五部 雨の降る路地
その日は一日中雨が降っていた。
まだ雨季が明けたばかりで天気が不安定なようで、昨日までは雲一つない晴空だったのに、今日は雲が多く、朝であっても夜のような暗さであった。
「ごめんねぇ、こんな日に店番なんかさせちゃって」
「いえいえ、大丈夫ですよ。お客さんもそんなに来てないですし」
「悪いねぇ。この歳になると、雨の日は辛くてね」
店主のおばさんが腰をぽんぽんと叩きながらゆっくりと立ち上がった。
「じゃ、後は頼んだよ。私は少し横になってるからね」
何やらグチグチ言いながら店の奥に姿を消したおばさんの背中を見送ると、スルナは商品が陳列してある棚に頬杖をついてよりかかった。
スルナは今、顔見知りの青果店のところで店番を頼まれていた。ここの店主は、もうすぐ還暦を迎える女性で元気が良く、街で見かけた時には手を振って挨拶してくれる、とても快活な女性だった。
「あーあ、暇だなぁ。雨、やまないかなぁ。
……どっかで喧嘩でも起こってくれれば良いのになぁ」
手持ち無沙汰なのを紛らわすように、手元にあったポイ(柑橘系の果物。皮ごと食べることができる)を手に取ると、つるつると撫でたり、手の中で転がしてみたり、ぽんぽんと投げたりして遊んでいた。
やがてそれにも飽きると、果頂部に指を突っ込んで二つに剥き、頬張った。皮の苦みと酸味が口に広がり、その後にほのかな酸味と甘みを感じた。完熟にはまだ早かったようで、甘みも少なく、かといって酸味もそこまでなく、なんとも言えない味だった。
「あんまり美味しくないなぁ」
あー、とため息を吐いて、スルナは棚に突っ伏した。店番をするというだけでも退屈なのに、雨が降ってるせいで人通りも少なく、商店街の楽しい雰囲気が少しも感じられない。
こういった天気の日は、昔を思い出す。
頬を伝うのが雨なのか汗なのか、はたまた涙なのかも分からず、意識が朦朧としながらもひたすらに武器を振り続けた日々。父はとても厳しくスルナを育ててくれた。
そして数年後、彼女たちが過ごした村は燃えて無くなった。
沈んだ顔でぼんやりと道の方を見ていると、ある人の姿が目にとまった。背が高く、やや猫背気味で、外套を目深に被っていて顔は見えないが、恐らく男だろう。スルナがじーっとその人を見ていると、向こうもスルナの視線に気づいたようで、こちらに近づいてきた。
「どーもーお客さん。旅の方ですか? 雨が降ってて大変ですね」
「どうも。昨日までは晴れてたんですけどね。どうにも運が無いようで……」
男がゆっくりと店内を回りながら会話を続けた。
「ところで店員さん、聞きましたか?」
「何がですか?」
「詳しいことは分からないんですがね、どこかの国の大使が襲撃されたとかなんとか……。最近こういった物騒なことが増えてきて嫌になりますね」
スルナは嫌な予感がし、表情には出さなかったが気を引き締めた。この男が、先日戦った男たちの仲間であることを警戒したのだ。
「へー、そんな事があったんですね。ここに帰ってきたのはついさっきなので知りませんでした」
男が立ち止まった。
スルナの考えは半ば間違っていなかったのだろう。男はスルナが逃げることのできない位置に立ち、手に取った果物の表面をゆっくり指で撫でている。
「そこでですね、国を出るまで護衛を付けたいなって思っていまして」
「ふーん。……良い人紹介してあげましょうか? 性格はクズですけど、腕は一流の用心棒を知ってるんですよねー」
男の目に面白がるような、残念がるような色が一瞬浮かび、消えた。そして一点を見つめ何やら考える素振りをしたあと、笑顔で言った。
「そうですか。では、その人を頼ってみるとします。
これ、いただきますね」
男は会計を終えると、ゆったりとした足取りで去っていった。その後ろ姿を見つめながらスルナは、男がやや前に体重をかけて歩いていることに気がついた。
重心を前に出して、そこに乗せるように足を前に出していけば、少ない負担で歩き続けることができる。その心得があるのを見て、スルナは、先程感じた嫌な予感は勘違いだったのだろうと思った。
その後は何事もなく時は流れていき、雨が弱まって人もちらほらと見え始めた頃に、店主のおばさんが戻ってきた。助かったよぉ、と言いながら差し出された果物を受け取り、スルナは手を振りながら男が消えた方へと足を運んだ。
タンノ王国は、ガルシアナ帝国とホメノス帝国という、二つの大きな国に挟まれた位置にある。強大な武力を持つこの二つの国に攻め込まれれば、この国は
「たしかあの人は向こうに行ってたよね」
スルナは薄暗い路地をゆったりと歩いていた。
あの店で話しかけてきた男に抱いた違和感が、どうしても拭えなかったからだ。
「あの人はどこ行ったのかなぁ。方向はこっちで合ってると思うんだけど……」
スルナが薄暗い曲がり角を曲がった時、物陰から数人の男たちが姿を現した。みな、手には武器のようなものを持っている。
