(読切)スレッジハンマー・フェノメノン
与野半
本編
ゴォーッと音を立てて上昇していく。
畳一畳もない狭い空間、エレベーターの中だ。
ずうっと上昇を続ける金属の箱。ボタンのたくさん並んだ操作パネルが目に入る。
ああ、そうか、行き先を押さないと止まらないんだと気がついた。
目的地が何階かわからなかったので適当なボタンをいくつか押してみるが、反応はなくエレベーターも一向に止まらない。
困ったなと思って何度も試すがエレベーターが止まることはない。
——なんで困るんだっけ、どこへ向かっていたんだっけ
人差し指で押したボタンが白っぽく光って、ようやくエレベーターは音もなく止まった。
ドアがゆっくりと静かに開いたので、迷いなく外へ出た。
真っ暗でどこまでも広い窓ひとつない部屋。真っ暗なのになぜ分かるのかと言われても、そう理解したのだからと言う外ない。
少し部屋の中を歩いてみたけれど、どこへも辿り着けそうにない。仕方ないのでエレベーターへ戻ろうと振り返るが、そこにはもうさっきまで乗っていたエレベーターの姿はなかった。
——そうか、降りてしまったからなくなったんだ
納得してまた歩き出す。
『なんで』はわからない、『どこへ』はしらない。
歩いていると、瞬間、部屋中を青白い光が満たして、また真っ暗になった。雷だ。
雷鳴も鳴った気はするが、気づかなかった。
再び、雷光。
近くで何度も雷が落ちているらしい。この部屋には窓ひとつもないのに雷の光が届くことが不思議だ。
どこに雷が落ちているのだろう。
部屋の中を歩き続ける。
ふと、気がついた。
雷はこの部屋の中で落ちているのだ、と。
——ピピピピピピ……
目覚まし時計の音、ゆっくりと浮上する意識。
自然とまぶたが開き、滲んだ視界はうすぼんやりした像を結んでいく。
瞳に映る汚れた板張りの天井からは築年数の深さがうかがいしれた。
「ン」
それは彼女の父親が布団の中で丸まって寝ている姿だ。
ポリポリと頭を掻くと、彼女の細くて長い髪がサラサラと揺れる。
夢を見ていた気もするが細かい内容は思い出せない。変な夢だったなという感想だけが残っている。
——……ピピピピピピ
目覚まし時計は飽きもせずにその役割を誠実に果たしている。
時計の頭にあるボタンを押して音を止めた。時刻は朝の六時過ぎ。
「ん〜〜〜〜〜〜」
布団を出てその小柄な体で伸びをすると背骨がパキパキと音を立てた。
ところどころ擦り切れた畳の上に敷いた意味があるのかないのわからない薄っぺらな布団のせいで体が痛くなることはしばしばだ。
襖を開けて畳張りの六畳一間を出る。ワックスは剥げところどころはねたフローリングのダイニングを経由して洗面所に着くとまずは顔を洗ってから身支度を始める。濡れた顔面をタオルで拭って水気を取り歯ブラシでシャカシャカと歯を磨くと、ぼんやりしていた頭もようやく目覚めて意識がはっきりしてくる。
和室へ戻ってハンガーラックに手を伸ばすと慣れ親しんだ高校の制服に体を通す。透自身はこの制服を気に入っているのだが、セーラー服であるため透の小柄な体形と相まってしばしば中学生と間違えられる。
姿見で簡単に着こなしを確かめてから、改めて洗面所に赴く。
ブラシを手に取って腰ほどもある長い髪をとかす。寝癖でところどころはね癖のついた髪は次第にくしけずられて滑らかになっていく。整え終わると髪の毛をゴムでまとめて二つ結びにして下げる。本当ならもっと短いほうが動きやすくて透の好みなのだが、短くするとその分
支度が一通り終わって、寝室に設置されている簡素な仏壇に両手を合わせる。そこには優しく微笑むもう年を取ることはない母の写真。
時刻は七時前、そそくさと靴を履いて玄関のドアを開ける。錆びた蝶番がギシギシと音を立てている。
「行ってきまーす!」
いまだ布団にくるまっているであろう父に声は届いてはいないと思いながらも律儀に声をかけてから透は部屋を出た。
狭い廊下を進んで錆びた金属の階段を足早に降りるとカンカンカンと音が鳴る。
駐輪スペースに止めた自転車を引き出してまたがり、築五十年近い木造のボロアパートを後にして学校へ向かった。
昼休みになると仲のいい生徒同士が机を寄せ合って弁当や購買で買ってきた惣菜を並べ始める。思い思いの話題に花を咲かせながら昼食を取る者が多い中、透もまた例に漏れず友人たちと昼食を囲んでいる。
「透! ここおいで、ここ!」
ひとりの女子生徒が透に呼びかける。わざわざ椅子を引いて机との間にスペースを作ってパシパシと何度も自身の太ももを叩いている。それは透にここへ座るように促すジェスチャーだ。
「子供じゃあるまいしなんでウチがそないなこと」
はあとため息をついて自分の椅子を持ってくる透。
この友人は普段から小柄な透を小動物へするように愛で甘やかすことを喜びとしていて何かにつけスキンシップを図ろうとしてくる。
透にとって大切な友人のひとりだしそれを邪険に扱うつもりはないのだが、十六にもなって幼児のごとく食事を摂る姿はさすがにプライドが許さない。
「えー! 来てくれたらおかずいっぱい上げたのにぃー!」
「!」
透はうつむき、自分で運んできた椅子に座ろうとして背もたれを掴んだ手がプルプルと震えている。
「ぐ、ぬぬぬ……」
歯を食いしばって虚を取るか実を取るかの葛藤。
「ね、おいで……?」
黒目がちで大きな瞳をうるうるとうるませて立ったままの透を上目遣いで見つめそんなセリフを吐く。
「ぐふっ、そんなん卑怯やろ」
透は運んできた椅子を戻して友人の提案を飲むことにした。
「やったー! 透大好きー!」
じゃあ失礼して、と少女の膝の上に座る透。
少女らしい丸みを帯びた肉感のある太ももの感触を布越しに感じる。
「いやぁ、透はかわいいねぇー」
「うぐっ」
後ろから羽交い締めにされ息が止まって変な声が出た。
ふたつの柔らかい感触を背中に感じる。スキンシップのたびに透はこの発育の差はなんなのだろうと疑問に思っていた。
高校に入学して半年、透の身長はついぞ伸びずに幼児体型のまま変わらない。制服を着ていれば中学生、私服だったら小学生に間違えられることだってある。それとは対照的にこの友人は発育良く、半年前まで中学生だったことが信じられない。
「ほんと、透に甘いよねー」
「透はかわいいからいいんだよ」
「とか言ってまた太ってきたから弁当の量減らしたいだけだろ」
「ギクッ」
手際よくピンク色の可愛らしい弁当箱からその蓋におかずを取り分けていた手が止まる。
なるほどなるほど、たしかに背中の柔らかさは先日よりも大きくなっている気がする。
「い、いいんだよ! 透は育ち盛りなんだからいっぱい食べないと」
よくわからない言い訳も、箸が転んでもおかしい年頃では特に気に留めるようなものでもない。
「あっそ、じゃあわたしのおかずもあげるー」
「あ、あたしも」
みんなが少しずつ透におかずを分け与えてくれる。
透はその光景を眺めながらモソモソと袋に入った大量のパンの耳を食べている。近所のパン屋で廃棄されるものを毎週もらっているのだ。
「——みんな、ありがとう」
咀嚼したパンの耳をゴクリと飲み込んで礼を述べる。
透が昼食にパンの耳なんかを食べているのは生活費を切り詰めた日々を送っているためだ。最初はこの友人たちにも奇異の目で見られたが、事情を理解してくれてからは距離を置いたり必要以上に同情したりせずに気兼ねなく接してくれている。その上こんな風に特別な事情はないていで小さな援助までしてくれている。
「いいのいいの、透はおこちゃまなんだからいっぱい食べて大きくならないとねー」
「ウチら同い年やろ! なんやその言い草はー!」
「透は大きくならなくていいよ! いまのままがかわいいんだから!」
ギュッと抱きしめられて体の柔らかさを全身で感じる。
「ってさっきと言ってることちゃうやん」
あはは、とみんなで笑い合う声が昼休みの教室に響く。
こんな風に友人たちと笑い合う時間だけが透にとって唯一気の休まるときだ。
学校も終わり放課後。透はバイト先のファミレスを目指して自転車を漕いでいる。陽は翳り始め夜の気配を感じさせる。
母が死んでからどれくらいの年月が経ったのだろうか、と道中に考える。もし母が生きていれば生活もこうではなかったかもしれない。
父は小説家で、母は会社員だった。ふたりは恋愛結婚なのだが、透は詳しい馴れ初めを知らない。
小説家といっても過去に何冊か本を出したがめっきり売れずそのまま鳴かず飛ばずだ。毎日、必死になって原稿に向き合っているというならまだ救いはある。けれど、昼間からギャンブルに勤しんで、夜になれば酒を浴びるように飲み人間らしいまともな生活を送っているとは到底言えない。
透は実父を軽蔑している。いつか家を出るため必死にバイトをして資金を貯めている。
二十歳になれば分籍もできる。大学にも通いたいが努力だけではどうにもならない。
考えれば考えるだけ不安なことは押し寄せてくるが、不安に押し潰されて同じ場所にとどまり続けても事態は好転しない。だから、いまはとにかくがむしゃらに生きるだけなのだと、透は心に決めている。
時間通りにバイト先のファミレスに到着した。自転車は建物裏手の目立たないところに停めて、裏口から事務所に入った。同僚たちに挨拶しながら更衣室に入るとウェイトレスの制服に着替えてタイムカードを押してからホールへ出る。
ここで働き始めた理由は第一に立地。学校からも自宅のボロアパートからも自転車で無理なく通える距離だ。
第二に時給。ファミレスということもあって安い給料も覚悟していたが、理由は定かではないがこの地域では高い部類に入る給料をもらえている。
そしてなにより重要だったのが賄いだ。学校終わりの夕方から夜まで働く透は仕事がある日は必ず夕食を賄いで済ませていて、そのお陰で時給以上の恩恵を受けることができている。小柄な透とはいえ毎日三食パンの耳で過ごすには栄養価もカロリーも足りず、この賄いがそんな生活を補ってくれている。
本日もそつなく仕事をこなした透は、休憩スペースで夕食代わりの賄いを食べてから自宅へと帰っていった。
自宅のあるボロアパートに着くと、自転車を駐輪場に停めて施錠し、カンカンカンと錆びついた金属製の階段をのぼった。
カバンから取り出した鍵で部屋の中へ入るとそこは真っ暗だった。どうやら透の父親は、もう十一時時近い時刻だというのにまだ帰ってきていないらしい。
今日はギャンブルに勝ち越したようだ、結構なことだ。透は半ば呆れながら部屋の明かりを点けた。勝ち越した日はその金で朝まで飲んでくるのが通例だ。だから、父親がいないことを透は気にもとめない。
カバンを置いて、まずはシャワーを浴びる。温かいシャワーは一日の疲れを洗い流してくれる。
寝間着に着替えて髪を乾かしたらダイニングのテーブルにノートを広げて今日学校で習ったことの復習と明日の予習を欠かさない。正直辛く思うこともあるし、やめてしまおうと思う日もあるが、この習慣だけは決してやめない。役に立つかはわからない、大学に行けるかもわからないのだから無駄になってしまうかもしれない。それでもいつかの未来で後悔だけはしたくない。
黙々と勉強を続け一時頃になってようやく透は床についた。
——ピピピピピピ……
目覚ましの音で今日も目が覚める。
かたわらに目をやっても薄っぺらな布団はたたまれたままだ。どうやら父はまだ帰ってきていないらしい。酔い潰れてどこかの道端か公園で眠りこけているのかもしれない。短くため息をついて透は人様に迷惑をかけていないことを祈るばかりだった。
今日も普段通り手早く身支度をしてから仏壇の母に両手を合わせる透。
「行ってきます」
授業を受けて休み時間には友人たちと他愛もない話題で盛り上がり放課後はバイトに勤しんで帰路につく、いつも通りの日常だ。
ボロアパートの階段をのぼって自室の前まで来ると、透は窓から明かりが漏れていることに気がついた。どうやら父は帰ってきているらしい。
文句のひとつでも言ってやろう。ドアノブを回して年季の入ったドアを開く。
「ただいま——、え?」
人間、まったく予想外の光景を目にすると思考は止まり体もその動きを止めてしまうのだと、透は初めて知った。
「ど、どちらさま……?」
玄関を開けてすぐのダイニングにはスーツ姿の男が三人、三人とも当たり前のように土足のまま上がりこんでいる。ふたりはダイニングの椅子に座っていて残るもうひとりはテーブルに腰掛けタバコを吸っている。男の足元、床には何本もの吸い殻が落ちていて男たちがこの部屋に短くない時間滞在していることが察せられる。
「よお、随分待ったぜお嬢ちゃん」
タバコを吸っていた男が透へ笑いながら話しかける。その笑みは初対面の人間を安心させるようなものでは決してない。透を値踏みするようないやらしい笑みだ。
「おい、そんなところにいつまでも立ってないで中入れよ。お嬢ちゃんの家だろ、ここは」
「え、ええ、あぁ、はい」
ドアを開けたまま立ったままの透に中へ入るよう促す男。
透は土間に上がってドアを閉じる。靴を脱ごうとして、あれどうしてこの男の言うことを大人しく聞かなければならないのだろうかと疑問が頭を巡った。
「ところでお嬢ちゃん、お父さんがどこへ行ったか知ってるか?」
「————え?」
「お父さんと連絡がつかないんだよ、昨日からずっとな。娘だったら連絡のひとつでも合ったんじゃないか、なぁ?」
口調はどこまでも穏やかだ、少なくとも透には穏やかなように聞こえた。
だが、それよりも男の言っている内容が気にかかる。
父とこの男の間には何かしらの関係があって連絡を取り合うような仲らしい。そして昨日から連絡がつかないと言っている。だから、娘である自分を訪ねて来たということなのだろう、それは理解できる。けれど、一体この男と父はどういう関係なのだろうか。父の交友関係について透は詳しくない、というか友人のひとりも紹介されたことはない。
「ウ、ウチは知らない……、なにも聞いてない!」
「あぁん? 他に家族もいないんだろうが! それともひとりで飛んだって言うのか?」
男は苛立たしそうに声を荒らげた。
その大声に透はビクリと体を震わせたが、負けじと声を張り上げる。
「あの男は昨日からこの家には帰って来てへんし、どこへ行ったかなんてウチは知らん!」
透は段々とむかっ腹が立ってきた。
なぜ父の知り合いと思しき男に大声を出されなければならないのか理解できないし、そもそもどうやってこの男たちは家に上がり込んだのか。不法侵入というやつではないのか、しかも土足で! おまけに部屋の中でタバコまで吸っている! こんなことをされて怒らない人間などいるのだろうか。
「はっ、その様子じゃ借金のことも知らないみたいだな」
一転して男は呆れた表情を見せる。
「は……? しゃ、借金? な、なんの話……?」
はぁーっと男は長めの息を吐いて、右手で後頭部を掻く。
「借金だよ、借金! うちから金借りてるんだよ!」
思い当たる節はある、おかしいと思ったことが透には何度もあった。
昼間はパチンコだなんだとギャンブルに勤しんで、夜は夜で潰れるまで酒を飲む毎日。仕事をしている姿など透の記憶の中にはない。
例えば、母の残した財産。会社員だった母の貯金や保険金なんかがもしかしたらあったのかもしれない。しかし、もちろんそれも有限だ。ふたりの人間がなにもせずに遊んで暮らせるような額であるはずがない。そうならこのボロアパートにわざわざ引っ込んでいることだってなかった!
