第5話 いまはおやすみ
(どうしよう、どうしよう、どうしよう!)
焦りまくったキシリアは、意味もなく屋敷内を駆け回った。
兄弟たちや召使いも何度もすれ違い、そのたびに声をかけられるが、まったく気づかない。階段を上り、廊下を走り、階段を下り、ぐるっと回ってジャンプするとまた戻る。いかにも奇矯な行動だが、そうでもしないと落ち着かない。頭の中は、先ほどの出来事でいっぱいだった。
ダイクンの遺児二人は亡命する。これは歴史である。なのにキャスバルだけ帰ってきた。サイド3に帰還するにせよ、もっと後になるはずだ。これではストーリーが曲がる。
しかも当人に悪意はない。ダイクン家の
(そんな男らしさは映画でやんなさいよ!)
散々走り回ると、息を切らしながら自室の扉をそっと開ける。キャスバルは行儀よく、ベッドに腰かけていた。
どうすればいいかとっさに思いつかなかったので、とりあえず自室に通しておいた。召使いには固く口止めをしておく。ここにいることが露見すると色々とまずいので、まだ兄弟にも言っていなかった。
キシリアは部屋に入り、後ろ手で扉を閉める。
「喉渇いた? お腹空いてない?」
「いえ、大丈夫です」
「遠慮しなくていいから」
「ご迷惑おかけしてますから、贅沢は言いません」
キャスバルはにこりとした。
キシリアは相好を崩しそうになり、慌てて顔を引き締める。うむ、こういう台詞もなかなか良い。さすが当時のアニメ誌を騒がせたことはある。しかし今はにやついている場合ではない。
咳払いをする。
「あてがあって戻ってきたの?」
「いいえ」
「これからなにするか、決めている?」
「いいえ」
「じゃ、私どうすりゃいいの?」
「僕を使ってください」
少年は言い切った。
「お世話になったザビ家のためです。反対派を抑えるのにダイクンの名が必要なら利用してください。余計なことはいっさい言いません。
彼女はその言葉に思わず恰好良さを感じた。
キャスバルの瞳は純粋で、決意に満ちている。恩義を感じているのだ。だがそんなの感じる必要はないというか、そもそもこっちはテレビ版のストーリーに沿おうとしているだけだ。ずっとサイド3にいられては、歴史が変わる以上のことが起こってしまう。
「……今のキャスバルって、『これでは道化だよ』って言いそうにないわね」
「道化の役割を果たします」
キシリアは「『逆襲のシャア』のネタなんて通じるわけないか」と呟く。どうにか考えをまとめようとした。
(ええと、キャスバルはシャアにしなきゃならなくて、そのためには士官学校に入れて赤くして三倍にして、それから、それから……)
こんこん。扉がノックされる。考えを中断すると同時に声がした。
「姉上、ガルマです」
「なに。夜中よ」
「誰かいるの……? 兄上が様子を見てこいって」
はっとして振り返る。キャスバルはまだベッドに座っていた。
これはよろしくない。誰にも相談せず部屋に連れ込んだのだ。こんな美少年を自室に押し込むなんて、元の世界なら小児性愛者である。
幸い、こっちの自分も年齢だけは子供だ。子供どうしでふざけあってると言い張ればなんとかなりそうだが、それは、二人がダイクン家とザビ家の人間ではない場合だ。
彼女はとりあえず、「着替えているところだから待って」と言うと、大急ぎで部屋中を引っかき回した。
「ええとええと……これでいいや!」
元の性格がファッション好きなので、ブランドものの手提げ袋が大量にあった。手頃な大きさのを引っ掴む。
「ちょっと我慢してて! 喋っちゃ駄目だからね!」
キャスバルの頭にかぶせた。それから扉を開ける。
ガルマは
「姉上……入ってもいい?」
「いいわよ、もちろん」
ガルマは足を踏み入れるなり、ぎょっとして立ちすくんだ。
ベッドに手提げ袋をかぶった少年が腰掛けているのだ。顔が見えず、喋りもしないため、大変に不気味である。
「……誰……?」
