カレーライスの威力について

いさを

第一話

「と言う訳で、本件はカレーでどうにかなります」


 きっぱりと言い放った俺の言葉に、しかし綾音は訝しげに首を傾ける。


「本当かなぁ?」


「本当です。ちょっと気になる女のコに『カレー作ったの。食べに来ない? 今日ウチ誰もいないんだけど、ついつい作りすぎちゃって。てへ』なんて事を上目づかいでシャツの袖をクイクイ引っぱられながら言われちゃったら大抵の野郎は簡単に付いてきます。ていうか俺だったらイチコロでやられます。女子の手作りカレーには、それ程の威力があるのです」


 俺だったら、の一言に軽い自己嫌悪。

 偉そうに断言したけれど、実はただ単に俺好みのシチュエーションを言ってみただけだし。


「はあ。ま、あんたがそこまで言うんなら、一応信じときますか」


 そんな俺の心境を知る由も無い綾音は、さっきの戯言をバカ正直にメモまで取っている。さらに自己嫌悪。


「じゃあ、今日はカレーという事で。よろしくね、康一」


 そう言って彼女はエプロンの紐を後ろ手に縛りつつ、「ぃよし!」と小さく気合いを入れる。俺はその仕草をやけに可愛く感じてしまい、慌ててその感情を胸に封じ込めた。





 事の起こりは、一昨日の放課後。


「あのね、康一。ええと、そのぉ。料理をね、教えてほしいんだけど……」


 綾音はあたかも儚く消えゆくカゲロウのような、凡そ彼女には似つかわしく無い口調で俺に頼み込んで来た。


「えーと、あれか。天変地異? 大地震でも起きるのか? それとも実は綾音は双子で、今日は大人しいお姉ちゃんの方なのか?」


「真面目な話なんだけど」


 うあ、瞬殺された。普段ならノリツッコミの一つも返してくれるのに。


「一体何事だ? 料理は二度としないんじゃなかったのか?」


 俺の冷ややかな対応にも怯む事無く、綾音は話を続ける。


「いやぁ、やっぱジョシたるもの、料理の一つも出来ないとマズいかな~、と」


 わざとらしく頬をぽりぽりと掻きながら。実に不自然だ。


「ふーん。それだけ? あれほど嫌ってたのに?」


 いやらしく、さらに追求。


 すると彼女は抵抗の無駄を悟ったのか、頬を赤らめつつも思いの他素直に本音を暴露した。


「や、そのぉ……実はこぉ、好きな人が、できましてん……」


「……は?」


「んでね、自分の想いを伝えるのには、やっぱ料理が最適なんじゃなかろうか、などと思いましてん……」


「…………なんか、女の子みたいな事言うね、お前」


「女の子だし!」


 またしても瞬殺。いつもだったらこのアホの子は『なによ! 体はこんなでも、あたい心だけは立派な女のコだモン! いつかモロッコに行って体もちゃんとした女のコに云々』とか、ダイナミックかつウィットに富んだボケの一つも返して来るのに。


「ていうか、今時そんなアナログな手段? お相手は昭和生まれの方ですか?」


「や、なんつーの? あれよ。真実へ至る道は胃袋を経由するとかしないとか言うじゃん? 私の事を知ってもらうには、私が心を込めた料理を食べてもらうのが一番なんじゃなかろうかと考えた訳ですよ。それに裕香もよっぴーもまっつんも、みんな『手料理作戦でカレシを墜とした~』、なんて言ってたし! きっとものすごい威力なんだよ、手料理!」