でも、借金をしていたというのであれば納得できる。遊ぶ金欲しさに金を借り続ける。当然、返済なんてできるはずがない。そうすると真っ当なところから金は借りられなくなる。では、どうするか。この男たち、非合法な連中を頼ったのだ。
「い、いくら?! 借金っていくらあるん?!」
「端数は省くとして、だ」
わざわざ家まで押しかけて来るということは数十万円ということはないだろう。
数百万? それとも一千万とか? もしくはそれ以上?
「——ざっと一億ってところだな」
「〜〜〜〜〜〜ッ、い、いち?!」
「あ? お、おい!」
透は想像を遥かに超えるその金額に血の気が引いて意識を失った。
「————————はっ」
しばらくして透はようやく目を覚ました。
「あれ、ウチ、なんで……、え?」
椅子に座ったままの姿勢で眠っていたようだ。寝ぼけて頭が働かず透は自分がなぜ眠りこけていたのか思い出せない。あたりを見回そうと身じろぎするが体はろくすっぽ動かせなかった。
意識がはっきりしてきてようやく事態が飲み込めてくる。
透の体は麻ひものようなものでグルグル巻にされて椅子に縛り付けられ、ご丁寧に手は後ろ手に、足も椅子の脚に固定されて立ち上がることすらできない。
「目醒めたか?」
男の声。
いかにも高そうなスーツを来た男。その男の顔を見て透はすべてを思い出した。
この男たちが家に上がり込んでいて、父親が蒸発したこと、そしてその父親が借金していたことをわざわざ教えてくれたのだ。
——借金、一億円
サァーッと改めて血の気が引いた。とはいえさすがにまた気絶することはしない。
とにかくこの状況はよくない、逃げないと。
状況を整理するために首だけを動かしてあたりを見回す。
事務机がいくつか並んでいてそれぞれに電話が設置されている。机にはものが少なく、意外と整頓されている印象だ。透から見える範囲にはドアがひとつ。そのドアから真っ直ぐ進んだ部屋の角には木製の重そうなローテーブルが一台と革張りのソファが二台。壁や天井は茶色い汚れている。
いわゆる『事務所』というやつだろうか。
事務所の中には、家にいたのと同じ男たちが三人。
「おい! 寝ぼけてんのか?」
「いたっ」
男が透の頭を小突いた。
「なんやねん、もう……、ここはどこ? ウチがなにしたっていうんや!」
「うるせぇな、お前の親が借金残して飛んだんだよ」
男は椅子に縛り付けられた透を見下ろして言う。
「だったら親の不始末を片付けるのは子の務め、だよなぁ?」
「あんなの親じゃねー! こちとらあいつと絶縁するために毎日必死で金貯めてるんじゃボケェ!」
「あー、そうかい」
男はめんどくさそうな顔をしてタバコを取り出すと、若そうな男が近づいてきて火を点けた。
「
「ばーか、まずは『売り』だよ。それで稼ぎにならなければバラして売っちまえばいい」
若い男は値踏みするように透を頭から爪先まで観察する。
「こんな貧相なガキに客付きますか? 俺だったらもっと肉付きないと」
「う、ウルセー!」
見ず知らずの男にそんなことを言われる筋合いはないと透は抗議の声を上げた。
一方で頭と呼ばれた男はフゥーッと若い男の顔面に煙を吹きかけ、若い男はその煙でむせる。その光景に透は幾ばくか胸のすく思いだ。
「そういうところが馬鹿っていうんだよ、お前は。こういうのじゃなきゃだめっていう変態もいるんだよ、世の中にはな」
男の言葉を聞いて透は良くない想像をした。脂ぎった太ったおやじが迫ってくる姿、吐き気がする。
「なんで、ウチがこんな目に……」
透は椅子に縛られたまま頭を垂れてうなだれる。
自分の境遇を呪ったことはもちろんある。周囲の人間を羨んだことだってある。休みの日にはお洒落して遊びに行くそんな妄想だって、当然。慎ましやかな生活を心がけている透とはいえ年頃の女の子なのだ。
だけど、それでも透は自分のことを不幸だとは思っていなかった。高校にだって進学できて、親しい友人にも恵まれ楽しい学校生活を送れている。人間は誰しも平等ではない、だから努力を積み重ねていつかは人並み程度の幸せを手に入れられると信じていた。だからいままで頑張ってこれた。
「結局、こんなオチかよ……」
うなだれたまま悔しげに顔を歪める透。瞳には涙が浮かんでいる。
「——おや、時間を間違えてしまいましたかね?」
と、突然、男の声が事務所に響いた。耳に心地のいいバリトンボイス。聞き覚えのない、事務所にいた三人の男のいずれでもない声だ。
透が顔を上げると入り口付近にひとりの男。黒髪を後ろへ流しサイドを刈り込んだ髪型、瞳は碧眼。黒いスーツを着込んで、紳士然とした出で立ち。一分の隙もない装いが几帳面な性格をうかがわせるが、右手につけたいかにも古めかしい指輪だけが似合っておらず違和感を覚えさせる。
紳士の後方にあるドアは閉まったままだ。ドアを開閉したような音は聞こえなかったし、誰かが入ってきたような気配もなかった。
透はずっとうつむいていたため気づかなかった可能性もあるが、他の男達も闖入者の登場に驚きを隠せない表情を浮かべている。
「誰だテメェは」
頭と呼ばれた男は紳士に向けて凄む。
紳士はというとそれに怯む様子はなく、腕時計で時間を確かめる。
「ふむ、時間通りですね。取引の約束があったはずですが、あなた方はご存じない?」
「チッ、オヤジの言ってたやつか。たくっ、もうこんな時間かよ」
倣って腕時計で時間を確認する男。
「おい、このガキは奥に仕舞っておけ。あと奥にジュラルミンがあるからそれも持ってこい」
頭は若い連中に指示を出す。
「座れよ、茶ぐらいは出してやるよ」
「いえ、このままで結構。すぐに話は終わらせましょう」
男たちは会話を続ける。
若い男たちは椅子に縛られたままの透を抱えて奥の部屋へと連れて行く。
「ちょ、ちょっと待てやー! ウチのことはどうすんねん! おい!」
男たちは透の叫び声を無視して話し続けている。
「この、ふざけんなー! ウチの話を聞けー! コラッ!」
「ウルセーガキだな、おとなしくしてろ!」
事務所の更に奥、倉庫のようなスペースへ手荒に放り込まれる透は椅子ごと横倒しになってしまう。床に頭はぶつけずに済んだが、置いてあったジュラルミンケースに頭が当たった。
「イダッ! もっと丁重に扱わんかいボケ!」
男たちはため息をついて呆れた目で透を見る。
——キイィィィィィン……
金属が細かく振動しているような、不思議な音が聞こえてきた。
「?」
雑多にものが置かれた倉庫。換気扇のようなものは見当たらないし、なにかの機械が動作している様子はない。
その音が気になってキョロキョロと頭を動かして発生源を探す透。
どうやら音は透が頭をぶつけたジュラルミンケースから聞こえてくるらしい。
(なんだ……?)