「誰って、なにが?」
「あの人……」
「人なんかいないわよ」
彼女は口元で笑いつつ、目は「いないよな?」と言いたげな色にする。
ガルマはびくっとしたが、それでも喋った。
「で、でもあそこにいるから……。まさか姉上が連れ込むなんて……もしや男……」
キシリアは弟を室内に引っ張り、扉に鍵をかけた。
「どうして男だと思うの? ひょっとしたら私がロリコンでミネバ……はまだいないけど、どっかの女の子かもしれないじゃない。小さい頃のハマーン・カーンとか」
年齢無視の適当な言い訳を、当然ガルマは理解できない。しげしげと手提げ袋の少年を見つめていた。
「男っぽいから……もしかしてキャスバル……」
「あんた、なんでキャスバルだって思うの!?」
「だってパーティーで会ったから」
「あんたにキャスバル会わせたアホは誰よ」
「姉上……」
キシリアは「そういやそうだった」と頭を抱えた。こんなところで
ガルマは手提げ袋の少年をしげしげと見つめる。
「ほら、キャスバルってなんかすごく立派な感じがするから、そうじゃないかって……」
つまり、ダイクン家の嫡男としてオーラがあると言っているのだ。手提げ袋ごときでは隠せないらしい。
彼女はガルマの両肩をがっしりと掴んだ。
「いい? お姉ちゃんはね、今とてもピンチなの」
声音は優しく、ただし手には力を込めて言った。
「ちょーっと手順が狂っちゃってね、話がややこしくなってるの。ガルマに言いらされるとものすごく困ったことになるから、黙っててもらえると助かる」
ガルマは一度ベッドのキャスバルに目をやってから、キシリアに戻した。
「なにも言わない方がいいんですか……?」
「うん」
「そうしたら、姉上が喜ぶ?」
「そういうこと」
ガルマは少しだけ考える風だったが、すぐにうなずいた。
「じゃあ、言わないでいる」
「ありがとう」
胸を撫で下ろす。
「兄上には、私が夢でうなされていたって言っといて。あとはベッドに入って忘れちゃいなさい」
ガルマは下がっていく。キシリアは大きく息を吐いた。
「もういいわよ」
キャスバルは手提げ袋を取った。
「息苦しかったです」
「悪かったわ」
「ガルマ君には悪いことをしました」
「気にしなくていいから。でも、手提げ袋くらいじゃキャスバルって見抜かれちゃうのねえ」
なんとかせねばと思う。このままでは外に出すこともままならない。
ふと時計を見ると、結構な時間がたっていた。
「……明日のことは明日考えるとして、とりあえず寝ましょう。私は床で寝るから、キャスバルはベッド使って」
キャスバルが大きく首を振った。
「キシリアさんのベッドなんですから、僕が床で寝ます」
「いいって。決算期なんてマンションに帰れなかったから、会議室で寝てたのよ。ダンボール敷けば結構あったかいの。それに比べれば天国みたいなもん」
なおも渋るキャスバルを説き伏せ、彼女は予備の毛布を引っ張り出す。文句を言われないうちに部屋の電気を消すと、毛布にくるまり横になった。
頭の中には、ここ数日の出来事が走馬燈のように去来する。これからのことはまだ思いつかない。めまぐるしさを感じつつも、彼女はいつの間にか寝入っていた。
○
ろくに眠らないうちから目が覚めた、わけではない。
気がつくと身体に浮遊感があり、足元がおぼつかない。覚えはあるが、得体の知れない場所にいた。
得体の知れないところにいるのだからまだ睡眠中だと分かる。覚えがあるのは、転生前に一度来たことがあるからだ。あの、車にねられた次の瞬間に出現した異空間であった。
眼前に緑の輪が出現する。自分をガンダム世界に送り込んだ張本人だ。輪っかは正面を彼女に向けると大きくたわんだ。
「歴史の修正はうまくいってるようだな。実に結構。大変結構」
例の声だ。自己紹介してくれないから、なんと呼んでいいのか分からない。
「だが、肝心なことが残っている。キャスバルの亡命だ」
