六部 運命の檻

 部屋の外で衣が擦れる音がして、サギは目を覚ました。

 外は薄暗く、雨が窓を打つ音がくぐもって聞こえてくる。

 (また、あの夢か……)

 戸を叩く音がして、聞き慣れた男の声が聞こえてきた。

「サギ様。お目覚めでしょうか。昼食を持って参りました」

「入れ」

 音もなく戸が開き、見慣れた顔の老人が盆を持って入ってきた。

「ご気分はいかがですか?」

「まだ少し。寝ぼけてるみたいだな」

「左様でございますか。昼食をお持ちしましたが、お召しになりますか?」

「ああ、食べるよ。ありがとう」

 サギは窓の外を眺め、ぽつりと呟いた。

「もう……昼なのか」

 老人は黙々と皿を並べている。皿同士がぶつかり、かちゃかちゃと音を立てた。

 サギは時々、こういう顔をする。窓の外を見つめ、ぼーっとしているのを見かけることがあった。最近は頻繁に見かける気がする。こういう時の彼は大抵の場合、何を言っても反応せず、ぼそぼそと唄を口ずさんだりしている。

「……しばらくしたら食器を片付けに参ります」

 老人は頭を下げ、入ってきた時と同じように音もなく部屋を出ていった。

 サギは、窓の外を見つめている。

 最近はこのようなことが増えた。特に今日みたいな、雲が厚くしとしとと雨が降る日には。

 サギは音に合わせて唄を口ずさんだ。


 東の空。一日が始まりを告げ、鳥たちは大空へ飛び立つ

 西の空。一日が終わりを迎え、人々は家路につく

 夜の空を飛ぶ鳥は人々の目に映らず、孤独の中で星となり散りゆく

 北の風は涙を誘い、積もる雪は悲しみをたたえる

 南の風は自由を謳い、広い海は故郷を思い出させる

 長い年月の中で雪は解け、彼方の海へと融けていく


 肌に夜の冷たい空気が触れ、鼻の奥がジーンと痛んだ。

「……哀しいな。さみしいか?」

 カザンの頬には涙が伝っていた。

「きっとあと少ししたらそっちに行くよ。たぶん、六十年くらいしたら、ね」



 数刻ののちに老人が戻って来ると、既にサギは飯を綺麗に食べ終え、上官に送る報告書を書いているところだった。

 食器を片付けながら、サギの手元を横目で見た。サギはとても几帳面な性格をしている。報告書を書くときも姿勢を正し、お手本のようにきれいな字を書く。

老人がガルシアナ帝国の工作員としてタンノ王国に来てから、何人もの自国の兵士を匿ってきたが、彼ほど几帳面で責任感の強い人はいなかった。

「サギ様、お預かりします」

 サギが手紙を書き終える頃を見計らって、老人が言った。

「ありがとう。だが、これは他の者に任せる。どうせ大したことは書いてないからな。

 コルーサ。お前には別の仕事をお願いしたい」

「はっ」

「先日の話は覚えてるな?」

 先日の話、というのはもちろん、あの襲撃事件のことである。サギは、この宿に着く前に手紙を出しており、そこであの夜のことを事細かに記していた。

「もちろん、覚えております」

「あの時話した、緑髪の女の監視をしてほしい」

「と、言うと?」

「あの場に居合わせた者の口封じのためだ。怪しい行動を取っていないか見張っていてほしい。また、この事はお前にのみ命じる。良いな?」

「かしこまりました」

 老人、コルーサはその場を後にした。

 サギは、職務に忠実でありながら、思慮深い人でもある。口封じ、と言っておきながら、その実は、その女に危害が及ばないよう気を配ったのだろう。

 表の顔である布問屋では、普段は外に出る事もないので、コルーサがいなくなったとしても誰も気にもしないだろう。

 コルーサは町人風の格好に着替えると、店の裏戸から外へ出ていった。雨は勢いを弱めており、街にはちらほらと人の姿が見える。

 コルーサは、女に関する情報を得るために、商店街に出た。人探しをしている男がいる、という噂が広まらないよう、酒場などの人が集まるところはなるべく避けた。

 スルナ、という名の女はかなり評判の良い人のようで、二、三軒、商店を周っただけでそれなりの情報を得ることができた。

 スルナは、数年前に中央レッサル区にやってきた若い女性で、〈何でも屋〉という仕事で生計を立てているらしい。薙刀の扱いに長けており、感染者ながら、己の実力一つで信頼を得ていったそうだ。