なぜか透はこの音、そしてジュラルミンケースが気になってしまう。いや、正確にはその中身。なにが入っているのかはわかるはずもないのだが、この音はそのケースの中から聞こえてくる。
魅入られたように見つめ続ける透。次第に音は大きくなっているような気さえしてくる。
「これだな」
と、男がジュラルミンケースを手に取って持ち上げると音はぱたりと止んでしまった。
男は音に気がついていなかったのか特に気にする素振りも見せずに部屋を出ていきドアを閉めた。
身動きが取れない透はそれを見送ることしかできない。
「幻聴まで聞こえるようになってしまったんか……」
ガクッと再びうなだれる。
どうしてこんなことになってしまったのだろうか。いつもと変わらない日常を送っていたはずなのに気がつけば椅子に縛られてどこかもわからない事務所の倉庫に荷物同然で転がされている。
新しく現れた男も雰囲気こそは紳士のようだったが、透を助けてくれるような素振りはなかった。
このままどこかへ売られて、来る日も来る日も変態オヤジの相手をさせられる。結局、自分の行き着く先なんてそんなものだったのか。
「はぁ……」
ため息が出た。
友人たちのこと、雇ってくれたバイト先の店長のことを思い出す。もう会えないのだろうか、こんな自分と付き合ってくれてせめてお礼くらいは伝えたかった。
ドア一枚隔てた向こうの部屋からは男たちの話している声が聞こえてくるが内容まではわからない。取引がどうのと言っていたが透には関係ないことだ。
するとバンッと大きな音がした。ドアを勢いよく開いた音だ。それに続いて男たちの怒号。
「……なんや?」
怒鳴り散らす男、ものの倒れる音、なにかのぶつかる音、ぎゃあという悲鳴。
ただ事ではないらしいなにかが起こっている。けれど、透には成り行きがどうなるかただ待っていることしかできない。
すると倉庫のドアが静かに開き、少しだけ開いたその隙間を滑るように黒い影が飛び込んできた。
それはあの紳士だった。
「おや、ご無事でしたか」
後ろ手でそっとドアを閉めながら椅子ごと横たわる透を見つけて、まるで今日の朝食はなんだったのか聞くような軽い口調だ。
「よっと」
紳士は右手に持っていたジュラルミンケースを床に置いて、横倒しになっていた透を椅子ごと立たせてくれる。
「どうも……」
なおもドアの向こうでは言い争うような声。
「いったいなにが……?」
透は紳士に尋ねる。
「それが中華系マフィアの連中が何人か乗り込んで来ましてね、まったくはた迷惑な連中です」
やれやれと肩をすくめる紳士、その手にはしっかりとジュラルミンケースが握られている。それはもともとこの倉庫に置いてあったものだ。
「それって」
透がそれを指摘する。
「ああ、こちらの取引は先に済ませたんですよ」
そう言ってジュラルミンケースを少し掲げてみせる紳士。
透はそれから目が離せない。また
「ですのでどさくさに紛れて逃げましょうか」
懐から小型の折りたたみナイフを取り出すと手早く透を縛り付けているひもを切断していく。
「——あっ」
透は戒めから解放されて自由に動けるようになった。ジュラルミンケースに集中していた意識がハッと現実に戻される。
——逃げる
紳士の言った言葉を頭の中で反芻する。この紳士は自分をここから連れ出してくれるということなのだろうか。
諦めかけていた、折れかけていた心が一筋の光を見出して前へ進もうともがく。
「ウ、ウチ、父親が急にいなくなって、そ、それで! 借金が一億あるって言われても、いきなりそんな……。どうしたらいいのかも、わからなくて……」
冷静に状況を伝えてなんとか助けてもらおうと思ったが、いざ口に出して説明しようと思っても不安な気持ちばかりが口を突いて出てきてうまく言葉にできない。透の意志に反して声は震えている。
「ウチ、どうしたらいいですか……?」
透は紳士にすがりつくようにして助けを求めた。いま目の前にある唯一の光明、これを逃せば次はないかもしれない。だから必死になって助けを求める。
「それはこの国の警察や司法へ相談されるのが良いかと。
紳士はそんな透に応えるよう真摯な表情で、現実を突きつける言葉を発した。
それはこの状況で他に頼るものがない透にとっては絶望的な言葉であったが、冷静になればまともな回答であることはすぐにわかる。藁にもすがりたいこの状況では仕方がないことではあるが、この紳士風の男の素性はいまだにわからない。それどころか透を売り飛ばそうとしている男たちと取引しているのだから、むしろ安易に信用してはならない存在、裏社会に属するような存在だと思ったほうがいい。
だからこそかえってそれを透へ伝えようとするその態度は信用に値するものなのかもしれない。
「——?」
紳士は自らが手にしたジュラルミンケースが振動していることに気がついた。まるでなにかに反応しているかのような、
先ほどまでそんなことはなかった。目の前にいる少女、透がそばにやってきてから反応し始めたように思える。
「まさか……」
——バァンッ!
紳士が透へ話しかけようとしたその瞬間、倉庫のドアが勢いよく開け放たれた。
ドアを開けたのは大柄な男。右手には幅広の剣、柳葉刀が握られている。
「例のモノ、ワタセ」
男の口調はたどたどしく、日本語に慣れていないのだろう。先ほど紳士が口にしていた中華系マフィアというやつだ。
そしてこの男に続いて頭と呼ばれていた男が頭から血を流しながら部屋へ入ってきた。
「テメェらナメやがって! テメェは殺す! お前は金を置いていけ! ガキは売っぱらう!」
頭の右手には拳銃。怒りの形相を浮かべて、中華系の男、紳士風の男、そして透、倉庫内の三人へ向けて順番に銃口を向けた。その体を満たす憤怒のせいか銃口は細かく震え、引き金にかかった指は強張っていまにも凶弾を発射してしまいそうだ。
紳士はその様子を見てやれやれと再度ため息を吐きながら肩をすくめ、中華風の男は拳銃を構えた頭を無視して紳士から目を話そうとしない。
(この状況は一体なに……? 拐われていきなり借金がどうの言われて、そしたらこのすかしたあんちゃんが急に出てきて、味方かと思ったらそうでもないみたいやし……。今度は剣を持った男の乱入? 中華系マフィア? なんなんそれは。そんなん映画の中だけにしとけ!)
倉庫内へやってきた三人の男たちを眺めながら透は、襲いかかる不安から一転、理不尽で到底理解し難いこの状況に怒りがこみ上げていた。
「————そもそもがあのクソ親父のせいやんけ、全部。ウチはグレもせずに毎日毎日真面目に学校行ってバイトもして……」
ブツブツと誰に言うでもなく独り言で怨嗟を漏らす透に気づくものはいない。
いや、唯一、その怒りに呼応するようにジュラルミンケース、その中身が脈打つ。透だけがその拍動を感じ取っている。
——ドクンッ
一際強い拍動。それにあわせ透の感情もまた爆発する。
「さっきからひとが大人しくしてればなんなんやお前ら! 好き勝手言いやがって!! ウチがなにしたって言うんやー!!!」
絶叫する透。倉庫にこだまする言葉に耳を傾けるものはいない。
「なっ?!」
驚きの声を上げる紳士。それ以外のふたりは状況を理解していない。
まるで透の激情に呼応するように音を立てて金属製のケースにヒビが入り、そのヒビ割れた隙間から青白い光が漏れ出している。光は見る間に強くなり、ヒビは大きく、最早それはケースと呼べないほどに形は崩れる。
砕け散ったジュラルミンケースの中からは一振りのハンマーが勢いよく飛び出して透の足元まで転がってから止まった。奇しくもその柄を透の方へ向けるように立っている。
ハンマーの頭部分は大きく透の前腕ほどはあるだろうか。それに反して柄は短く金槌程度の長しかない。透の小さな手では辛うじて両手で握ることもできるが、大の男では片手で持つのが精一杯だ。
鈍色のハンマーは青白い光を纏っている。
透は吸い寄せられるように自然とハンマーの柄を握りしめた。しっとりとしていて金属特有の冷たさ、さも長年使い古した道具であるかのように透の手に馴染んで肌に吸い付く。
「そんなまさか……!」
驚愕する紳士。透はそのことには気がついていない。
ゆっくりとハンマーを持ち上げると青白い光は強くなり、バチバチと放電するように離れた床とハンマーの間に光がほとばしる。
ようやく事態に気づき、なにが起こっているのか理解できずに透を見つめ固まるふたりの男。
「なんだそりゃあ」
どこか呆れたかのような頭の声。
透はハンマーを片手で振りかぶり、男たち三人をにらみつける。
「好き放題やりやがって! この、ふざけんなー!!!」
振りかぶったハンマーを男たちへ向けて振るう透、男たちの眼前のなにもない空間をハンマーが叩く。
青白い閃光が空間を染め上げ、雷鳴が轟き耳をつんざく。倉庫内にいたものたちの視界は白で埋め尽くされて視覚は働かない。それだけでなく透の叩いた空間を中心に衝撃が発生し、不可視の波が三人を襲う。
「はぁ……?」
無我夢中で振るったハンマー。それが起こしたであろう超常現象に間抜けな声を出す透。
まるで部屋の中に雷が落ちたかのような突然の衝撃、己のしでかしたことを理解し、透の胸中には段々と不安な気持ちがこみ上げてくる。
「し、死んだ……?」
実際に部屋の中に雷が落ちるようなことは起きないので、それで人間が死ぬかどうかは透にはわからない。けれど、雷に打たれて命を落とすというニュースは何度か耳にしたことがある。つまり、部屋の中でも落雷に会えば同じことだろう。
先ほどまでは自分の不幸な境遇に嘆き沈み、怒りに任せてハンマーを振るってみせたのだが、今度はその結果に別の不安が押し寄せてきた。
借金の件は透に落ち度はなかった。いわば被害者だ。しかし、怒りに任せてハンマーを振るってこの結果をもたらしたのは透自身だ。言い訳のしようもない。あの衝撃では男たちは到底無事ではないだろう。
閃光にくらんでいた目が次第に回復し、部屋の様子が見えてきた。
床に転がった男がふたり、紳士風の男だけが平然とその場に立っている。
「やれやれ、こんなことになるとは」
「あ、れ……?」
床に転がった男たちはうめき声を上げている。意識はないようだが生きてはいるみたいだ。
安堵する透。
紳士は胸ポケットから携帯電話を取り出してどこへ電話をかける。
「状況が変わりました、アラン。
ハンマーを握ったまま呆然と立ち尽くしている透を見つめる紳士。
「新しい担い手が現れましたよ」
通話は終わったのか携帯電話を再び胸ポケットへしまい、透へ向き直る紳士。
「さあ、お嬢さん」
「え? ウチ?」
状況を飲み込めていない透。
「行きましょう」
行くってどこへ、と言おうとして透はその言葉をすぐに飲み込んだ。
なにもない空間、倉庫内の空中に突然
「へ?」
紳士は透の小さな左手を取りエスコートする。
「安心してください。足元には気をつけて」
「え? え?」
混乱で頭がいっぱいになった透は紳士に手を引かれるままその
「——ぅぁ」
目の前には革張りのソファが二台、同じデザインだ。黒に近い茶色が年代の深さをよく表している。その先には重厚な書斎机が一台、アンティークな出で立ちはいかにも高級そうだ。
そして部屋はとても広い。書斎にしても、ひとが生活するのにしても広すぎる気がする。一方で設置されている家具の数は少なくて違和感がある。更におかしいのは、壁という壁はその高い天井まで本棚によって埋め尽くされている。窓のひとつもない。いや、それどころか扉すら。
一体この部屋の主はどうやって出入りするのだろうか。
「ようこそ、秘密の部屋へ。お嬢さん」
しわがれた老婆の声。
透が声のした方へ目を向けると、ソファには小さな老婆がひとり腰掛けていた。透よりも小柄だろうか、その両脚は床から浮いてしまっている。
「え、あ、はぁ」
事態が飲み込めず透は気の抜けた返事をする。
「わしはアラン・スミシー、この秘密結社を預かっておる」
「ひ、秘密結社ぁ?」
老婆には似つかわしくない単語が飛び出て透は驚きを隠せない。
「そう、我々はアーティファクトの収集及び管理を行う秘密結社、アグノスト」
老婆の後を透の隣に立つ紳士が引き継ぐ。
「そしてボクはデイビッド・サロモと申します。以後お見知りおきを」
透へ左手を差し出し握手を求める紳士、改め、サロモ。
ぎこちなく透は差し出された手を握り返す。
「ぜんぜん言うてる意味がわからないんやけど……」
どうぞ、とソファへ促すサロモ。
透は素直に従ってソファに腰掛ける。さきほどから事態がまるで飲み込めない透は言われるがままだ。
「説明しますよ。あなたには知る権利、いや、義務がある」