 拳を握り締めて力説する綾音。一体、こいつはどこで何を吹き込まれて来たんだろうか? ていうか良くサヴァランなんて知ってたな。アホのくせに。


「うん。何て言うか、流され易いなお前。まあ、そこまで言うんなら付き合ってやらんでもないが……今度の定休日で良いか?」


 努めて、いつもの様に、かろうじて受け流しながら。俺は実の所かなり動揺していた。


 この綾音が、あろう事か『手料理を作って、好きな人に自分の想いを伝えたい』などと考えている、と言う事は。


 それはつまり――


 今まで十七年ほど歩んで来た俺達の関係もやんわりと、しかし確実に終わりを迎えようとしている訳で。



 ☆



 んで、今日。


 俺はウチの厨房に綾音を引きずり込んで、偉そうに講釈を垂れていた。


 我が家が営む蓬莱屋食堂は、ひい爺さんから三代続く由緒正しい定食屋だ。


 その四代目たる俺は日々料理道に邁進し、現在は高校二年生にして副料理長という押しも押されぬ地位を築き上げている。ちなみに料理長はオヤジで支配人はかーちゃんである。


 綾音は三軒隣に住む幼馴染み。『超』が付くほど料理の嫌いなこの女は、親の帰りが遅い事と……まあ、色々と複雑な事情もあって、今では毎晩ウチで夕飯を、しかもわざわざ俺に作らせて食っていくのが習慣になっていた。


「普通逆だよな」


「なにが?」


「だから、普通だったら綾音が『もう、康一ってば放っといたらカップ麺ばっかりなんだから。ちゃんと野菜も食べなきゃだめじゃない』とか言いながら手料理を食わせてくれるポジションに居るべきなのに、何で俺が毎日お前の飯作ったり、あまつさえ料理まで教えてやったりしなくちゃいけないんだ?」


「あはは、康一良いお嫁さんになれるよ」


「嫁か!? 俺は嫁にもらわれちゃうのか!?」


 いつも通りの他愛無い軽口。お互いが側に居ることが当たり前の、どうでも良くも、何処か心地良さを感じる空間。そういった、今まで当たり前の様に過ごしていた関係を終わりに近づける、しかも自らその一助をしている事に、俺は上手く言語化できない感情を味わっていた。


「まずは玉ねぎ。薄切りにしたら細かく刻んだニンニクと生姜を加えて、飴色になるまでバターで炒めます。これが出来れば美味いカレーは出来たも同然です」


「あめ色……どんぐらい炒めれば良いの?」


「そうだな。まあ、一時間くらい?」


「一時間!?」


「手間を掛けなきゃ美味い料理は作れません。いいからちゃっちゃと炒める!」


「……は~い」


 早くも挫折しそうな綾音を眼力でねじ伏せて、言い聞かせる。彼女は「うはぁ……」とだるそうな溜め息を吐きながら、木べらを手に寸胴鍋と対峙した。

 しかし、案の定と言うか。

 ものの十分も立たない内に、綾音は情けない顔になって俺に泣きついてきた。


「康一どうしよう? 焦げるよ? ちゃんと掻き混ぜてるのに玉ねぎ焦げちゃうよ?」


 今までロクに料理をしてこなかったこの娘に取っては、飴色玉ねぎを作る事すら至難の業なのだろう。うん、まあ想定内だけど。

 俺は手に持った軽量カップに水を注いで、鍋肌に沿ってひと回し垂らした。じゅっ! と小さく音を立てながら、水が焦げかけた玉ねぎに染み渡る。


「初心者はこうやって、焦げそうになったら水を差しながら炒めると良いのです」


「おお、なるほど!」


「茶色い焦げは旨味になるけれど、黒い焦げは苦味にしかなりません。気を付けて焦がす様に」


「はい」


 綾音は危なっかしい手つきながらも、真剣な表情で再び玉葱をこねくり回し始めた。もちろん手元には水の入ったカップが頼もしげに置かれている。


「じゃ、いい感じになったら呼んで」


 俺は厨房に持ち込んだ椅子にどっかと腰かけた。

 そして、制服の上にエプロンという反則技の様な格好でガスレンジに向かう彼女の後ろ姿を眺めつつ、ここ数日心に抱いている違和感について考えていた。

 今迄の話を要約すると、


『綾音が、想いを伝えたい奴の為に作る料理を、俺に教わりに来た』


 と言う事になる。

 何故か今まで浮いた話一つ聞いた事の無い彼女から、初めて聞いたそれっぽい話。本来なら拍手喝采しつつ全力でサポートしてやるのが、幼馴染みとして正しい態度なんだと思う。

 しかし。

 この、なんとも釈然としないモヤモヤした感覚は一体どういう事だろう?

 あまりにもマイペースで天然にも程がある、奴の言動に対する苛立ち?

 もしくは、今まで兄妹の様に過ごして来た幼馴染みに『先を越された』という焦り?

