四部 隠れ蓑
息を切らし、ただひたすらに歩いていた。落ちた枝に引っ掻かれた脚がじんじんと痛み、血が滴る感触がしている。
自分がどこに向かって歩いているのか、何を目指しているのかも分からないまま、体が勝手に動くのに身を委ねていた。
何も見えない、何も聞こえない、何も匂わない、一切の感覚がなく、外界から完全に切り離された孤独のなかで、自分の意志に反して、体が動き続けているのを感じていた。
(何とかして、感覚を取り戻せないか……)
カッサルは何度も魔術を使おうと試みたが、すべて失敗に終わった。魔術を使おうとすると、それを拒否するかのように体が重くなり息が詰まる。
やがて、自我さえも小さく小さく縮んでいくような錯覚に襲われた。自分が消えるような恐怖が、冷たく身の内に滲みていった。
意識が朦朧としてきた、頭痛もどんどん酷くなり、吐き気もしている。体が宙に浮くのを感じたのを最後に、カッサルは深い眠りへと落ちていった。
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中央区の一角にあるとある商店。店主は人の良さそうな白髪頭の男で、ふくよかな体型をした妻と二人で店を切り盛りしていた。しかしそれは表向きの姿である。
布問屋の看板を掲げる店の前に、右足を引きずった男が現れた。
「こんな夜中にどうされましたか」
「絹織物を四巻きよこせ。黒が一巻き、黄が四巻きだ。それと、茶を用意してくれ」
「かしこまりました。奥へどうぞ」
店の主人は、辺りに人の気配がないのを確かめてから、男を店の中へ入れた。
引き戸が閉まったのを確認すると、男が外套を脱いだ。
「お持ちしましょう」
「ありがとうございます」
部屋を出て廊下を手伝いに歩いた。やがて、指先にわずかな凹凸が触れ、足を止めた。人の気配がないのを確認し隠し戸を開け、音もなく中に滑り込んだ。
隠し戸を入ってすぐのところにある急な階段を登り、机だけが置かれた簡素な部屋の扉を開ける。少し
疲れから、崩れ落ちるようにして座り込んだ。机に頬杖をついて、一点をじっと見つめながらぼんやりとしていると、扉を一回叩く音が聞こえた。
「茶をお持ちしました」
「入れ」
扉がゆっくりと開き、盆を持った店主が礼儀正しく入ってきた。店主は机へとにじり寄って、盆に載せられた茶と、紙と筆を置いた。
「……サギ様、茶でございます」
「ありがとう。下がれ」
店主が音もなく部屋を出たのを見届けると、サギは紙に何やらしたため始めた。ニ、三行書いたあと紙を折り畳んで、盆を上に被せて廊下に置いた。
サギは、ふう、とため息を一つ
(思ったより手こずってしまったな……。帰れるのはもう少し先になりそうだ)
本来であれば今頃は、ガルシアナ帝国に行く荷馬車の中にいたはずだったのだが、思わぬ足止めによって、ここに留まるはめになってしまった。
(十中八九、ホメノスの奴らの仕業だろうな)
山賊や盗賊だとも考えることもできたが、サギは金目の物を持っていたわけでもないし、また、この時期であれば普通は商隊を襲うだろう。
それになにより、ガルシアナ帝国とホメノス帝国は、お互いの領土拡大を巡って、長年、睨み合いが続いていた。足の引っ張り合いなど、よくある話だ。
だが……。
(だが、使節である俺を襲った理由が分からないな……。
単なる嫌がらせにしても、刺客をあんなにも送ってくるようなのは、やり過ぎじゃないか?)
ただの使節を殺すのであれば、刺客を送るなんてことをしなくとも、そこら辺の物乞いにでも頼めば済む話だ。
――結局、サギはただの使節ではなく、ガルシアナ屈指の武人であったわけだが。
(もしかすると、サギではなくリトマンを狙っていたのか?)
だとすれば納得するが、ガルシアナ帝国と肩を並べるほどの技術力と軍事力を持つような国の刺客が、獲物を間違えるなどということはありえないだろう。
サギは、疲れていたこともあり、この事をこれ以上深く考えることはしなかった。単なる嫌がらせだろう、くらいにしか思わなかった。
「ふぁーあ」
サギは伸びをしながら
(良い機会だ。〈迎王祭〉を見ていくのも悪くはないだろ。俺が居ない間は……ナンザがなんとかしてくれる、きっと)
サギは、思いがけず楽しみが一つ増え、若干胸を躍らせながらも、滑り込むようにして眠りに落ちていった。
その日、サギはしばらく見なかった懐かしい夢を見た。
広い原を、一人の少女と共に駆け■■だった。昔見た光景、あり得た■もしれない過去。存在■なかった過■。見たことのない光景だった。
懐かしさ■ともに、言いようのない恐怖がじんわりと胸の内に広がっていく。
その感覚がす■■、決まって場■■■わり、雨に■れた石畳にレン■■■■■、小綺■■喫茶店に■■■■■■■■。彼■■■■■■■■■■■■■■、■■■■を優しく■■■■■。
ここにい■■、■■落ち着く。
だが、■■■■■■■■■■■■、コ■■■■■■る少■■■■、彼を■■■■■■■る。
する■、目が覚め■のだ。
夢の内容は全く覚えていないが、頬には涙の伝った跡が残っていて、胸の中に妙な温もり■感じる。
その日は、朝からどんよりとした天気で、一日中雨が降り続いていた。
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