サロモは透の向かい、老婆の隣に腰掛けながら話を続ける。
「まずアーティファクトというのは人智を超えた奇跡の産物、いつ誰がなんのために創り出したのかは一切不明です」
アーティファクトという呼び名も便宜上そう呼んでいるに過ぎませんがね、と肩をすくめる。
「誰でも聞いたことがあるような神話や伝説、片田舎でひっそり紡がれる伝承、その中で語られる奇跡を体現する道具、それがアーティファクトです」
透はあまり神話だとか伝説とかのようなオカルトじみた話について詳しくはないためいまいちどんなものなのかイメージがつかない。日本にも神話に出てくる剣が御神体とされているらしいが、そういう類のものということだろうか。
「いま貴女が持つ
「え? ……あっ!」
あの倉庫からここまであのハンマーを右手に握りしめたままだったことに透は指摘されるまで気がついていなかった。
驚いて手を離すとコトリと音を立てて床に転がった。その音は軽く、さきほどの
「つまりすごく強い武器ってこと?」
先ほどの光景が透の脳裏をよぎった。
「いいえ、武器とは限りません。様々な道具が存在します。例えば、触れたものはなんでも黄金に変えてしまう手袋、なんてものもあります」
サロモは右手で己の左手を指差しその指を軽く握るようなジェスチャーを見せる。
「まぁある意味『必殺の武器』として使えないこともないですが」
たしかに触れたものはなんでもというのなら人間でさえ黄金に変えてしまうのだろう。当然、全身が黄金に変わってしまった
そんなことよりも透が気になったのは黄金に変えるということだ。金相場などというものには縁がなかったため正確な価値はわからないが、そのへんに落ちている石ころなんかを黄金に変えて売ってしまえば、一億円の借金なんてすぐにチャラにできるのではないだろうか。
「当然、このアーティファクトは厳重に封印されています。金は現在多くの人々が利用している投資対象です、市場に突然大量の金が流通すればその価値は容易く暴落し経済は大荒れになりますし、そんな人物が現れれば否応なく衆目を集めることになるでしょう」
透の考えを見越してか、冗談を言うような軽い口調で釘を刺すサロモ。口調こそ柔和だがその目は笑ってはいない。
「それに残念ですが、アーティファクトは誰にでも扱うことができる、というわけではありません」
「練習が必要ってこと?」
とは言ったものの透自身はそんなこともせずにハンマーを使ってみせた。
「いいえ、そうではありません。仮にその生涯や命をかけたとしても選ばれざるものに扱うことはできない」
「えっと……?」
「アーティファクト自身が使用者を選ぶのです。我々はそのアーティファクトに選ばれた人物を担い手と呼んでいます」
——担い手
そういえばあの倉庫から穴を通ってこの部屋へ来る直前、サロモは誰かに電話をかけ新しい担い手が現れたと話していた。
「ん? つまり……」
「そう、その『ミョルニル』は貴女を選んだのです」
「ウチを……?」
床に転がったハンマーは輪郭を浮かび上がらせるように再び青白く光り輝いている。それはまるで透に自分の存在を主張しているかのようだ。
「あれ、そういえば……」
透はあることに気がついた。サロモは電話をかけた際に『アラン』という名前を口にしていた。
そして、目の前に座った老婆。彼女は自らを『アラン・スミシー』と名乗っていた。
つまり、
「電話で話してたアランってそのおばあちゃん?!」
「ええ、そうです。彼女もまたアーティファクトの担い手にして、この秘密結社アグノストの総帥です」
「こんなちっこいおばあちゃんがぁ?」
にわかには信じがたい。
アーティファクトというものがとんでもないものだということはなんとなく理解したが、今度は秘密結社などという耳にすることのない単語。しかもこの老婆が総帥ときている。
「我々の説明もしましょう」
透が疑問符を浮かべている様子を察したのかサロモがさらに説明を始める。
「すでに体験した通りアーティファクトには強大な力があります。それ故にアーティファクトを利用して悪事を働く不届き者たちもいれば、アーティファクト自身が事件を起こすことだってある。それらを未然に防ぎ、世界の平和や均衡を保ち、いかなる政府、組織にも属さない独立した組織、それが秘密結社アグノストです」
大きな力を持った道具があればそれを利用しようとする悪い人間がいてもおかしくない。いや、いるに決まっている。世の中には他人の善意につけ込んで利用してやろうという輩が存在していることを透はすでに身を以て知っているのだ。
それにしたって、いきなり秘密結社というのはいかがなものか。いまどき少年漫画だってもっと地に足ついた設定でくるのではないだろうか。
「アグノストの構成員は世界各国に存在しています。そして常日頃からアーティファクトの関わる事件に携わっている。困ったことにそれだけ事件はいたるところで発生しているのです」
やれやれとため息をつくサロモ。
「そのため我々は常に人材不足なのです。特に担い手は、ね」
サロモの碧眼が透をまっすぐに見つめる。ドキリと透の鼓動が跳ねる。
「ですので、担い手の貴女には我々の仕事を手伝っていただけると非常に助かるのです」
「は、はぁー?!」
「驚くのは当然です。ですが、いま貴女にはふたつの選択肢がある」
左手の人差指を立てるサロモ。
「ひとつは今日あった出来事をすべて忘れて日常に戻る」
今度は右手の人差指を同じように立てる。
「もうひとつは我々に協力するか」
手を開きながら手のひらが上を向くように返して、サロモはその両手を透の目の前に差し出す。どちらの手を取るか、透に示すジェスチャーだ。
「そんなこと急に言われても……」
ただでさえギリギリな毎日を送っていたのに、それに加えて一億円という借金。透にとって日々を生きるだけで精一杯なのに、世界平和を守る余裕なんてこれっぽっちもない。
それに危険な目にも会うに違いない。あれだけ強力な力だ。
透自身が大の男ふたりをアーティファクトの持つ超常の力で昏倒させてしまった。小柄な透の腕力では決して太刀打ちができないような相手、しかも男たちは武器を持っていた。それをたった一振りで。
逆に言えば透自身がやられる側に回ることもあるということだ。
「……悪いけど怖い目には会いたくないし帰らせてもらうわ」
命あっての物種というやつだ。
透はそう言うとソファから立ち上がってサロモたちに背を向けた。
「借金があるようですが、うちの給料はとてもいいですよ」
サロモの言葉に足が止まる透。それはいまの透に良く
「任務をこなせばその活躍に応じて報酬が支払われます」
「…………」
透の心は揺れている。
命は確かに大事だが先立つものがなければ生活もままならない。しかも多額の借金、少しでも稼ぎは多いに越したことはない。
「貴女の借金もアグノストで肩代わりしましょう」
「!!!」
あやしい笑みを浮かべているサロモの表情は背を向けている透からは見えない。
「ほ、ほんまに……?」
「ええ、本当ですよ」
「いったいどこからそんな資金が……?」
喜ぶにはまだ早い。うまい話には裏があるはずだ。
透はゆっくりと振り返る。
「詳しくは言えないですが『資金運用』をしておりまして。あとは援助してくださる方々がいらっしゃるのですよ」
それにもうひとつ不可解な単語があった。
「援助?」
「ええ、我々の活動を応援してくれる方たちがいらっしゃるんですよ」
ますます胡散臭い。
とはいえ背に腹は代えられない。けど危険なことは避けたい。そもそも本当に信用していいものか。
答えの出ない思考の迷宮に囚われる透。
そんな様子を見てアランがひとつの提案をする。
「ひとつ職場体験でもするのがよかろう」
「職場体験……?」
「ちょうどいま任務中の子らがおる。それを手伝いに行ってもらおう」
「妙案ですね。アーティファクトの関わる事件がどんなものか知るのにもちょうどいい」
勝手に話を進める老婆と紳士。
「もちろん報酬は支払いますよ」
親指と人差指の先を曲げながらくっつけてお金のハンドサインを作りウィンクする。
「ぐっ」
お金の魅力に抗うことはできなかった。
「…………わかった」
「良い返事が聞けると思ってました」
嬉しそうに笑うサロモ。
バチンと老婆が指を鳴らすと、再びあの
「ふぅー」
安請け合いしてしまった気がする。足元に落ちているハンマーを拾う。
「そういえばまだお名前を聞いていませんでした」
「ウチは浜透、透って呼んでくれたらいい」
ほうと笑うサロモたち。
「? なんや?」
「いえ、こちらの話です」
ソファから立ち上がり透の背後に立つサロモ。
「では、向こうには真田チコくんという女性がいるので探してみてください、すぐにわかると思います」
「って、ウチひとりで行くんか?!」
「いえ、すでにふたりが現地にはいますので」
「いや、そういうことじゃなく! って、おい!」
トンと背中を押され文句を言いたげな透は穴の中へ吸い込まれていった。
「ご武運を」
サロモのその言葉を最後に透の視界は再び暗転した。
透が
背後の
辺りを見回すと幅の広い歩道と背の高いビル群。少し離れたところには大型の建物、ショッピングモールのようだ。
「女性に会えって言ってたけど、目立つ格好でもしてるんか」
サロモはひと目見ればわかると言っていた。よほど目立つ格好をしているのだろうか。秘密結社としてそれは問題ないのかはなはだ疑問である。
とは言えそんな心配をしている場合ではない。
こんなところでひとり放り出されてままではたまらない。そもそもどうやって帰ればいいのか、いまの透は財布ひとつ持っていない。
「あの、浜透さんですか?」
「!」
少年のようにも聞こえる低めの声。
突然背後から声をかけられて、声こそ出さなかったもののビクッと透の体が震えた。
慌てて透が振り返るとボンと柔らかものが顔面に当たって、勢い、数歩後ろに下がった。鼻が少しツンとする。
「な、なに……?」
「あ、ごめんなさい!」
透がぶつかった衝撃で閉じてしまった目を開くと背の高いスーツ姿の女性が目に入った。かなり身長が高い。女性にしては、というわけではなく男性と比べても頭ひとつ飛び出るくらいはあるだろうか。
なにしろ小柄とはいえ透の頭が胸の高さだ。手足も長く腰の位置は透の胸のあたりで、左手には布に包まれた一メートルほどの棒状のものを持っているが手足の長さと比べてもっと短く見える。
モデルでも通用しそうだが、胸や腰回りの生地は押し上げられてピンと張っている。どちらかと言えばグラビアモデル向きかもしれない。
「あの、大丈夫ですか……?」
そんなことばかり考えている透に対して目の前に立つ背の高い女性は目の高さを合わせるように屈んで透の様子をうかがう。
肩よりも長い黒髪は街灯の光を弾いて濡れたように輝き、タレ目がちな瞳は高身長が与える印象を和らげて柔和だ。
「浜透さん……?」
あれ、そういえばこのひとはなぜ自分の名前を知っているのだろうと透は疑問に思ってやっとそこで気がついた。
サロモのすぐにわかるという言葉はこういう意味だったのか。
「もしかして真田チコっていうのはあんた?」
「はい、そうです! 私が真田チコです!」
嬉しそうに笑うその顔はいたいけで、その体躯と打って変わって小動物のような可愛気がある。
「助っ人が来てくれるって聞いてホッとしてたんです、私」
涙ぐむように瞳をうるませて安堵のため息つきながら胸をなでおろす。見た目も声色もいかにも大人っぽいのに仕草は少女のそれだ。
「……助っ人?」
それってウチのことかと聞き返す透。
「はい。サロモさんから優秀な助っ人をひとり追加で送るから存分に頼ってくれって連絡があったんですよ」
語尾に音符でも付いているのか弾んだ声でチコは答える。
「助っ人って、ウチはついさっきアーティファクトがどうのって聞かされたばっかりでただの素人……」
沈黙がふたりの間に横たわる。
チコはキョトンとした表情を浮かべ、透は気まずそうに笑ってポリポリと頬をかく。
「ででででも! それだけサロモさんが頼りになるって思ったってことですよ!」
右手で握りこぶしを作って透を励ますチコ。
「そ、そうなんかな……?」
最初はその上背に驚いたが純粋で良い子なのではと、透はおそらく年上であるチコに対してそんな風に思い始めていた。
「ほんとに大丈夫か? 足、引っ張るなよ」
まだ若さの残る男の声。
透が声の方向へ目を向けると上下揃いのジャージを着た男がひとり訝しげに透を見ていた。
あまり手入れをしていないのか髪はボサボサに伸びて、体格は中肉中背。チコの隣に立つとあまり特徴のない見た目はどこにでもいそうな平凡さを際立たせていた。