 それとも……


 それとも俺は綾音を他の男に渡したくないから?


 いや! いやいやいや。それはさすがに違うだろ。うん、絶対に違う。


 もちろん、綾音の事が好きか嫌いかと問われたら、それは当然『好き』に決まっている。しかしその『好き』は恋愛感情では無く、親愛の情……例えるなら英語で言う所のLikeであって、Loveでは無い。

 そう、決してラブでは無い。

 確かにこのアホの子は性格面に色々と問題があるけど黙っていれば結構可愛いし、実際男子の間ではそれなりに人気もある。

 が、しかし。

 それこそ今まで兄妹同然に育って来た幼馴染みだ。今更恋愛感情など、芽生える訳も無い。強いて言うなら、あれだ。これは妹をどこの馬の骨にやれるもんかと息巻く兄貴の心情に近いんだと思う。

 そもそも。

 こんな我侭で、口が減らなくて、それでいて天然で、言動が支離滅裂で、貧乳で、寸胴で、ええと、それで……

 それで、危なっかしくて、なんか可愛くて、放っておけなくて……

 って、あれ? 俺今なんか変な事考えてたよ!?

 無い! 無い無い無い、絶対にそれは無いから。落ち着け、俺。

 焦ってるんだ。お互い年齢=彼女(彼氏)いない歴だった筈の綾音に先を越された事に、必要以上のプレッシャーを受けているだけなんだ。そうだ、そうに違いない。


「康一ぃ、こんなもんでどお?」


「え? ああ、すぐ行く」


 綾音の呼ぶ声で我に返る。

 俺は心の動揺を振り払うべく、料理に集中する事にした。


「けっこうイイ感じに出来たと思うんだけど」


「どれ」


 寸胴鍋を覗くと、タマネギは飴色の見事なペーストへと姿を変えていた。ほど良く焦げたタマネギとバターの甘い香りが、心地良く鼻をくすぐる。


「お、いいね。ここまでやれば、もう八割方完成した様なもんだ。じゃあ次は具材といこうか」


「りょーかい。えへへ」


 何が嬉しいのか、綾音は咲き誇る向日葵の様に鮮やかな笑顔で俺に返事を返して来る。

 その、あまりにもイノセントな笑顔に俺はまたしてもどぎまぎしてしまう。

 ……こいつ、こんなに可愛いかったっけ?

 心の動揺は、振り払うどころかますます大きくなっていった。



「豚肉は、煮込む前に小麦粉とカレー粉をまぶして焼いときます。そうそう、少し焦げ目が付く位。ああ、ニンジンとジャガイモは、ちゃんと面取りしてから。ええと、面取りってのはだなあ……」


 まるで、子供に料理を教えるお父さんの様な態度と心境で、綾音を指導する。


 危なっかしい包丁づかいにヒヤリとしながらも、なるべく懇切丁寧に。しかし絶対に手は貸さずに。


「いいか、包丁は押し付けても切れないんだ。こう、刃をスライドさせながら手元に持ってくる様な感じで使うと簡単に切れる。変に力むなよ。余計に力入れると指とか切るからな」


「はぁーい」


 料理がまったく出来ない綾音だけど、こうして見てみるとセンスが無い訳ではない。手先はわりと器用だし、意外な事に飲み込みも早い。鍛えれば、結構な使い手になる素質は充分にあるのだ。

 なのになぜ何も出来ないのかと言うと、料理を教わる機会に恵まれなかったと言うか、拒否し続けたと言うか……

 そう。

 彼女に取って、実は料理とは最大級のトラウマなのだ。

 にも関わらず。彩音は今、そのトラウマを克服しようと本気で料理に立ち向かっている。

 そこまで彼女を突き動す原動力が、奴が言うところの『好きな人』なのか? やだ恋って怖い。


「そう。小さいものを手に持って切る時は、決して刃の進路に指を置かない事」


 要点を教えながら、横目で綾音の顔を覗いてみる。想像通り綾音は頬をぷーっと膨らせながら、不慣れな手つきでじゃがいもの面取りをしていた。別に怒っている訳では無い。集中して作業する時の、彼女のクセだ。

