を乗り出して顔を近づけると、橋本さんは大きな目をきょと、と瞬かせて不思議そうな声を出した。

「弓生ちゃんって、何でそんなにあたしの絵をみんなに見せたがるの?何で、そんなに一生懸命になってくれるの?」

 何で。どうして。橋本さんの疑問は、私にとっては愚問としか思えないものだった。そんなの、考えるまでもない。

「私、漫画が好きだから。橋本さんみたいに上手い絵描く人見つけて、放っておけるわけないよ。それに言うじゃん、ホラ、『ブラームスにコッセルやヨーゼフがいたように』、って」

「ブラームス?」

 私としては超有名なクラシック漫画から得た知識だったので、漫研のメンバーなら一発で分かる例えだったのだが、橋本さんは意味が分からなかったようだ。

「ブラームスって、音楽家の?」

「えーと、つまり、才能のある人がその才能を開花させるには、人との大事な出会いがあるっていうか……とにかく、橋本さんの絵は、絶対沢山の人に見てもらうべきだよ。私はその手伝いがしたいんだけど……どうかな」

 つい漫研で話すノリで例えてしまったことを反省しつつ、そう窺うように言うと、橋本さんは「うーん」、と首を傾げてうつむいた後「分かった」、と顔を上げた。

「ほんと?」

「うん。あたし、今まで人にほめられたことってほとんどなくてさ~。弓生ちゃんに絵をほめてもらえて、すごく嬉しかったんだあ。弓生ちゃんにそこまで言われたら、やるっきゃないな~って」

「うん、うん!じゃ、早速明日部長に話しとくね!」

「でも、そのかわりってわけじゃないけどお……弓生ちゃんにあたしのお願いきいてもらっていい?」

「何なに?私ができることだったら何でもするよ!」

 私が勢いのままにそう応えると、橋本さんは「ほんと?」と嬉しそうにぱっ、とその可愛らしい顔を明るくした。

「じゃあ、弓生ちゃんも漫画描いてよ!それで、文化祭で一緒に発表しよ!」

「へ……?」

 橋本さんの〝お願い〟は、何かお菓子をおごるとか、宿題を手伝うとか、そういう私の予想からは全くかけ離れたものだった。というか、その意図がまるで分からなかった。

「な、何で?」

「えー、だって。弓生ちゃんが漫画のことをしゃべってる時って、ホントにすっごく好きなんだなあっていうのが伝わってくるんだもん。だから、弓生ちゃんが描く漫画、あたしも読んでみたいなあって」

「あ、あのね、私はあくまで漫画を読むのが好きで、描くのは全然……」

「えー、でも絵は時々描いてるんでしょ?だったら漫画も描けるよ!漫画ってすごく自由なんでしょ?ね!お願い!できることなら何でもできるって言ったでしょ?」

「———-……、」

できること。確かに言った。でも、漫画を描くのは、私にとって〝できること〟なんだろうか?——-そんなの、やったこともないんだから分かるわけもない。

橋本さんが大きな目をきらきらさせて私を見てくる。その目に、一体世界はどんな風に映ってるんだろう。どんな風に見れば、あんな人の心をとらえる、胸を弾ませる絵が描けるんだろう。

私には、分からない。読むばかりで、描いたことがない私には。そう、分からない。分からない、けど。

でも……少なくとも、今の段階ではきっと——できないこと、じゃない。

「……分かった。じゃあ、やってみる」

「わあ、やったあ!約束ね!」 

 そう言って差し出された小指に、私は一瞬躊躇した。約束することに、ではなく、約束する時に小指を結ぶなんて、多分小学生以来やったことがなかったから、とっさに手が出てこなかったのだ。

「うん、約束」

一瞬遅れて絡めた小指の感触に、ああ、この指でこの子はあの絵を描いてるんだな、とぼんやり思う。その後小指を切った絶妙なタイミングで掃除時間のチャイムが鳴り、私たちはそれぞれ自分のクラスに戻って行った。


教室に入ると、戻ってきた私に気付いた皐月が「また図書室でレポート練ってたの?」と聞いてきた。橋本さんのことは皐月にも話していない。最近昼休みにお弁当を食べ終わると早々と教室を出て行くのは、「文化祭に出すレポートが家じゃ中々進まないから、学校でも一人で構想を練りたい」ということにしてある。でも、この言い訳ももう使う必要はなくなった。

「うーん、実は、レポートはやめにした」

「え?」

「私、漫画で出すことにしたから、文化祭」

「え、えー?いきなりまた何で?」

「まあ、ちょっと心境の変化というか……やっぱ漫研入ったからには一回くらい描いときたいなーと思ってさ」

 橋本さんとのことは、結局皐月には言わなかった。橋本さんが漫研の発表に参加することはここで言わずとも後でバレるだろうが、橋本さんに言われたから漫画を描くことになった、というのは、何となく皐月には言いづらかった。

 漫画を描いたらどうか、とは今まで皐月にも度々言われていたことで、私はその進言を一度も受け入れたことはない。それを交換条件とは言え、他の人に言われてあっさり描く気になったなんて、どうにも皐月に対して失礼なことのように思えたのだ。そしてそんな思考に行きつくことそのものが、皐月と橋本さんを比較して、橋本さんの言葉の方を真剣に受け止めた、と認めているようなものだった。

 勿論皐月も本気で言っていたわけではなく、半分冗談のようなものだっただろう。でも、それを差し引いても絵を描く側である橋本さんと描かない側の皐月とでは、「漫画を描いて」という言葉が持つ重みはまるで違う。私は無意識にそこを比較して、橋本さんの『お願い』に交換条件という形に乗っかってうなずいたのだ。

 私は、あの時確かに嬉しかった。

 他でもない橋本さんに、漫画を描くことを勧められて。

 橋本さんは私の絵を見たことがないし、私がどれくらい描けるかなんて全く知らないわけだけど。それでも私という人間を見て、『漫画を描いてほしい』という気持ちを持ってくれただけで。橋本さんのような絵の上手い人に、まるでその実力を認めてもらえたような気がして。それだけでも、すごく嬉しかったのだ。


「へえー、いいじゃん。私も前から弓生は漫画描けばいいのにって言ってたしねー。弓生がどんな漫画描くか楽しみ。ねね、どういう話描くの?」

「えー……それは……」

 どんな話を描くか。皐月にそう問われて、私の中で漠然と揺らめきながら溜めこまれていたイメージが一気に動き出した。そうだ、私は漫画を描くんだ。

 まずは森の中。旅人が歩いているところ、一人の男の子と出会う。その子は生意気で、傍若無人で、でも何かを抱えているようで、旅人はその子に文句を言いながらも一緒に連れ立つことになって……

「まだ、分かんない。ていうか、描き終わるまでヒミツッ」

「えー、何それー」

 笑いながらもそれ以上聞いてこない皐月に、私は心の中で感謝する。アイディアって、こんなに言葉にするのが勿体ないものなんだ。ああ、早く描きたい。この頭の中でうずまくモノを、早く早く形にしたい。今まで一度も漫画なんて描いたことないくせに、描こうと決めた途端こんなにも描きたくてそわそわしてしまうなんて。

 描きたいって思うだけでこんなに楽しいのに、描き始めたら一体どうなってしまうんだろう。橋本さんはいつもそんな気持ちだったんだろうか。そりゃあ、スマホなんか持ってなくても、クラスに友達なんかいなくても、全然平気なのが今ならよく分かる。

私も早く、そんな未知の世界を知りたくて。

「今から行くよ」、と唱えるように、さっき橋本さんと絡めた右手の小指を、左手できゅ、と握った。


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