「……お前、なにか失礼なこと考えてるだろ」
透の思考を読んで男はそう言った。
それに対して透はこうだ。
「お前こそモテへんやろ」
「あぁ!? なんだこのガキ!」
慌ててふたりの間へ割って入るチコ。仲裁しようと大きな声を出す。
「ちょ、ちょっとふたりとも喧嘩しないでくださぁい!」
ズイッと透を背中へ隠すように男の方へ詰め寄るチコ。
「もう! ライカさんのほうが年上なんですからこんなちっちゃい子、いじめないでください!」
「ちっちゃい子……」
チコにかかれば世の中の大半はちっちゃい子になりそうではあるが透はそれについては黙っていることにした。
「チッ、しょうがねーな」
頭ひとつ背の高いチコが見下ろすように男に迫るとさすがにこの男も強くは出られないようで、右手で後頭部をボリボリとかきながら視線を外す。
「ほらっ、ライカさんも自己紹介してください!」
「あー、俺は
「先輩たちのご活躍ゆっくり見させてもらいますわ」
軽口の応酬、再びふたりの視線は交わってバチバチと火花を散らせている。
「ン? まだ入るって決めてもないのに先輩っていうのはおかしいか?」
ひとりごつ透。
それを無視してライカはズボンのポケットから取り出したスマートフォンで時間を確認する。
「ぼちぼち約束の時間だから中に入るか」
そう言うとライカは目の前に建つ真新しいビルへ向かって歩き出した。
チコもそれに続き、透は置いていかれないよう慌ててふたりの後を追う。
「約束?」
「今回はこの会社の社長さんから直接依頼があったらしいですよ」
「『秘密結社』じゃなかったんか」
透の疑問はもっともだ。サロモの説明ではまるで社会の影で暗躍する組織のような口振りであったが、一般企業からの依頼も受け付けているとなってはさながら便利屋か探偵稼業といったところか。
「都市伝説だったり怪談話だったりもアーティファクトが原因っていうのはよくある話だ。だからその存在を知ってる一般人っていうのは案外身近にいるんだよ、歴史ある会社のお偉いさんとか田舎の年寄とか」
ビルに掲げられている社名を透は知らない。けれどもこれだけ立派なビルなのだから、もしかしたら高校生である自分には馴染みがないだけでさぞ有名な会社なのだろうかと疑問を抱く。
その様子に気づいて補足するライカ。
「お前ら学生は知らないだろうけど財閥系グループ会社のひとつなんだよ、ここは」
「へぇー」
透は適当な相槌を返す。
そうは言われても透にとってはあまりにも馴染みのない話であまり関心がわかない。一方でチコは、勉強になりますとライカの言葉に何度も頷いている。
照明の落ちた真っ暗な玄関へ向かう三人。
建物の一階、その正面はほとんどがガラス張りになっていて中の様子がよく見えるが、照明は落ちていてわずかな非常灯が照らすのみでひとのいる気配はまるでない。受付らしきカウンターも見えるが当然無人だ。
三人が玄関までたどり着くとガラスでできた自動ドアが音もなく開いて三人を迎え入れる。建物の外観は真新しくピカピカで、明かりが点いていない様子と相まってもしかしたら使われていないのではと思わせたが、どうやら稼働はしているらしい。
エントランスに踏み入れるとピカピカに磨かれた床材を踏みしめる音が他に誰もいない空間に反響する。エントランスは吹き抜けになっていて天井は二階分の高さ、玄関から真っ直ぐ進んだ先にはエスカレーターがあり二階へ上がれるようになっているようだ。エスカレーターを登りきったところにはエレベーターを示す案内板が設置されている。
「エレベーターは……、あっちか」
あたりをキョロキョロと見回しながら先導するライカ。その後をそそくさと追うチコはライカと違った様子で周囲に視線を配っている。
「な、なんだか誰もいない建物って不気味ですね……」
左手で持った棒状の包みを大事そうに胸で抱えている様子はその見た目に反してどこか愛らしい。
「そうかぁ? 俺はサラリーマン時代に残業残業で見回りの警備員と顔なじみになってた頃のことを思い出すよ」
「お仕事、頑張ってたんですね」
どこかずれた反応をするチコに、そういうことじゃないんだけどとライカは小さな声で反論したがそれ以上は特に訂正する様子はない。
それどころではないチコはライカの言葉にも気がつかず、大きな体を小さく縮こまらせている。
「……チコちゃんっていくつ?」
「え、わ、私ですか? じゅ、十九、ですけど、そ、それがなにか……」
「いや、なんでも」
「?」
十九歳、透が十六歳なのでその歳の差は三つということになる。そして先ほどのライカの言葉から察するとチコもまた学生、つまり大学生ということだ。
それなら少し落ち着きのない様子もわからないわけではない。けれど、透が気になったのは別のことだ。
(たった三年でこの発育の差、泣けてくる……)
コンプレックスというほどではないが、透は自身の体形が気にならないと言えば嘘になる。父親も人並みの体形だし、母も写真を見れば平均的な身長だった。家族の中では透だけが飛び抜けて背が小さい。せめてあともう少しだけでも身長があればと、チコを見て思わずにはいられない。
「エレベーター乗って最上階まで行くぞ」
エラーベーターホールに着くとライカがボタンを操作してエレベーターを呼ぶ。
程なくして、音もなくエレベーターは到着した。中へ入って再びライカがボタンを操作するとドアが閉まり、上昇を開始する。
「おお……!」
小さく感動の声を上げる透。
金属の箱が高速で上昇しているようだが音もなく揺れのようなものも感じない。最新のエレベーターというのはここまで快適なのかと感動する。
「一応依頼内容を確認しておくぞ。この会社の人間がどうやらアーティファクトを手に入れて悪用しているらしい、早急に手を打ちたいので対応求む、とのことだ」
「そんな簡単にアーティファクトってわかるもんなん?」
「さあな、詳しいことはこれから上で会ってから聞く約束なんだよ」
ポーンと音が鳴って目的階へ到着してくれたことを教えてくれる。
三人はエレベーターを降りるとエレベーターホールを出て廊下を進む。少し行くと観音開きの大きなドア。どうやらこのビルの最上階は執務スペースではなくホールになっているようだ。
ライカがドアを開けて中へ入る。
広いホールの最奥、壇上には初老のスーツを着た男性とそのそばには中年の男性がひとり。きっとあれが約束していたというこの会社社長だろう。ふたりはこちらに気がついて初老の男性が気安い所作で片手を上げる。
「やあ、ご足労いただき感謝するよ」
「いえ、こちらこそ情報提供ありがとうございます」
ライカが代表して受け答え、頭を下げる。
一方で壇上のもうひとりの男は三人を見回して訝しげな表情を浮かべている。
「?」
「社長、まだ全員ほんの子供ですよ。秘密結社などとうそぶいておいて、我々はおままごとに付き合っているような場合ではないんですよ」
そう言ったのはもうひとりのいかにも神経質そうな眼鏡をかけた中年の男だ。この男たちからすれば透たちが子供に見えるのはいささか仕方ないこともあるだろう。だが、透にとって気に食わなかったのはまだなんの話もしていないにもかかわらず子供のおままごとと見くびっているその態度だ。
「そういうあんたは見た目だけで相手を侮るってよっぽどの大物なんやろな」
ズイッと一歩前へ出て壇上の男を睨め上げる透。
「……なに?」
不機嫌そうな表情を見せる男。
「お前なんてことを!」
「そ、そうですよ! 謝ったほうが……!」
慌ててライカとチコのふたりは透を後ろに下がらせる。
「いや、いまのはこちらが悪い。部下の非礼を許してくれ」
頭を下げる社長と呼ばれていた白髪の男性。
「しゃ、社長!」
「この件に関して我々は素人、専門家は彼らだ。我々が訳知り顔でとやかく言うことではない。いいね?」
頭を下げたまま男へ鋭い視線を向ける社長。
「は、はい」
男はたじろいで一歩後ろへ下がる。
「フン、そういうことや」
「お前、本当に黙ってろ!」
得意げな透に対して怒鳴るライカはチコへ目配せし、チコは透の体をヒョイと抱きかかえて引き離すように後ろへ下がっていく。
「申し訳ありません……」
ライカが深々と頭を下げる。
「ははは、いいんだ。若いのだからあれくらい気概のあるほうが好ましい、我々のような大人の役目はそれを見守ることだからね」
「痛み入ります」
「そーだ、そーだ! ペコペコすんなー!」
外野で騒ぐ透を無視することにライカは決めた。
「……早速依頼の詳細を確認したいんですが、御社にアーティファクト所有者がいるので今日この場で回収してほしいと聞いています」
ライカはあたりを見回すが、透たち三人と眼前の男たちふたりのみで他にひとはいない。
「あなた方ではないんですよね?」
「ああ、そうなんだ。うちの役員に斑目ハイドという男がいてね、歳は君と変わらないくらいだろう」
やれやれとため息をついて、どこかばつが悪そうに頬をかく社長。
「恥ずかしい話だが、親会社の経営者一族の血縁者でね。それだけで役員にねじ込まれたんだがプライドだけ高く小心者、その上大した努力もしない、そんな男なんだ。プライドがあること自体はいいことだからそれがいい方向に向いてほしいんだが、そうそううまくはいかないらしい。困ったものだ」
「その斑目という男がアーティファクトを?」
長くなりそうな社長の言葉をライカが遮って本題に戻す。
「おっとすまない、脱線してしまった。そう、なにやら特殊な能力を身に着けたようなんだ」
社長はこれまでのことを語り始めた。
最初の異変は斑目ハイド直属の部下が突然会社を辞めると言い出したことだった。
彼は優秀なだけでなく物怖じせずものを言える人物だった。だからこそ斑目ハイドの下に配置し、フォローとお目付け役をお願いしていた。そういうわけでプライドの高い斑目ハイドとは頻繁に衝突していた。詰めの甘い斑目ハイドとっては言わば目の上のたんこぶと言えるような存在だ、疎ましく思われることも多かったと聞いている。
それでも彼は上司をくさすことはしなかったし、彼なりに支えようとすらしていた。本当に優秀な人物だ。
だが、半年ほど前に突然会社へ来なくなってしまった。その前日には人事部へ会社を辞めるとだけ報告して仕事を残したまま早退してしまったらしい。不審に思った担当者が辞職には手続きが必要なことを伝え、辞める理由を問いただしても「自分は会社にいてはいけない、だから辞める」の一点張りだったそうだ。
あまりにも様子がおかしく不審に思った人事部の人間が社長室へ相談し私の耳に入ることとなった。いま彼は病気による休職扱いにしている。
それからというもの社内には斑目ハイドの言うことをむやみに実行するものたちが段々と現れ始め、最初は目立たないような小さなことだったが次第に看過できないほどの事態になってしまった。
彼らは数日もすれば正気に戻っていて事情を聞き取ることができたおかげでおぼろげに事件の輪郭が見えてきた。
なぜこのようなことをしたのか問い質すと、皆一様に斑目ハイドから電話がかかってきて仕事の指示をされたと答え、内容に疑問を抱くこともなくとにかく実行せずにはいられなくなり、いまとなってはどうしてそんなことをしてしまったのかわからないと答えたらしい。
「不思議だろう? 電話で少し話しただけで強力な催眠、あるいは洗脳をされたかのように自己というものを失ってしまっているんだ。こんなこと常識では考えられない」
「それでアーティファクトを使用しているのではと考えたわけですか?」
「それがね、先日役員会があって私もそこの専務もその場にいたんだが、彼は突然に自分を社長に据えるよう言い出したんだ。どうなったと思う?」
なぞなぞを出す子供のように楽しげで、それでいて意地の悪そうな笑みを浮かべている。
「しゃ、社長になっちゃったんですか?」
チコがおずおずと答えたが、ライカがそれをすぐに否定する。
「いや、社長が交代になったのならこれだけ大きな会社だったらニュースになってるはずだ。けどそんなニュースは聞いたことがない」
「ふーん、じゃ失敗したってことか?」
社長は満足そうな表情を見せる。
「そう! その通り! 数人は賛同していたがほとんどの重役たちはみんなキョトンとしていたよ」
私もね、とウィンクを飛ばす。
「そのとき彼がひどく驚き、苛立った表情を浮かべていた姿をよく覚えている。きっと彼自身まだ力を使いこなせていない、いや、理解できていないのかな、それ故の困惑だったんだと思う」
「どういうこと?」
透は社長の言っていることの意図が理解できず聞き返す。