 こいつ、ちっちゃい時から全然変らねぇな。


「綾音、膨らんでる」


「うっさい。気が散るから黙ってて」


 怒られてしまった。


 綾音は表情こそアレだが今まで見た事の無い程真剣に、料理に臨んでいる。要はそれだけ本気なのだろう。

 どんな奴に食わそうとしているのか知らないが、あれほど料理を嫌っていた綾音がここまで頑張っているのだ。幼馴染みの俺としては素直にそれを祝福しつつ、とにかくこいつを何処に出してもおかしく無い、一人前の女子として育て上げるのが筋であろう。そうだ。うん、そうに決まってる。

 ……とは言うものの、やっぱり綾音が好きな野郎ってのはどんな奴なのか、ものすごく気になる訳であって。


「ところで、お前一体誰に料理食わせたいんだ? 俺の知ってる奴か? おぢさんにだけ、そっとおしえてごらん?」


 さりげなく。

 務めてさりげなく、俺はそんな事を口にした。

 やっとの事で面取りを終わらせた綾音は、ちょっと複雑な表情をしながら、それでもはにかんだ笑顔で答える。


「あははは、今はまだ言えないなぁ」


 今は、と来ましたよ。この子は。


「まあ、その内言うから、その時までのお楽しみっつー事で」


 はにかんだ様な、くすぐったそうな、それでいてちょっと不安そうな目をして。


 何ですか、この恋する乙女っぷりは?

いま、こいつの頭の中には『意中の男を自分の手料理で墜とす』という薔薇色の妄想が渦巻いているに違いない。


 ……ほんと、この綾音にここまでさせるのは一体どんな奴なんだろう? 





「じゃあ最後の仕上げ。いよいよ煮込みます」


「おー!」


 タマネギを炒めた寸胴鍋に水を張り、焼き目をつけた豚肉とニンジン、固形ブイヨン、ベイリーフ、トマト缶、さらに摩り下ろしたバナナや赤ワインなんかも投入して火に掛ける。


「この段階でしっかりと煮込んで、具材を柔らかくします。肉やニンジンが固いカレーなんて、先生断じて許しません」


「先生、ジャガイモは?」


「最初から入れると煮崩れてしまうから、後で入れます」


 神妙にうなずく綾音にアク取りを命じて、鍋から離れる。

 綾音は時々『にへら~』っとゆるい笑みを浮かべたり、急に心配そうな顔で鍋の中を凝視したり。それでもやっぱりゴキゲンそうに鼻歌なんぞ唄ったり、かと思ったらいきなり泣きそうな顔で何やらぶつぶつ呟いたりしながら、かいがいしくアクを取り続けている。

 そんな姿を見る程に、心の中に得体の知れない熱が篭っていく。俺は、色々理由を付けて否定しようとしているものの、心の奥では綾音を一人の女の子として意識している事に気が付いていた。

 今まで十七年。それこそ兄妹の様に過ごして来た、俺と綾音。

 この、あまりにも近くに居た幼馴染みを、おそらく初めて恋愛対象として意識したのが――

 よりによって他の男を墜とす為の協力をしている今、というのはなんて皮肉な話なんだろう?



 綾音の隣に立って、鍋を覗いてみる。

 とろ火で炊かれたスープの中で、具材がゆらゆらと踊っている。一端身が締まってから程よく繊維がほどけ始めた豚肉と、鮮やかなオレンジに染まったニンジンは十分に火が入った事を全身で表現している。

 もうちょっと経ったら、ジャガイモを入れて一煮立ち。

 その後カレールゥと、泡立てたヨーグルトを投入してもう一回煮込んで。

 カイエンペッパーで辛味を補強して。

 ガラムマサラで風味を整えて。

 最後に、とどめとばかりにカルダモンの種をぶちまける程に投入すれば……


 康一特製『カルダモン香る賄いポークカレー』の完成。


以上をもって俺の役目はおしまい。

 これで上手く事が運んで綾音に彼氏が出来たら、さすがに今まで通りの関係ではいられなくなる。

 いくら兄妹同然に育った幼馴染みとはいえ、所詮は他人。

 最初の内こそ今までと同様に接していけたとしても、彼氏との仲が深まっていけば、当然俺と過ごす時間は減っていく。その内俺はただの知人となり、やがては『その他大勢』の中の一人に埋まっていく。


 それで良いのか? 俺。


 たとえば――

 もしもここで綾音に『なんか俺、お前の事が好きみたいだからもう手伝えない』みたいな事を言ったら、一体どうなるんだろう?

