時計と針

碧海 山葵

時計と針

「気がついたら止まっていたの。」


タカヒロはユミにそう言われてやっと現実に戻った。



付き合って3年、一緒に暮らして1年。

もうお互いは空気のようになっていた。そう、良くも悪くも。


もともと社交的で友人も多いユミは、外に出かけることが多かった。自宅で仕事をし、休みの日も家で過ごすことを好むタカヒロとは正反対。

だけど、どこかに行こうとか動かないと体に悪いよ、とかそういうことを言ってこないところを僕は気に入っていた。


だから自然な流れで付き合い始めてからずっと会う時はだいたいどちらかの家になった。映画を観たり、ご飯を食べたりするだけで僕は満たされていた。


それはユミが料理上手だったことも大きいのかもしれない。特に朝つくってくれるたまごトーストが僕のお気に入りだ。


まだ半分目を閉じたまま起き上がり食パンをトースターにセットする。これが僕の役目。

食パンは4枚切りの分厚いやつ。ユミと出逢わなかったらおそらく食べていない厚みだなと毎度思う。


その間にユミは卵をといて、油をひいて熱したフライパンで薄焼き卵を2枚焼く。

「ちょっと半熟なのが美味しいんだよねー」

と言いながらユミは2枚目のより半熟な方を僕のトーストに譲ってくれる。


トーストには卵を乗せる前にマヨネーズとからし、この2つを薄く塗る。なぜか僕が塗るよりユミが塗る方が美味しい。


辛いものが苦手な僕がからしを食べられる唯一のタイミングが実はこれだけなのをユミは知っているのだろうか。

このとき使うからしが納豆についているちいさいものだということがその証拠だ。納豆を日々食べているのは僕だけだから。


納豆をよく食べる僕がぽいっとしようとしているのを、ユミが回収してこのためにとっておいてくれている。


「からしチューブを買わなくていいから助かる。」

ユミはいつもそう言って微笑みながら使う。


カリッと焼けたトーストと半熟の薄焼き卵。

薄くなったマヨネーズとからしがそれぞれの良さを引き出し合う。僕のリクエスト第一位メニューの完成だ。


でも、こんなふうにたまごトーストを褒めると夕食の方が手が混んでいるのに、と口を尖らせてすこし拗ねる。

それがまたいい。

僕はそんなことを直接言えるようなタイプではないけれど、きっとユミならわかってくれている。


こんな感じで始まる朝はいつも以上に何もしない。少し体を起こしてゲームをしたり、テレビをみたり。体を起こしていたらまだいい方だ。1日中ベッドから出ない日だってあった。


ユミはいつも金曜日の夜に来て、日曜日のお昼に帰って行く。憂鬱はやってくるのがはやい。不甲斐ないが僕はあまりユミの気持ちを

察せないところがあった。

嫌なら辞めてしまえばいいのに、そう思った。

眉毛がつながりそうなほど眉間に皺を寄せて不満を言いつつも辞める気配も見せず、必ず朝起きて会社に行くユミの気持ちがわからなかったし、そんな彼女に何という言葉をかければいいかもわからなかった。


たぶん僕はユミのことを何にもわかっていなかったのだろう。


映画を観ながらビールを何本も飲むユミ。

そのあとユミは決まって泣く。


泣くようなシーンではないところでも泣く。

僕は無神経だから「なんで泣いているの」

と聞いた。

ユミはさらに泣いた。


映画をみて泣くユミは感受性豊かなだけだ、と思うことにした。

ユミはよく笑ってよく泣いていた。

それはいつものことだった。


日曜日の昼。


「ここに住めば?」と言った。軽い気持ちだった。


間があった。


「タカヒロはいつもそうだよね」

とユミは目を伏せてそう言ったけど、意味がわからなかった。


それでも数秒後には笑って「そうする」と一度帰って荷物を持ってきた。

これもきっといつものことだ。


服や日用品は僕の家にもだいたい揃っていたのでユミはお気に入りのものだけ持ってきた。嬉しそうにそれらひとつひとつにまつわるエピソードを話してくれた。

今となってはそのほとんど思い出せないが、この時計のことは覚えている。


最近は携帯で時間を確認するし、僕の家には時計がなかったからそれは逆に新鮮に僕の目に映った。


時計をみてはユミは笑っていた。

よく思い出し笑いをしていたから、特に気にしなかった。ただそれを眺めていた。


時計は友人からの貰い物だと言っていた。


僕の家に住むようになってからもユミはもともと自分が住んでいたアパートを契約し続けていた。時々1人になりたくなるらしい。

夕暮れ時はたまに帰って行った。


何も言わずそっと猫のようにいなくなって、ふらっと戻ってくる。


あの日も、朝は憂鬱に飲み込まれたのか元気がなかった。それなのに、夕日をみたら元気になるのか夜になると「今日は鍋にしよう」と言って、ふらっとスーパーの袋と一緒に帰ってきた。


だんだんそんな日が増えた。


ある日、ユミは夜中になっても帰ってこなかった。


僕はいつか帰ってくるだろうとゲームをしていた。ユミの家はここなんだからまたどうせふにゃっと帰ってくる、と。


仕事をし、ご飯を食べ、ゲームをして、一緒に眠る。当たり前と思うこともないくらいに普通、それだけだった。


ユミは2日帰ってこなかった。

そんなことはこれまで一度もなかった。

僕はこの時はじめて動揺した。


鈍感な僕の勘はこんな時だけしっかり働いた。大丈夫、そんなことあるはずがない。ぐらぐら揺れる脳内でそう唱えながら、起きたままの格好でユミのアパートに向かった。


僕の家から走ってわずか10分の距離。

はじめて僕はその家のインターフォンを押した。


二階建ての小さな木造アパートの角部屋から、ユミはすぐに出てきた。いつも僕の部屋で着ていた服を着ていた。ユミが好きな犬のキャラクターと目が合った気がした。


「汗だくだね。」

ユミは困ったように微笑んで、僕とは目を合わさずにすぐに部屋の奥に戻って行った。明らかにユミの足にはそぐわない靴があったけれど、僕はまだ何かを信じていたかった。


しかし案の定そこには知らない男がいた。

突然入ってきた僕に戸惑うことのないユミと少し似た、明るくて社交的な人。それなのにつかみどころのない影を少し持つ、不思議な魅力のある男だった。少し言葉を交わしただけで、僕に足りないものを全て持っていることがわかった。


ユミのお気に入りはちゃんとユミのアパートにあった。


僕の部屋にあった気がするのはいつまでのことなのだろう。少しずつ部屋に持ってきたものを持って帰っていることにすら気がづかなかった。


僕はもう何も言えなかった。

何も言わない僕に、ユミは泣いた。


どうしようもなくて情けない僕は部屋に逃げ帰った。部屋に入ってすぐ、ユミの止まった時計と目が合った。ユミが少し前に言っていた。

「時計が止まっている。」と。

あの時ならまだ間に合ったのだろうか。


あの部屋でユミは泣いていた。

涙は見知らぬ男に流れた。

それからユミは笑った。笑っているユミをみて男も笑った。


ユミの部屋で僕の部屋にあるユミの時計と

似たような時計が動いていた。

僕は空気だった。

部屋のなかでふわふわと浮いていた。


今日も僕は1人、変わらない部屋で過ごしている。時計は今も、止まっている。


トーストは6枚切りにした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

時計と針 碧海 山葵 @aomi_wasabi25

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