「努力で身につけた技術なら失敗しても内省し分析することができるだろう? もう一度その場で洗脳し直すことだってできたはずなのにそれもせずに苛立つなんて、
「なるほど、なるほど」
透はチコに抱きかかえられたまま腕を組んでしたり顔でなんどか頷く。
「お前本当にわかってんのか?」
そんな透につっこみを入れるライカ。
「ま、そういうわけでアーティファクト、もしくはそれに類するようなものを偶然手に入れたんじゃないかと睨んでいるんだ」
また透がなにか茶化すような発言をする前に話を進めるライカ。
「事情はわかりました。その役員会のときも電話をつないだりしていたんですか?」
先ほどの話では洗脳されていた従業員はみんな電話で指示を言い渡されていたということだった。ということは電話で話すことがアーティファクトの能力を発動する条件なのだろうか。
「いや、彼もその場にいたよ。ただ、うちくらいの規模の会社になると役員の人数もなかなか多くて部屋も広くなるもんだからマイクを使って発言するんだ」
「ではそのときはアーティファクトを使っていなかった可能性もあるのではないですか?」
「いや、使っていたはずだ。彼に賛同していたものたちの様子は明らかに異常だった、うわ言のように社長交代と連呼していたよ。後々そのときのことを聞いてみたら以前に事情聴取したものたちと似たようなことを言っていた」
「なるほど……」
ライカは右手を顎に添えて考える素振りを見せる。
「もしかしたら実体を持たないアーティファクトなのかもしれないな」
「実体を持たない?」
奇跡を体現する神秘の道具、それがアーティファクトだと透は説明を受けた。
実体を持たないということは姿形がないという意味だろう、それは果たして道具と言えるのだろうか。
「形が変わったり他のものに乗り移ったりするアーティファクトもあるんですよ。ライカさんのもそういうアーティファクトなんです」
チコがこっそりと透に耳打ちして教えてくれる。
言われてみれば透がハンマーを携帯しているようにチコもまた棒状のものをずっと手に持っている。おそらくそれがチコの持つアーティファクトなのだろう。しかし、ライカ自身は手ぶらで特に道具らしい道具を携帯しているようには見えない。アグノストの一員ということはライカ自身もアーティファクトの担い手であるはずだ、つまりチコの言う通り実体のないアーティファクトを装備しているのだろうか。
「とにかくまだ能力の詳細はわかりませんがアーティファクトだと考えて行動したほうがいいでしょう。それでその斑目という男はいまどこに?」
改めてライカがホール内へ視線を走らせても壇上の男たちと透たち三人を除いて他に人影は見当たらない。この場でアーティファクトを回収してほしいという依頼だったにもかかわらずだ。
「それが役員会以来出社していなくていまどこにいるかもわからないんだ」
困ったねと笑う社長。
「のんきやなぁ」
透は呆れた声を上げる。
「とはいえ彼が自由に使える人間は限られていて、我々はそれを把握している」
「というと?」
「何をしようとしているかはわかっている」
得意げに笑う社長。
「どうやら悪い若者をお金で雇っているらしいんだがコンプライアンス上困るんだよね、反社会的精力への資金提供なんて」
それに、と口にしてそれまでのどこかひとを食ったような態度とは打って変わった厳しい表情を見せる。
「そろそろ身の丈というものを理解してもらったほうがいいだろう」
「……ッ」
誰かの息を呑む音が聞こえた。それはもしかしたら透自身のものだったかもしれない。
「それで今日この場を用意したんだ、ちょうど十分な戦力が用意できたであろうタイミングにね」
「どういうことですか?」
「今日この場で私と秘書の彼で打ち合わせということになっている。役員会で恥をかいたことは許せないが直情的な行動はできない男だ、こちらから隙を見せてやる必要があるということだ」
社長は斑目ハイドという男をプライドが高く小心者な男と評していたことを思い出す。
「小心者というなら危険を冒してまで来ないのでは?」
「このビルは今日が落成式でね、本格的に稼働するのはまだ三ヶ月は先なんだ。だから最低限の警備員だけでほとんどひとがいない、格好のチャンスだと思わないかい?」
「そうだとしてもこんな時間に打ち合わせって怪しくないか?」
「ふふ、私くらい忙しくなるとこんな時間に打ち合わせすることはそう珍しいことじゃないんだよ。それに今日この場に現れない程度の野望だったなら最初から社長の座なんて狙ってないだろうさ」
透には社長の言うことはいまいちピンとこなかったが、大人になって働くとそういうこともあるのかもしれない。チラリとライカの表情を盗み見ると苦虫を噛み潰したような表情を浮かべている、社長の言葉になにか嫌なことでも思い出しているのだろうか。
「というわけでもうすぐ彼が来るだろうからあとはよろしく頼んだよ!」
そう言うが早いか、ホールの重厚な扉が滑らかに押し開かれる。
「こんなところで打ち合わせなんて不用心じゃないですか? 社長」
スーツに身を包んだ若い男。その後方にはチンピラのような風貌の男たちが何人も連なってホールへと入ってくる。
「せっかくの新社屋だからね、誰よりも先に使いたかったんだよ。斑目くん」
「えーと、あなたが斑目ハイドさん?」
ハイドの前に立つライカ。
チコは透をゆっくりと下ろし、ライカの何メートルか後ろに控えている。尋常ではない雰囲気にさしもの透もふざけずに真剣な表情でことの成り行きを見つめている。
「なんだお前、そこどけよ」
ハイドは見覚えのないライカを右手でどけるように押しやって、社長もとへ向かって歩き出す。
「ちょっとお聞きしたいことがあるんですが、最近変わったものを拾ったり、見覚えのないものが部屋にあったりしませんでしたか?」
傍らを通り過ぎるハイドへ向かって振り返り、言葉を投げかけるライカ。
「……さぁ、なんのことだか」
言葉とは裏腹に歩みの止まったハイドは前を向いたまま振り返ることはせず、表情は努めて平静を装っている。
そんなハイドの様子をおかしそうに壇上から見下ろしている社長の姿。
「君が最近手に入れた力、それはアーティファクトと呼ばれているもののひとつだ。知る人ぞ知る世界の秘密というやつで、もちろん君が嫉妬してやまない親族たちも当然知っているんだが、
その言葉がハイドにとってどんな意味があるのか部外者である透たちにはうかがいしれない。だがそれはハイドにとって余程許しがたい言葉だったらしい。
平静を装っていた表情は崩れ、歯を食いしばって両目は見開き血走っている。込み上げる怒りに耐えているような表情だ。
「……どいつもこいつも僕を馬鹿にしやがって! お前もだ! 部外者のくせに運良くその席に座れただけだろうが!」
社長を指差してハイドは唾を飛ばす勢いでがなった。
そして勢いよく振り返るハイド。
男たちを連れてきたのは交渉を有利に進めるためのただの脅しという可能性もあったが、どうやらハイドはその選択をせず実力行使に打って出ることにしたようだ。
「おい! こいつら動けないようにしろ! なにしてもいい!」
思い思い動き出すチンピラたち。
男たちの一番近くに立っていたライカはすぐに取り囲まれてしまう。
「まぁまぁ皆さん落ち着いて」
ライカはなだめようと男たちへ声をかけるが取り付く島もない。男のひとりがライカの胸ぐらを掴む。
「そりゃそうなるか。おい、社長さんは頼んだぞ!」
「え、ウチ!? というかそっちは大丈夫なん?!」
お世辞にもライカは腕っぷしが強いようには見えない。むしろ運動全般、体を動かすことは苦手な風に透の目には映っていた。
が、透のそんな心配は杞憂に終わる。
「————ゥォォォオオオ!」
まず現れた変化は瞳の色。暗い色だった虹彩が黄金に近い琥珀色へ変わり、手の指、爪が鋭く伸びる。少し開いた口からは犬歯が覗き、その大きさは人間のものとは比べものにもならない。獣のそれだ。口は尖り、次第に全身を黒く硬い体毛が覆い尽くしていった。
「グルルルル……ッ」
喉から絞り出されるような低い唸り声。
——そう、その姿はまるで
「狼男……」
狼男の姿へ変身したライカが左腕を振るうと胸ぐらを掴んでいた男が軽々飛んでいった。目の前の光景、夢でも見ているのかとライカを取り囲んでいる男たちはたじろぎ、その場に棒立って動けずにいる。
それを見逃すほどの甘さをライカは持ち合わせていない。
大きな手を男たちへ叩きつけて次々と昏倒させていく。
「クソッ、なんだよそれ! ええい、あの男を捕まえろ! 人質にする」
ハイドは動揺を隠せないまでも男たちへ次の指示を飛ばし、混乱していた男たちもすぐさまその指示に従って社長へ向かって走り出す。
「こ、ここは通しません!」
が、それをチコが許さない。
男たちの進路を塞ぐように立ちふさがる。
「……チッ」
男のひとりが舌打ちをする。
男たちの誰よりも背の高いチコの姿は女性と言えど脅威に映った。はずだった。
最初は驚き足を止めた男たちも、すぐにチコのモジモジとした様子に気がつく。おどおどしたその態度は気の弱い性格をよく表している。
「ケッ、見かけ倒しの所詮は女かよ」
改めてチコを侮る男たち。
「て、手加減は、しませんよ!」
チコはずっと大事そうに抱えていたもの、それを小脇に構え包みの布を取り去る。反りのある漆塗りの黒い鞘と小ぶりな鍔、右手は柄に軽く添えられている。
「日本刀……?」
「はっ、素人がそんなもん振り回しても怪我するだけだぞ」
「いまにわかりますよ」
先ほどまでのおどおどした気弱そうなチコの姿はもうそこにはない。
静かに鯉口を切る。
構わず歩を進める男たち。
瞬間、白刃が煌めき、まるで光の軌跡を残してその切っ先は男たちの体を撫でる。
いつ刀を抜いて踏み込んだのかもわからない目にも留まらぬ一閃。さながら達人の技。
崩れ落ちる男たち。
「イッデェェエエエ!」
まさか斬り殺したのでは、と思った矢先に痛みに耐えかねて叫ぶように痛みを訴える男たち。よく見るとその体に切り傷はない。峰打ちだったのか、鉄の棒に打ちのめされてその痛みに悶えているようだ。
ライカとチコが襲いかかるかかってくる男たちを次々と打ち倒し、動ける人数はどんどんと減っていく。この場が彼らに制圧されるのも時間の問題だ。
その様子を楽しそうに眺める社長とそれとは対照的に驚きの表情を見せる秘書の男。
「これがアーティファクト、そしてアグノストの力か……」
「そんなことよりもおっさんたちは逃げたほうがいいんとちゃう?」
ライカたちの思いがけない活躍に見惚れて動けずにいる壇上の社長たちへ透が声をかける。
「そうだね、最後まで見ていきたい気持ちもあるが邪魔をしては悪い。さきにお暇しよう」
行こうかと、と社長は秘書に声をかける。
「は、はい」
ふたりはライカたちを迂回するように出口へと向かうが、それを邪魔しようと男がふたり駆け寄ってくる。
「逃がすかよ!」
男たちにはもう余裕がない。
なぜなら簡単な仕事だと聞いていたからだ。金持ちのボンボンが気に食わないおっさんをシメたいからと人手を集めた。もともとはこんな人数いらなかったはずなのに、見栄を張りたいのかなんなのか知らないができるだけ集めろというからこんな人数になった。
なのに、なのに、結果はこの通りだ。狼男に刀を振り回す大女、仲間たちは次々打ち倒されていく。悪夢でも見ているようだ。
「ここはウチの出番やな」
不敵な笑みを浮かべ道を塞ぐ男たちと相対する透。右手には一振りのハンマー。
「クッ」
小柄な透に対してかなり体格の差があるにもかかわらず、たじろぐふたりの男。
「はっはっはっはっ、刮目して見よ!」
透はハンマーを男たちの眼前へ掲げるように持ち上げる。身構える男たち。
「……」
「……」
訪れる沈黙。
「…………あれ?」
男たちは顔を見合わせる。
サッと血の気が引く透。
(これ、あかんやつや……!)
「おい」
「ああ」
男たちは目配せして呼吸を合わせる。
ジリジリとゆっくり男たちが間合いを詰める次の瞬間、透に向かって男が手に持ったバットで殴りかかる。
すんでのところで透は飛び退いてそれを躱し距離を作るが、もうひとりの男が間断なく透を取り押さえようと腕を伸ばす。
「ちょっ、ちょちょちょ!」
透の逃げる足は速い。身長に差があれば必然的に一歩の大きさにも差が生まれるが、それでも男たちは必死になって逃げる透には一向に追いつけない。
「ほー、彼女の持つアーティファクトは足が速くなるものなのかな」
「これは生まれつきやー!」
そんな光景を茫然と見つめる斑目ハイド。
(一体これはなんだ……? なにが起きている……?)