 ……うん。ダメだろうな。

 今現在こいつには超好きな奴がいて、そいつに想いを伝える、それだけの為に今まで避けて来た料理を練習している位だ。最悪、今までの関係すら保てなくなってしまうだろう。

 ならばここはおとなしく、綾音が玉砕する事を期待しつつ、静かに様子を窺って……

 って、なんかそれじゃあ俺、もの凄くヘタレな人みたいじゃんか。うん、駄目だ。

 それならばいっその事、最後にとんでもないモノ入れるとかして超不味いカレーの作り方を教えてしまえば……

 いやいやいやいや! 

 いくらなんでもそれはあんまりだろう。料理を生業にしようという奴のする事じゃ無いし、それ以前に真っ当な人間のやって良い事じゃあ無い。

 嗚呼、俺一体何考えてるんだよ……


「なんだか怖い顔してるけど、もしかして私、なんかやっちゃった?」


 綾音が心配そうな目で鍋の中を覗きつつ、語り掛けて来た。そんなに険しい顔をしていたのだろうか。


「え!? あ、違う違う違う! ちょっと考え事してて!」


「そう? なら良いんだけど」


 彼女と目を合わせる事も出来ず、再び鍋の中に視線を移す。

 俺の葛藤などお構い無しに、鍋はくつくつと順調に煮えていた。





「えーと。これ、私が作ったんだよ、ね?」


 綾音は出来上がったカレーを一口食べるや否や、まるでこの世に有り得ない物を発見してしまった様な表情で、そう呟いた。


「すごい、おいしい……」


 美味い物を食べてる、というよりもむしろ得体の知れない食べ物を毒見でもしているみたいなスプーン使いで、やたらと慎重に吟味している。


「おう。俺は今日、指示はしたけど何も手伝って無いからな。正真正銘の綾音カレーだ」


 そう言って俺も彼女の力作を一匙、口に運ぶ。

 うん、美味い。

 輪郭のくっきりとしたスパイシーな辛味を前面に出しつつも、丁寧に炒めたタマネギだけが出せる重層的な甘味を内包した、コクのあるカレールゥ。時折混ざるカルダモンの粒を噛むと、爽やかな香気が口いっぱいに広がるのが何とも喜ばしい。

 具材のメインを張るのは、ちゃんと旨みを残しながらもしっかりと柔らかく煮込まれた豚のバラ肉。そして脇を固めるのは、ややいびつではあるが丁寧に面取りされた、ねっとりとした感触が舌を安心させる人参。そして大地の力を思わせる滋味を持つ、見事にほっこりと炊けたジャガイモ。

 ……うん。いつも通りの、俺の味。ちゃんとルゥから作る親父のとは違う、俺しか作らない賄いカレー。レシピ通りに作るのも何だか悔しいので、自分なりに色々と工夫した俺スペシャル。市販のルゥを使っているとは言え、味は中々のもんだと自負している。


「おいしいけど、これ蓬莱屋のカレーとは違うよねえ?」


 ありゃ、気付いたか。まあ、毎日ウチに通ってるんだしな。そりゃあ気も付くか。


「ああ。今日は市販のルゥ使ってるし、肉も牛じゃなくて豚だし。何だったら店で出してる奴も教えてやろうか? 今の三倍位面倒くさいけど」


「や、今回は遠慮しておきます」


 これ充分おいしいし、とようやく本来の食欲を取り戻してカレーと格闘し始めた綾音を、俺はまたしても複雑な心境で横目に見ていた。 

 ふと横を向いた綾音と目が合う。

 そう。俺達はテーブルに向かい合うのでは無く、横並びに座っている。小さい頃から変わらない、今まで当たり前と思っていた、俺のポジション。

 学校で昼食を食べる時も、どこかで買い食いする時も、毎晩営業後にウチの家族と一緒に飯を食う時も、常にこの並び方。友達からも『やっぱそれは兄貴の立ち位置だな』と揶揄され、自分でもそう思っていたこの位置が、実はものすごくレアなものだったのではなかろうか、と今更ながらに気が付いた。