 聞き込みをしながらコルーサは、スルナという少女について、なんとなく心当たりがあるような気がしていた。以前にも、その名を聞いたことがある気がする……。そんなことを考えながら歩いていると、鼻歌を歌いながら軽い足取りで歩く一人の少女が目に留まった。

(見つけた)

 緑の髪にくりくりとした大きい瞳、集めた特徴と一致している。コルーサは一定の距離を置いて尾行を始めた。スルナが入り組んで人のいない路地に入っていったところで、コルーサは更に距離を起き、スルナの姿が見えなくなるギリギリまで道に出ないようにしていた。

 スルナが何回目かの曲がり角を曲がった直後、複数人が争う音が聞こえてきたため、コルーサは急いでスルナの元へと駆けつけた。

「おい! 何をしている!」

 コルーサはぎょっとした。年端も行かぬ少女が男に馬乗りになって、首に短刀を突き立てている。目の前の、ぞっとするほど冷淡な表情の少女は、街の人が言っていたスルナの印象とは、あまりにもかけ離れていた。

「あんた、殺したのか」

「まだ死んでないよ。急所も外してある。運が良ければ死なずに済むかもね」

 お尻をぽんぽんと叩きながら、スルナが立ち上がった。顔を上げた時のスルナの笑顔は、年相応の少女のものになっていた。

「おじさんはどうしてここにいるの?」

 コルーサは慎重になった。

 スルナには、誰にも知られていない一面がある。狂気とも言えるそれは、恐らく触れてはいけないものだ。

「俺は、このあたりに住んでる。最近、近くでゴロツキ共が騒いでおるから、注意しようと……」

「嘘はいいよ」

 コルーサの言葉を遮って、スルナが鋭く言った。コルーサを見据えるスルナの目には、厳しい光が浮かんでいた。

「おじさん、この人の仲間?」

「……いいや」

「そっ」

 スルナは地面に横たわっている男を一瞥いちべつすると、くるりと踵を返して奥へと進んでいった。コルーサはスルナを引き止めようと、急いでその背中に声をかけた。

「ちょっと待て」

「んー?」

「あんた、誰かを探してるのか」

 スルナがぴたりと足を止めた。

「……けてたんだ。そうだよ。人を探してる。ただ……」

 スルナは振り返り、地面に伸びてる男たちとコルーサを交互に見た。

「君が止めてくれるなら、私はここで手を引くのも、良いかもね」

「人殺しの瞬間を見たやつを放っておいていいのか?」

「ほんとはダメだよ? でも、おじさんには勝てなさそうだし、しょうがないよね」

 それにさ、と、スルナが付け加えた。コルーサを見るスルナの表情は、柔らかいものになっていた。

「おじさんは、なんとなく良い人な気がするんだよね」

 コルーサは悩んだ。

 スルナをこのまま返す場合、既に、顔を見られているため、尾行を続けるのは難しい。かといって見なかったことにして先に進ませるのも危険である。サギから、スルナの安全を確保するよう命令されている以上、スルナを危険に晒す事をしてはいけない。

 どうするべきか……。

「おじさん」

「なんだ」

 コルーサは顔を上げてスルナを見た。いつの間に近づいたのか、スルナはコルーサの目の前に立っていた。その瞳には、子供のような、純粋な光が浮かんでいた。

「もう一人、会いたい人ができた。連れてってよ。おじさん、ガルシアナ人でしょ?」

 コルーサは言葉に詰まった。何も関係のない者を、国と国のいざこざに巻き込むべきではない。だが彼女は、自ら板挟みになる危険を冒そうとしている。

「答えられないんだ? てことは、おじさんのところにいるんだね。じゃあ次は、私がおじさんを尾ける番だ」

 この少女は、きっと何があっても引き下がらないだろう。

 考えてみれば、スルナには逃げるという選択肢は無かった。ガルシアナ帝国とホメノス帝国という強大な力を前にして、一人の少女など、蟻を踏み潰すかのように容易たやすく消されてしまう。

 あの晩、スルナがサギを助けた瞬間から、スルナの運命は決まっていたのだ。

 それに……。

(それに、スルナをこちらに引き入れるのは、ある種の"口封じ"とも言えるだろう)

 コルーサはまっすぐにスルナの目を見た。

「……お前が勝手に俺のあとを尾けてきた。それで良いな?」

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