ことは簡単に済むはずだった。
ハイドが狙っているあの男は用心もせずにまだろくに稼働もしていない新社屋で、しかもひと目のないこんな深夜に打ち合わせをするなんて隙だらけもいいところだ。
だからツテを使って使い捨ての駒を集めた。後は適度に脅し、必要が生まれれば痛めつけて、それであの男が許しのひとつでも請えばハイドはいい気分で『力』を振るって社長の座を
なのに蓋を開けてみれば想像とは違う光景が目の前に広がっている。いや、こんな状況を事前に想像しろというほうが無理難題だ。
どこの馬の骨とも知れない連中がなぜかこの場にいて計画を邪魔してくる。しかも明らかに異常な存在だ。刀を振り回す大女は、そういう人間を雇ったと納得することもできるがもうひとりの男は狼男ときた。
空想上の非常識な存在。
斑目ハイドが手に入れたのと同じようにこの男たちもまた
その事実がハイドをより一層苛立たせる。なにせ、ハイドは力を手に入れてから何度もそれを行使してきた。しかしながら、時折、失敗することがあった。理由はわからないが、力が効かない相手には何度試してもうまくいかなかった。この力にはまだハイド自身が理解していない制限やルールがあるのだ。
そのせいで失敗する。失敗するということはハイドにはなにかが足りていない。目の前で力を使いこなす男たちはその事実をハイドに突きつけている。
「くそ……、くそくそくそくそくそっ!」
地団駄を踏むハイド。その姿はまるで駄々をこねる子供だ。
「社長の座を狙うというのであればこんなやり方ではなく、もっと別のやり方があったんじゃないか? 斑目くん」
諭すような優しげな口調でハイドに話しかける社長。
「うるさぁい! お前に僕のなにがわかるんだよ!」
白い歯をむき出し、ハイドは激怒する。
ハイドはポケットからスマートフォンを取り出すが、
「いや、このままじゃダメだ。こいつを通した声を聞かせないと……」
左手で頭をかきむしりぶつぶつとつぶやく声は他の誰にも届かない。
ハイドのアーティファクトはその手に持つスマートフォンだ。いや、正確にはそのスマートフォンに宿るなにか。
ハイドが気がついたときにはいつの間にかその力は宿っていた。その効果は一度気づいてしまえばごく簡単なものだ。スマートフォンを通して言葉を聞かせればその言葉の通りに聞いたものを操ることができる。しかも、その力は一時的に他のものに移すこともできた。だから役員会の日には力をマイクへ移し、あの場にいるやつ全員を操ってやるつもりだったのに、失敗した。
なぜ失敗したのかいまだにハイドにはその理由がわかっていない。命令する内容の問題なのか、それとも選んだ言葉、いや、もしかしたら日時や距離か、声の大きさが影響している可能性だってある。関係の有りそうな要素を考え出せばきりがない。
とにかくいまはこの場でこの力を通して声を聞かさなければならない。
「そうだ、形。形が変わればいいんだ……」
スマートフォンのままでは自身の声をアーティファクトを通して聞かせることができない。けれどもし、いま手にしている機械がもっと別の、発した声を外部へ出力するようなものであればそれも可能になある。
——
すると手に持っていたスマートフォンが溶けるようにその姿を変えていく。担い手の思いに応えてアーティファクト自身が宿る機器の姿を変化させる。
次第に形づいたそれはメガホン型の機械、拡声器へと変化してしまった。
『全員動くな!』
拡声器を通したハイドの声がホールに響く。
「————!」
その声を聞いて男たちの動きは一斉に止まる。そしてライカとチコもまた身動きできずにいた。
「な、クソッ……」
「う、うごけない……」
その光景に満足そうな表情を浮かべるハイド。だが、その表情はすぐに驚愕と困惑が入り混じったものへ変わった。
「ふむ、これだけの人数が動けずにいる光景はなかなか壮観だね」
平然と歩く社長の姿。
「な、なんで動ける!」
「さて、なんでだろうね」
両肩をすくめ、とぼけた仕草。
そのジェスチャーはハイドの癪に障った。
『こいつを殺せ』
手に持った拡声器を使ってすぐそばの男へ指示を出す。
男の手には大振りなサバイバルナイフ。
「それは困るね」
男の目は虚ろで意思というものは感じられない。けれど、その動きはしっかりしていて社長の命を奪い去ろうと着実に距離を縮める。
ナイフで武装した男に対して社長は丸腰だ。武術の達人でもない限り素手で敵うはずがない。なのに逃げる素振りも見せずその場に立って男の様子を興味深そうに眺めているだけだ。
男はほんの一息の距離まで近づくとナイフを大きく振りかぶって社長へ襲いかかる。この距離であれば外すことはないだろう、ハイドも確信の表情を浮かべている。
ゴンッ、と鈍い音がホールに響いた。
振り上げられたナイフが社長に届くことはなかった。
「あ、当たった」
少し離れたところで右腕を男の方へ向けて伸ばしたまま固まっている透は、投げたハンマーが見事男の頭に命中し昏倒させた事実に驚いているようだ。
「……なんだお前」
苦々しげにつぶやくハイド。
それを無視して走って社長の前に立つ透。ふたりの視線が交差する。
「クックックッ」
さもおかしそうに笑う社長に、透は怪訝な顔だ。
「なにわろとんねん! 動けるならさっさと逃げる!」
そうは言うものの透自身このあとどうすればいいのか案があるわけではない。それでも丸腰の社長よりもアーティファクトを持つ自分が残ったほうが幾分マシだと判断したからだ。
ただ、後から思い返してみれば、このときの透は少しばかり自棄になっていたのだと思う。貧乏な暮らし、突然の借金、秘密結社、アーティファクト。不安と混乱で理性が麻痺していたのだと分かる。
「いや、少し待ってくれないか。いい機会だ」
「は、はぁ?!」
透の背後に立つ社長は、透の頭上を越えてハイドを見つめる。
「少し、話をしよう」
「なんなんだよお前らは! 僕の邪魔しやがって! いつも、いっつもそうだ! 誰かが僕の足を引っ張って失敗する姿を笑ってるんだ、そいつらのせいで僕は……、僕はぜんぜん
床に落ちているナイフがハイドの目に入る。先ほど透に昏倒させられた男の握っていたものだ。
拡声器を左手に持ち替えて右手でナイフを拾う。
『こいつらを取り押さえろ』
周りの男たちへ指示を出す。
「ちょ、ちょちょちょ……!」
抵抗虚しく透と社長は男たちに羽交い締めにされ身動きが取れなくなってしまう。
「お前らが悪いんだ、僕の邪魔ばっかりしやがって。この僕がこの会社を舵取ってやるっていうのに……、あいつらもずっと見下しやがって……」
血走った目で社長を睨むハイドは、果たしてその目に映っているものは。
「ひとつ、いいかな」
取り押さえられながらも余裕そうな表情の社長はゆっくり口を開く。
「私が思うにおそらく君のその力、もともと君の言葉に従う意志のあるもの、あるいは、意志の弱い流されやすいようなものにしか効果がないんじゃないかな」
「は?」
ハイドの額には青筋が浮かんでいる。
「現に私には効果がないし、このお嬢さんにもね。かく言う私もさっき会ったばかりなんだがなかなかはっきり物を言うお嬢さんで、しっかりした考えを——」
「うるさい! ペラペラと……、自分の立場わかってるのか!」
にじり寄って、ハイドはナイフの切っ先を見せつけるように社長の眼前へ突きつける。キラリと刀身に照明が当たって光る。
「それだけ君の言葉は軽い、ということだ。重みもなく説得力もない、もともと聞く耳を持つものを操ったところでできることと言えばこの程度だ」
「う、うるさい! うるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさぁい!!!」
激昂するハイド。その声は虚しく響く。
「命乞いでもするんだな! そうしたら許してやるよっ!」
「命乞い? こんな小さな子供ひとり従えられない君にする命乞いなんて私は持ち合わせていないよ」
歯を食いしばり怒り込み上げる怒りに表情を歪ませていたハイドから一転して表情が消える。
「ち、小さいは余計や!」
「え? ああ、これはすまない。身長ではなく年齢という意味だったんだが」
「これでも高校生や! んな小さい言われる歳ちゃう!」
「ええ……、それは、重ねて申し訳ない」
「ってそんなん言うとる場合ちゃうやろ!」
ナイフ片手に歩み寄るハイド。眼光は鋭く透を睨みつけている。
「……まずはそのチビから思い知らせてやるよ」
「ウ、ウチは関係ないやろ!」
「ではあとは任せたよ、アグノストの若きエージェントくん」
「おい、こら! おっさん!」
透へ迫る凶刃、最早ハイドを言葉で説得することは難しいだろう。そもそも透は言葉で説得できるような話術を持ち合わせていない。
——……ィィィィィィイイイイイイン
絶体絶命の状況で透の脳裏に浮かぶのは一振りのハンマー。
透はあの事務所の倉庫でジュラルミンケースを目にしたときからその存在を感じ取っていた。男に向かって投げたせいでどこへ行ったかわからないいまも気配はずっと感じている。
アーティファクトはその使用者を選ぶとサロモは透に教えてくれた。
けれど、透自身にはなぜあのハンマーに選ばれたのか、その理由はわからない。
ただ、あのとき、あの場所に居合わせた偶然になにかの気まぐれで透を選んでくれたのかもしれない。そのせいでこんな目に会っていることは間違いないが、それでもあの場は助かったのだから感謝の気持ちが透にはあった。
そういえば、と透は回想する。
倉庫に閉じ込められた透の目の前に次々と男たちが現れて好き勝手言うものだから、謂れのない多額の借金も相まって、感情が爆発し、一泡吹かせてやらなければ気がすまなかったことを覚えている。その感情の爆発にあわせてあのハンマーの存在感が増していったことを思い出す。
そうだ、ただ単純にハンマーを振るっただけでは意味がない。それではただ柄が短いだけの不格好なハンマーに過ぎない。
超常の力を秘める神話の戦鎚。それがどんな曰くのものか透は知らない。
ただ、それの持つ力を使うならば、一方的にひたすらすがるのではなく、それ相応の意志を以って使役しなければならない。
——キイイイィィィイイイイイイン……
あの音が聞こえてくる。脳裏にはパチパチと迸る青白い閃光
姿は見えない。身動きも取れない。手の届く距離にはない。
あの紳士がその名を口にしていたことを思い出した。
呼べば必ず応えてくれるはずだ。
透はその名を叫ぶ。
「——————来い! ミョルニル!」
床に寂しく転がっていたハンマーは自らの意思で宙を舞い、吸い付くように透の右手へ収まる。
「は?」
ハイドには目の前で起こった現象を理解できない。
透がハンマーを握るとその頭部からバチバチと音を立てて青白い雷光がその触手を伸ばす。次第にその数は増していき、透自身の体もその青白い光を纏って輝く。
そのエネルギーは増していき、
——バチバチバチィッ!
一際大きな音が透を中心に鳴り響き、雷撃が透の体を取り押さえていた男たちをその衝撃で吹き飛ばした。
「な、なんだよ、それは……!」
フッと照明が落ちた。透の発する電撃によって電気系統がいかれたのかもしれない。
いまなお雷撃を帯びる透は真っ暗闇に包まれたホールの中で唯一光を発し、その姿を否応なく見せつけている。
「まったく、口を開けば足を引っ張られたとか邪魔されたとかひとのせいにして文句ばかり」
透はミョルニルを、驚き立ちすくんでいるハイドへ向ける。
バチバチと音を立てて床との間に何本もの線が伸びている。
「挙句の果てには無関係なウチに当たる始末、恥ずかしくないんかアンタ」
「う、うるさぁい!」
ナイフを振りかぶって切りつけようと迫るハイドだったが、
——バチィ!