「康一は優しいね」


 綾音が唐突に、俺の目をじっと見ながら言った。


「ん? そおか?」


 何だか恥ずかしくなってつい目をそらしつつ、しかしその気恥ずかしさを悟られない様にとぼけた返答をしてみる。


「うん。康一はいつも優しいし、何て言うか、大人だと思う」


 カレーを口に運ぶ手を止めて、綾音は尚も俺を見つめる。


「綾音?」


 彼女の普段とどこか違う雰囲気に、つい緊張してしまう。


「……私も、いいかげん大人になんなくちゃ」


 その呟きは俺に語り掛けていると言うより、自分に言い聞かせている様に聞こえた。


「なあ、綾音……」


「あ、あのね康一!」


 この変な空気を変えるべく、取りあえず何か喋ろうと思った矢先。綾音が急にトーンを上げて話し出した。


「私、ちゃんと話し合ってみようかと思うの。お父さんと、ゆ、祐子さんと」


「え?」


「分かってるんだ。結局、私がやってる事はただの我侭なんだって。それで二人に、ううん、康一とかおじさんおばさん、いろんな人に迷惑かけてるって事も」


「……そうか」



 綾音の母親は、彼女が小学二年の時に病気で亡くなった。

 今にして思えば葬式で泣きじゃくる綾音を、やはり泣きながら抱きしめたあの時から俺はこいつを特別な感情で想っていたのかもしれない。

 以来、綾音は父親と二人で暮らして来たのだけど、その父親に再婚の話が出てきたのが去年の話。

 綾音は猛反対した。

 彼女にとって、それは亡き母親に対する裏切りに思えたのだろう。もしかしたら、父親を『取られた』という思いすらあったのかもしれない。

 彼女は父親と距離を置く様になった。朝は早くから部活の朝練を理由にさっさと家を出て、夜は毎晩ウチで夕食を食べて帰り、極力二人と顔を合わせない様にしていた。

 そうやって歪んだ生活をしている反動なのか、学校での綾音は常に必要以上のハイテンションを演じている。たまに見ていて痛々しく感じる時もあるけれど、そうやって心のバランスを取ろうとしている彼女に対して、俺に出来る事はせいぜい一緒になってバカをやる事くらいだった。

 昔から家族ぐるみの付き合いをしているウチの親は、綾音の父親に『綾音ちゃんが落ち着いて考える事が出来る様になるまで、好きにさせた方が良い』と言って、毎晩の食事やこまごまとした世話をしていた。いや実際に世話していたのは俺なんだが。


「でも、一体どうして。何かきっかけでもあったのか?」


「んー。上手く説明できるか自信無いけど、いい?」


「どうぞ」


「ではでは……康一は私が料理を嫌いになった理由、覚えてる?」


「そりゃ、まあ、ね」


 亡くなった綾音の母親は、それはもう料理の得意な人だった。


 ウチのオヤジなんか、しょっちゅう母ちゃんに『代わりに厨房に立ってもらえば?』なんて言われていたらしいから、相当なもんである。


「お母さんが居なくなって、私なりになんとか頑張ろうとも思ってたけど……私がいくら頑張ってご飯作っても、何を食べても、お父さん、ちょっと悲しそうな顔するんだよね。子供ながらに、あれはショックだったなぁ」


「でも、それはさ綾音」


「うん、分かってた。だけどさ、悔しいじゃない。思い出が相手なんだよ? 絶対に勝てる訳無いじゃん。チートだよチート」


 あはは、と笑いながら話す綾音。その笑顔を出せる様になるまで何年掛ったかを知っている俺は、ただ黙ってそれを聞いていた。


「ところがそこに来て、今回の再婚話ですよ。何か私、訳わかんなくなっちゃって……お父さん、お母さんの事が大好きだったんじゃなかったのかなあ、って」


 ここ暫くの綾音の言動は、すべてここに集約されている。

 亡き母への想い。父親に対する複雑な想い。そして、それらを壊そうとする(様に綾音には見える)再婚相手への想い。


「だけどね、最近なんか急に気付いちゃったんだ。人を好きになるって、どうやら理屈じゃ無いみたい」


「……へ?」


「んーと、こぉ、ね。最近になって、やっとお父さん達の気持ちも、何となく分かって来たというか……」


「す、好きな男ができたから?」


「んー、まあそんなところ?」


 彩音は俺の瞳をしっかりと見詰めて、嬉しそうに微笑んだ。


「そ、そうなんか」


 今の俺は一体、どんな顔をしているんだろうか? 普段通りにクールな表情で居られてるだろうか?