声にはわずかながら焦りがあった。
「あの少年をサイド3に残すわけにはいかない」
「しょうがないでしょ」
彼女は反論した。
「亡命させたのに、勝手に戻って来ちゃったんだから。だいたいダイクンが転生者だったなんて、私聞いてなかった」
「説明しようとしたら、お前がさっさと送れと言ったから省略したんだ。チュートリアルをスキップしてゲーム始めるタイプだって言ってなかったか」
「キーコンフィグのところだけ確認すればなんとかなんの。ゲームなら最初は簡単で死ぬこともないし。でもなんか、私こっちで襲われたわよ。いきなりハードモードなの?」
「お前が転生したことで、世界そのものに揺らぎが生じる。つまりお前のことをダイクンが察知したのだから、対抗策を打ったわけだ」
「だったら今はダイクンがいなくなったんで、もっと楽になるわよね?」
ストーリーの修正で東西奔走することもなくなり、じっくりとキャラクターやモビルスーツを愛でることができる。元より彼女の希望だったが、声の答えは違った。
「よく分からん」
「なんで分かんないの! あんた神様みたいなもんでしょう」
「本当に神だったら自分の力でなんとかしてる。ダイクンがなにか企んでいそうだとは察知できても、具体的なことまでは知りようがない」
「
「ソシャゲだってプレイヤー数を盛るだろう。リセマラも一回とカウントするから総ダウンロード数とか言って。ともかくだ、ダイクンの置き土産がまだあるかもしれず、それがキャスバルに影響を及ぼすかもしれん」
「じゃあ、キャスバルを亡命させないように邪魔が入るってこと?」
「あくまで可能性の話だ」
ありそうなことだと彼女は思った。ダイクンの中身の女は、シロッコのためならなんでもやる。今からアルテイシアをティターンズに放り込むように布石を打つことくらいしそうであった。
「そこらも警戒しなきゃ駄目ってこと?」
「ようやく話が合ったな」
「あの女って、あんたが転生させたんじゃないの?」
「いいや。詳細は省くが、課が違う。KADOKAWAだって似たような仕事してても部署が違ったりする」
「業界の話はいいから、キャスバルをうまく亡命させるためのアイテムとかちょうだい」
「そんなのはない。ただ、うまく亡命させたらなにか礼を考えている」
「やった。横浜の“動くガンダム”を私専用にして」
「お前はもう少し控えめに生きろ。いいか、気をつけてキャスバルを亡命させるのだぞ」
輪っかが薄くなり、消えていく。同時に視界が明るくなっていった。
○
目が覚めた。床で寝ていたせいか、さすがに身体が痛い。
外は明るかった。ミラーを通して人工の太陽光が差し込んでいる。ジオン共和国独立以来、開放型コロニーを密閉型コロニーに改修する工事もおこなわれているが、ここはまだだ。
キシリアは眩しさに目を細める。声とのやりとりは夢の中でおこなわれていた。頭の中に刻み込まれている。ダイクンのこと、キャスバルのこと、うまくいったら礼をくれることも。
ベッドに目をやると、キャスバルはすでに起きていた。
「おはようございます」
寝起きの美少年。それは大変いいものだ。なのに亡命させなければならないなんて、少しだけ残念な気持ちが湧いた。
彼女はキャスバルにベッドから出ないよう告げると、自分は召使いを呼ぶ。扉を少しだけ開けて応対した。
「ちょっと体調が悪いから、ベッドで朝食とる」
「かしこまりました」
「たくさん食べたいから二人分持ってきて」
「体調が悪いのにたくさん召し上がるのですか?」
「いいから持ってくんの」
有無を言わさず下がらせる。しばらくしてから、召使いはトレーに朝食を載せて戻ってきた。
「ドズル様がキシリア様の具合を心配しておられました」
「いかつい顔して優しいのね」
「できたら見舞いたいとおっしゃってます」
「うつしたくないから放っておいてと伝えて」