「おいおい嬢ちゃん。どうした? こんな場所に一人でいたら危ないぜ?」
「あ、あの……人を探してて……。あの……どいてほしいな? そこにいたら通れないよ」
スルナが正面に立っている男の脇を通り抜けようとした時、男がスルナの腕を掴んだ。
「おいてめぇ。ここを通りてぇなら、それ相応の対価が必要だよなぁ?」
男たちが互いに目配せし、下衆な笑みを浮かべた。男たちはじりじりと位置を変え、スルナを取り囲むようにして立った。
「金になるものをここに置いてくか、その小さな口で俺らのをしゃぶるか。どっちか選べ」
「う……。私いま、何も持ってなくてさ。持ってると言えばこの果物くらいなんだ……」
スルナは、おばさんからもらった果物を見せた。
「それでね、私、急いてるんだ。だから、その……さっさと済ませてよ?」
「金になるものがない、だぁ? 首からかけてるその宝石は何なんだ?」
それは、スルナが普段から肌身離さず身につけている石だった。僅かな光も弾いて緑色に見えるその石は父から譲り受けた物で、スルナの唯一の形見だった。
「こ、これはダメだよ! これはお父さんから貰ったもので……」
「ほーん? それじゃあ、そいつも奪われないようにせいぜい頑張るんだな」
男がスルナに組み付くのを合図に、他の男たちがスルナに襲いかかった。
組み付いてきた男が体重を乗せるのに合わせて、スルナは体を沈め、地面に叩きつけるように鋭く投げた。スルナの演技に騙された男たちは、スルナの突然の反撃に狼狽え、動きが一瞬止まった。スルナはその隙を逃さず、すぐさま次の行動に出ていた。
相手の動きを誘うため、あえて囲いの中心に躍り出ると、二人で固まっているところに突っ込んだ。
不意打ちは上手くいったようで、無防備になっている鳩尾に緩く握った拳を叩き込むと、髪を掴んでもう一人に投げた。男は、その巨体を軽々といなすと、小さく横殴りに武器を振った。スルナはそれを屈んで避け、弾みを利用して男の懐に飛び込んだ。
男は体格に見合わぬ軽やかな動きでスルナの肘打ちを避け、距離を取った。
(時間をかけすぎたな)
スルナが動き出してから今まで、ほんの瞬きをするほどの時間しか経っていなかった。が、相手は早くも立て直し、スルナは二人に挟まれる形になっていた。
不意打ちとはいえ、一瞬でここまでやられてしまったので非常に警戒しているのだろう。なかなか間合いを詰めてこなかった。
「言っただろ、時間がないんだ。さっさとしろ」
じりじりと間合いが詰まっていく。三人が動き出すのがほぼ同時だった。
スルナは振り向きざまに後ろに飛び退くと、こちらに走ってきていた男に体当たりした。隙ができたスルナの脳天に、後ろから迫ってきた男の武器が振り落とされる……はずだった。
武器が直撃する寸前に、スルナは手で武器の軌道を逸らし、顔面に裏拳を放っていた。硬い感触がして、裏拳が防がれたことを悟った。
反撃が来る……。だが、次の瞬間、男は目を抑えて悶えていた。左手に握っていたポイを、目のそばで握り潰したのだ。そして振り返った勢いのまま、鼻頭に拳を叩き込んだ。
(あと一人……)
スルナは構えを解き、ずかずかと男との距離を詰めていった。反撃を警戒してか、間合いに入っても男が攻撃をしてこなかったので、今度はスルナから仕掛けた。
見えるように目に向かって手を伸ばす。それに反応した男がスルナの手を払い、短刀を首に突きだした。スルナはその手を抑えて関節を極めた。
そのまま肘を引っ張られるようにして姿勢を崩された男の体は大きく宙を泳ぎ、地面にねじ伏せられた。
「さて。話してもらおうか。君ら、ここの人じゃないでしょ。誰に雇われた?」
上に乗っかっているスルナをどうしようもできないことを悟ると、男は答えた。
「言うわけねぇだろ」
「ふーん、そっ」
スルナが、男の目の前で光るものをちらつかせた。いつの間にか男から奪った短刀だった。
「駄目でしょ。奪われないよう気をつけなきゃ」
短刀の切っ先が、男の頬を伝い、首筋にピタリと当てられる。
「言え。あんたらの雇い主は誰だ。この先にいる奴とはどんな関係だ」
「言うわけな……っ!」
男が言いきるよりも先に、スルナは男の首に刃を突き立てた。激痛のあまり暴れながら叫ぶ男を無理矢理抑えつけた。
「ほらほら叫ぶな。騒ぎになるだろ。大人しく吐いてくれれば、君を殺さずに、私はこの先に行けるんだ。君だって死にたくないでしょ?」
「……言わない」
掠れた声で男が叫んだ。そう、と呟いたスルナが短刀を引き抜こうとした時、路地の向こう側から声が聞こえた。
「おい! 何をしている!」
声のした方を見ると、そこには初老を少し過ぎたくらいの白髪の男が立っていた。
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