 綾音が父親の事を理解出来る様になったのは、彼女に好きな奴ができたから。


 それによって、父親の再婚について前向きに考えられるようになったのは、もちろん良い事だと思う。おじさんも相手の人も喜ぶだろうし、俺だって、綾音には早くこんな歪んだ生活から抜け出してほしいと心から願っていた。


 しかし――


 そのきっかけになったのが『好きな男ができたから』というのは、俺に取っては相当にキツい。

 綾音がどこか遠くに行ってしまう様な寂寥感もあるし、結局俺は何も出来なかったという無力感にも苛まれる。

 そして何より。


『誰かに綾音を奪われる』


 という悔しさも、今では自覚している。

 ……うん。勝手な話だ。

 彩音にはちゃんとした生活を取り戻して欲しいと思っておきながら、他の男とくっつかれるのは嫌だとか、矛盾してる。とんだ自己中野郎じゃんか、俺。


「だから私、変わろうと思って。昨日までの幼稚な綾音ちゃんとは、今日でおサラバするのです。料理は、その為のきっかけみたいなもの、かな」


「そう……か」


「お父さん達と、ちゃんと話し合ってさ。あの二人の事を認めてあげて……そうしたら私、変われると思う」


 話している内にテンションが上がって来たのだろうか。普段は滅多に出さない心の内側をさらけ出すような話を、しかも嬉しそうに綾音は語っていた。

 人の気も知らないで。



「さぁて。そろそろ帰るっす」


 あの後、食べ終わった後に厨房を片付けて、本日の反省や、いつも通りの他愛無いバカ話などを一通り話して。気が付いた時には、すっかり日も暮れていた。


「いやぁ実に感動的なデキでしたな。康一、今日はありがとう。おかげでなんとかイケそうです」


 綾音は『天真爛漫』という言葉を具現化した様な素晴しい笑顔で礼を言いつつ、席を立った。


 ――このまま綾音を帰したら、もう全てが終わる。


 唐突にそう思った俺は、考えるよりも早く彼女を呼び止めていた。


「あ、綾音! ちょっと!」


「ん?」


 が。呼び止めてはみたものの、何も考えていなかった俺は当然、次の言葉を紡ぎ出す事など出来ない。

 結局、色々悩んだ末に出てきた言葉は、


「ああ、えーと、あれだ。ご飯は硬めに炊くんだぞ」


 などと言う妙に的確なアドバイスだけだった。


「りょーかい。じゃあ、また明日ね」


「ん……ああ」


 結局その後は何も言えずに、三軒隣の自宅に帰る綾音を呆然と見送る事しかできなかった。

 自分のヘタレ具合を噛み締めながら。



 ☆



 数日後。


「康一、こーいち!」


 魂の抜け殻となって放課後をゾンビの様に過ごしていた俺は、またしても綾音に呼び止められた。


「なんだ? 今度はデザートの作り方か? どうせならこの際全裸で首にリボン巻いて『デザートの代わりにあたしをた、べ、て』とか思い切った行動も」


 そんな俺の戯言に、彩音は軽蔑しきった目を向けて言い放つ。


「うわー。あんたそういうプレイが好みなの? キモ。こっち見んな」


「ごめんなさい調子に乗りました」


「よろしい」


 なぜか偉そうに無い胸を張る綾音。その幸せに満ちた様な表情は、今の俺には眩しすぎる。


「で、何だ? 無事に男を墜とせた報告か?」


 今や俺のライフはもうゼロなのだが、それでも精一杯に虚勢を張って一番聞きたくない事を口にする。

 そんな俺の問いに、ところがこの娘は満面の笑顔で、


「ああ。あれ嘘だから」


 なんて事を言いやがりました。


「……はい?」


「こないだ好きな人ができたと言ったな。あれは嘘だ」


「…………」


 彩音はイタズラを成功させた悪ガキみたいに、にんまりと。


「どうして……そんな嘘を?」


「いや、まあ料理教わりたかったのは本当だったんだけどね。その、本当の理由を言うのがちょっと恥ずかしくって」