ミョルニルから伸びた電撃がナイフを弾き飛ばす。
「あ、ぎっ!」
電撃がその手を焼いて赤く染め、痛みから情けない声を出したハイドは左手で右手を押さえている。
「いままでどんな人生を歩んできてどんな目に合ってきたか、ウチは知らん」
一方でミョルニルを振りかぶる透、まるで透の言葉に呼応するかのように少しずつミョルニルの頭部が大きくなる。
「よっぽどのつらい目だったのか、それはウチの想像にも及ばないようなもので、もしかしたら同情されるべきなのかも知らん」
雷光もまた強くなり、まばゆい光が透の姿を包み込むように照らしている。
「けどそんなことは見ず知らずの他人、ウチには関係ない。あんたは少なくとも大企業の役員で実家も金持ちなんやろ?」
伏し目がちに語っていた透は改めてハイドの目を見つめ、そのツリ目がちな瞳に射抜かれたハイドは数歩後退った。
仮にも大企業の役員、大財閥の血縁者であるハイドは海千山千のものたちと接する機会は多く、並大抵の凡俗に臆することはない。にもかかわらず、透の迫力に圧され動けないどころから逃げるように後退してしまった。
古来、身近な自然現象である『雷』、すなわち『神鳴り』は、神の為せる御業として世界のいたるところで信仰の対象となっている。ミョルニルの
さながら透はいままさにその威光を示さんとこの場に降臨した存在の如く。
「その日の食うものに困ることもなければ、
ハンマーはすでに透の体ほどの大きさまで巨大化している。
「…………借金なんて無縁の人生、もうそれだけでいまのウチより恵まれてるやろがい」
迸る雷光がホールを青白く染める。
「はぁ、自分で言うててあったまきたわ! もうアーティファクトとかどうでもいい!」
透はハイドへ向けて左足を一歩踏み出す。
「ひっ!」
「ただ、ウチの怒りを、受け取れーーーーーー!!!」
振りかぶったミョルニルをハイドへ向けて掻き払う。ハイドは些細な抵抗のつもりなのか、手に持っていた拡声器を透へ向けて投げつけるが雷光に飲み込まれ砕け散る。
まるですぐ近くに雷が落ちたかのような衝撃。
雷鳴が轟き、青白い光がホールを埋め尽くす。轟音に耳は麻痺し、白い光が網膜に染め上げて視覚と聴覚は奪われるがビリビリと空気を震わせている振動を肌で感じる。
この場でなにが起こったのか正確に把握できたものはいない。
それでも次第に五感は回復する。
照明の切れたホールに月光が降り注ぐ。
衝撃で床に倒れ伏すハイドの姿。どうやら気絶しているようだ。
「さすがにこんなもんで殴り飛ばしたら死んでまうからな、こんくらいで許したる」
ミョルニルはトンカチくらいの大きさまで縮み、透はそれでトントンと自らの肩を叩いている。
透が打ち砕いた拡声器は粉々に砕け見る影もない。
「これって回収できんのか……?」
動けるようになったライカはすっかり人間の姿に戻っていて、砕け散った破片を見ながらそうつぶやくと、その言葉に透はビクリと体を震わせる。
「ま、まあー一件落着っちゅーことで……」
目が泳いでいる。
「はぁ、仕方ないか」
ライカがスマートフォンを取り出してどこかへ電話をかける。
「こちら片付きましたので回収お願いします」
それを不思議そうな顔で見つめる透。
「外部の協力組織があるんだ、後処理とか人手が必要なことや工作が必要な場合に強力してもらってるんだ」
「え! だったら最初から協力してもらってたら……」
「戦力としては期待するな、みんな担い手ではないただの一般人だ。危険な目にはあわせられない」
「えー……」
「ワガママ言っちゃダメですよ、皆さん良かれと思って協力してくれてるんですから」
「ぐぬぬ」
三人のもとへ社長がやってくる。
「どうやら片はついたようだね、感謝する」
深々と頭を下げる社長。
「いやいや、それほどでもー」
「おい、あんまり調子乗るなよ」
「ははは、彼にとってもいい薬になっただろう」
二、三言葉を交わして透たち三人はホールを後にした。
ホールはミョルニルの雷撃の衝撃によってその天井の半分以上が吹き飛び、月明かりに照らされまるで深海のような静けさだった。
初めての任務が終わり、透は再びあの洋室へと戻ってきた。ライカとチコも一緒だ。
「初めての仕事はいかがでした?」
ソファに腰掛けマグカップに口を付けるサロモの姿が透の目に映る。
「あんたどこ行っとったん?!」
透はサロモに詰め寄る。
職場体験などと言いながら透ひとりを送り出してその後のフォローもない。なんとかなったからいいものの命の危険すらあった、文句のひとつでも言ってやらないと透の気がすまない。
「後片付けをしていたんですよ。貴女が気絶させた男たちもあのまま放っておくわけにはいきませんから」
「あっ」
サロモが何をやっていたのかに思い至り、バツの悪い表情を浮かべる透。
「そ、そいつはどうも……」
「いいえ、大したことではないですよ」
歯切れの悪い感謝の言葉を素直に受け取るサロモ。
「あれ、そういえば」
透はあたりをキョキョロと見回す。先ほどこの部屋にやってきたときにはサロモの他にアランと名乗った老婆がソファに腰掛けていたがその姿は見当たらない。
「ああ、彼女なら——」
サロモの声を遮る別の声。
「ご苦労だった」
女性の声だった。少しハスキーな大人の女性の声。その声がソファの背後から聞こえてきた。
声の主はソファの陰にいるのか姿は見えない。
「ん? だれ?」
と、ソファの陰からひとりの女性が現れた。ソファの背後を滑るように出て、洋室の中央に設置されているアンティークな書斎机へ向かう。
チコほどではないが女性にしては背が高い。漆黒のスーツに身を包んだ肉体は引き締まり、燃えるような炎を思わせる赤い髪、双眸は金色。妙齢の女性といえばいいのか、声の感じからすると幾分若い印象だが、その立ち居振る舞いは数多の経験を積んだものが持つ年季の入った所作にも見える。
「え?」
透が疑問に思ったのはなぜそんなところから女性が現れたのかということだ。大人が何人も座れるような大きさのソファだからその陰にひとひとりが隠れるだけの大きさは十分あるが、それにしても隠れるにはわざわざその体を小さく丸めておく必要がある。
おまけにソファから現れる動きはまるで地面を滑るようで、エスカレーターのパントマイムを見ているような不自然さがあった。
「改めて自己紹介しよう、わしがアグノスト総帥アラン・スミシーだ」
そう言って、アランと名乗った女性は机の椅子を引きそれに腰掛けた。
「は?」
「ふふ、みな似たような反応を示すな。普段は身を隠す意味であの老婆の姿をしているんだ」
アランの言葉をうまく飲み込めずに混乱している透に、私も同じような反応でしたよとフォローするチコ。
「使いこなす、というには程遠いがアーティファクトの力を引き出すことはできたようだな」
アランは机に両肘をついて組んだ指の上に顎を乗せる。黄金色の瞳が透を鋭く射抜く。
「ッ!」
ドキリ、と透の心臓が脈打ってひとまず混乱は飲み込んでおくことにした。
「それで初任務はどうだった?」
アランの瞳に見つめられるとなぜか誤魔化してはいけない、真実を語らなければならない、そんな気持ちにさせられる。
もとより透には嘘をつくつもりなど微塵もなかったが、素直にその気持を口にすることにした。
「こんな力があったら悪用しようとするやつは必ず出てくるだろうし、それを止めなくちゃいけないってことはよくわかった」
右手に握ったミョルニルへ透は視線を落とすと同時にホールで体感した出来事を思い出す。
透の意志を実現しホールを制圧したミョルニルだけではなく、斑目ハイドの使用したアーティファクトも言葉を発するだけであの場にいたほとんどのものの動きを縛っていた。今回は大した被害が発生する前に止めることができたが、あの力が独裁者の手にでも渡っていたらその惨事は想像に難くない。ライカの男たちを何人も吹き飛ばしたあの力も、チコの刀を振るう姿も常人を遥かに越えた力だった。
それゆえに、法律遵守のために警察組織があるようにアーティファクト悪用を阻止するための組織が必要なことは透でもわかる。しかも、アーティファクトの力をもってすればルールを破壊、無視することは容易だ。だからアーティファクトを管理するものも同様の力を持たなければならず、担い手を必要としていることは理解できる。
だが、
「……正直、その役目はウチには荷が勝つ」
透の目に映る小ぶりな姿をしたミョルニルは本当にただのハンマーにしか見えない。あんな力を持っているとは到底思えない。
「被害者を産まないため、正義のためっていうのはなんとなく分かる。けど、ウチのガラじゃないっていうか、そんな世界を背負うみたいな資格ないというか……」
ただでさえ厳しい毎日を送っていたのに、いまでは透は一億円の借金を背負う女子校生だ。そんな明日がどうなるのかもわからないような自分が世界の命運を握るなんて想像もできないし、そういうのはもっと余裕があって高尚な思想を持っているような相応しいひとが担うべきなのではないだろうか。
「そんな風に難しく考えることはない」
アランの少しかすれた声はひとを圧倒する迫力がある。だが、その迫力の中にも優しさのようなものを透は感じた。
「君の借金は組織で買い取ったよ」
「は?」
今日だけで何度目になるかわからない透の驚きと混乱。
「『後片付け』と言っていたが、サロモはそのためにさっきまで働いてくれていてね。もう君を攫おうってヤクザはいないし、組織で働いてくれるというのなら報酬のなかから少しずつ返済してくれればいい」
利子もないですよ、と補足するサロモ。
「そしてこれが今回の報酬だ」
アランは一枚の紙切れを懐から取り出して机の上に置いた。目配せをして透へ取るように促す。
透はゆっくりと机に歩み寄って紙切れを手に取る。初めて見るがどうやら小切手らしい。
その紙片の中央には金額が書かれている。
「いちじゅうひゃくせんまんじゅ……」
見たことのない桁の金額で咄嗟にいくらなのかがわからず透は桁を読み上げる。が、すぐにその桁の大きさに気がついた。
「〜〜〜〜〜〜!」
声にならない叫びというやつだ。
小切手に記載されていた金額は一千万円。
透が人生で遭遇した金額では最も大きいし、どれくらいの金額なのかいまいち現実感がない。
「今回は君の働きが大きかったようだしそれは正当な報酬だ、受け取りたまえ」
透は呆然と小切手を眺め、ライカとチコへ視線を送ると、ライカはため息をついて肩をすくめ、チコはニコニコと微笑んで頷いてみせる。
「難しく考える必要はない。報酬目当て、借金返済が目的でいいじゃないか、組織をやめたくなったならそのときに相談してくれればいい」
組んだ指に顎を乗せたまま優しく微笑むアラン。その表情には慈愛のようなものを感じる。
「ん〜〜〜!」
頭を抱えて悩む透。
一億円なんて借金、まっとうな仕事に就いては一生かかっても返しきれない金額だ。借金の返済に追われて馬車馬のように働き、返済できたとしてもその先に残るものは『無』だ。何十年かけて返しきったところでそれはマイナスがゼロになっただけで先立つものはなく、惰性のように余生を過ごすだけ。
そんな結末のために生きてなんの意味があるのだろうか。それならここで人生を終わりにしても変わりはないのではないか。
いや、いや、そんなことは許せない。
そんな風になりたくなくていままで懸命に生きてきた。それをいまさら諦めたくない。
いま目の前には非常識で理解し難い危険も伴うような仕事。誰でもその仕事をできるわけではなく、透は幸か不幸かその権利を有している。
(今日だけで一千万の報酬、一気に返済して自由になることだって現実的なんじゃないか? なんなら老後の蓄えだって作れるかもしれない)
そう考えるとうじうじと悩んでいた自分、父親のせいで背負った借金、それらが透にはバカバカしく思えてきた。
「————やりましょう」
ニヤリと笑ってみせる透。
それに応えるようにアランも微笑みを浮かべる。
「では契約書にサインだ」
いつの間にかソファから立ち上がっていたサロモが一枚の紙を机の上に置く。
その紙にはいくつかの注意事項が書かれているが透は斜め読みし、下部にある空欄へサインする。
それをアランは満足そうな表情で見つめている。
「ようこそ秘密結社アグノストへ、透。ミョルニルの担い手よ、我々は君を歓迎する」
「わーい、やったー!」
チコは嬉しそうに後ろから透を抱き上げる。
その様子を眺めながらやれやれとため息をつくライカ。
サロモは少し離れたところから三人を見つめている。
「おっと、言い忘れていた。うちの組織はかかった経費は自己負担なんだ、だからこれはよろしく頼むよ」
抱きかかえられたままの透にサロモがうやうやしく一枚の紙を手渡す。
「? 経費ってウチは今回お金のかかるようなことはなにもしてないけど……?」
現場への移動はアランの
そういえば後処理部隊は来ていたけど、あれは透が呼んだわけではないし負担する謂れはないのでは、とライカへ視線をやる。
「彼らには俺から報酬を前払いで払ってるよ、だからそいつは別件だ」
ではなにが経費としてかかっているのか、透はサロモに渡された紙、請求書を確認する。
——ビル修理費五億円也
「??!!!?!?!!!???!?!?!」
これ以上驚くことはもうないだろうと思っていたのに、いままでで一番の驚き。
目玉は飛び出て、心臓が止まったと透は本気で思った。
「ビルオーナーからしたら落成式当日にあんな状態になってしまうなんてたまったもんじゃなかったろう」
「こ、ここ、こ、これ、ウチが払うん?!」
請求先名義には『浜透様』と明記されている。
「壊したのは透って聞いてるからね」
透はチコとライカへ素早く視線を走らせるが、ふたりは咄嗟に目を逸らす。
「お、お前らーーー!」
「まぁいまは払えないだろうから組織で立て替えておく。借金と一緒にゆっくり返してくれたらいい」
うつむきプルプルと震える透。
「と、透さん……?」
チコが恐る恐る声をかける。
「こんなん詐欺やないかーーーーーー!!!!!!」
透の叫び声が虚しく洋室に響いた。
——残り返済金額五億九千万円也
(読切)スレッジハンマー・フェノメノン 与野半 @nakaba-yono
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