 にへへ、と今度は照れた笑みを浮かべる綾音。俺から見れば意中の男を墜とす為に、幼馴染に料理教わる方がよっぽど恥ずかしい様な気もするんだが。


「で、では本当は誰に食べさせたのだね?」


 なんだか無性に腹が立ったので、俺は何だか尋問する警察官の様な態度を思わず取ってしまう。

 彼女は、相変わらずのはにかみ顔で答えた。


「ほんとはね、カレーはお父さんとお、お義母、さんに食べてもらいたくって、教わったの」


「い、今、何て?」


「昨日ね、今まで話を聞いてあげなかったお詫びと、子供だった自分への決別の意味を込めて、二人を食事にお誘いしたのです……二人とも、涙流して喜んでくれた」


 綾音は自分も瞳に雫を溜めながら、それでもこの一年程の鬱積を全て洗い流した様な、素晴しい笑顔を見せつつ話を続けた。


「で、色々話し合って、私もハラを決めてふたりに言いました。『あなた達の事を認めますので、私の事も幸せにしてください』っ、て」


 そう言い切って、微笑む綾音。確かに彼女の言う通り、それは今までと少し違う、大人びた笑顔だった。


「は、はは。そうだったのか……」


 大きな安堵感と共に、激しい脱力感が大きく圧し掛かってきた。

 それと同時に、今や心の真ん中に、このアホの子がどっかと居座ってしまった事を俺は自覚してしまった。ああもう何だよ。どの道俺は今まで通りで居られなくなっちゃったじゃないか。どうしてくれるんだよ。


「にへへ、私頑張れたよ。康一のお陰であります」


 そんな俺の事など知らぬとばかりに、綾音は瞬時にいつも通りのゆるい笑顔に戻って微笑みかけて来る。俺は心に湧き出る心地良い様なくすぐったい様な、不思議な感覚を味わっていた。

 ところが。


「康一、ホっとした顔してる」


 そう。ホっとしたのもつかの間、再びニヤニヤと嫌らしい目つきになった彩音が、面白そうに俺の顔を覗き込んで来た。


「そりゃあ、まあ。これでもうお前の世話しなくて済むと思うと清々しますよ」


 もちろん平静を装って答える。


「綾音ちゃんがオトコ作ってどっか行っちゃうーとか内心思ってなかった?」


「別に思ってねーし」


「ふーん? へーえ? ほーお?」


 人を馬鹿にした様に、口元をにんまりとさせて俺を見上げて来る。この、まるで子猫みたいにコロコロと表情を変える所も可愛いなどとつい思ってしまう俺はもはや手遅れなんだろう。


「まあ、好きなひと云々はまるっきりの嘘でも無いんだけどね……」


 まるで仕切り直す様に、綾音が俺に向かい合ってそう切り出した。


「へ?」


そして、今までの快活さがまるで嘘だった様にもぢもぢとした仕草で、それでもはっきりとした口調で、こう言った。


「ぁのさ、カ、カレー。いっぱい余ってるんだけど、食べにこない?」


「……はい?」


「き、今日ウチ誰もいないんだけど、ついつい作りすぎちゃって。てへ?」


 綾音は茹で上がったカニのように真っ赤な顔で、恥ずかしそうな、それでいてどこか嬉しそうな目をして。とても俺の事をからかっている様には見えなかった。

 て言うかこれは、こないだ綾音に伝授した『俺がイチコロでヤられるステキシチュエーション』そのままじゃないか。


 ……と、言う事は……いや、あの、まさか。いやいやちょっと待て。


「あのね、『女子の手作りカレーには、すごい威力がある』って教えてくれた、とても親切なお方が居たのですよ」


 俺だから! それ教えたの俺だから!


「ね、康一。いっしょに食べよ?」


 硬直している俺に、綾音はさらに追い討ちを掛ける様に甘い声で囁く。


 ご丁寧に、教えた通りに俺のシャツの袖をくいくい引っ張りながら上目づかいで。




 それはもう、なんて言うか。想像以上にとんでもない威力だった。

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