地球上ではないとはいえ、コロニーは人口が多く、他との往来も激しい。風邪などは珍しくなかった。
誰も通さないようにと釘を刺し、キャスバルと仲良く朝食となった。
美少年アニメキャラとごはんなんて学生時代の妄想のようで、非常に食が進む。転生した甲斐があったというものだ。できればずっとこうしていたいが、残念ながらそうもいかなかった。
さてどうするかと考えていると、扉がノックされる。また召使いだった。キシリアは小声で言った。
「誰も通さないでって言ったでしょ」
「新聞をご覧になるべきだとギレン様が」
召使いは扉の隙間から、新聞専用の端末を差し出した。
受け取り、食器の載ったトレーを返してから広げる。最初の見出しで仰天した。
そこには「首相の遺児キャスバル、共和国政界に進出か?」と記されていた。
「なにこれ!?」
よく見ると、共和国政府のダイクン派が、キャスバルを担ぎ上げようという予測記事であった。さすがにまだ幼いので、政治家として活動はできない。そのため象徴として扱うという内容だ。
隅には小さく、「アルテイシア様、亡命も」とも書かれている。こっちはいい。だがこの記事はキャスバルが亡命していないことが前提になっている。
(誰かに見られた……いや、頭のいいやつがいるのね。ダイクンの中の女の手先かも)
あの声とのやりとりを考えても、十分あり得た。
頭を悩ませる。予定ではタイミングを見計らってダイクンの遺児二人がザビ家の屋敷にいると発表し、その後行方不明だなんだで有耶無耶にする。そうすれば「悪いザビ家がダイクンの偉業を乗っ取った」ことになり、テレビ版ストーリーの裏付けとなるはずだった。このままだとキャスバルがジオン共和国の旗頭になってしまう。
脳裏に一人の軍人が思い浮かぶ。
(またラルさんに助けてもらうのは……いくらなんでも難しいわよねえ)
二度も同じことをさせては、いかにジンバ・ラルの息子とはいえ目を付けられてしまうのではなかろうか。他に手を考えないと。
扉をノックする音。「ギレンだ」と声がした。
キシリアは素早く扉に寄ると、ほんの少しだけ隙間を空けた。
「ごほごほ……なんでしょう兄上」
「記事を見たか」
「はい。ダイクン派ってろくでもないですね。ザビ家独裁の邪魔をするなんて」
「全部読んだか。キャスバルを利用するためザビ家が軟禁していると書いてあるぞ」
「え!? ……多分ただの噂ですよ」
「本当に二人がいるのなら、我々が保護せねばならん。親を失って心細いだろうに」
「腑抜けたこと言わないでください」
「厳しいだけでは政治はできない」
「意外と兄上も甘いようで……あっ、これここで使う言葉じゃないや」
「そもそもあの兄妹はどこにいるのだ。キシリアは仲良かっただろう」
「さあ。テキサスコロニーじゃないですか。具合が悪くて吐きそうです。寝るから邪魔しないでください」
話を打ち切ると、扉を閉めた。入ってこられると困るので鍵をきちんとかける。
これでますますキャスバルを留められなくなった。これ以上ややこしくなる前に、どこかへ移さないと。
うんうん悩んでいると、端末が鳴った。
ただの電話かと思ったが、画面に動画のサインが出ている。キャスバルにカメラに写らないように告げると、通話のボタンを押した。
通話画面に出たのは、初老の男性だった。
「キシリア様、ミノフスキーです」
「あら、これは博士」
「お喜びください。ついに私の理論が実証されるところまでたどり着きました」
「というと……ミノフスキー理論ですか」
「はい。効果が確認されたのです。これで反応炉の大幅な小型化と、取り扱いの簡素化が可能になります。全てキシリア様の支援のおかげです。ありがとうございます」
ミノフスキーの表情は歓喜に満ちており、まさに満面の笑みであった。
キシリアは喜ぶというよりほっとした。ミノフスキー理論は世界観を裏付けする重要な設定である。これがあるからホワイトベースは大気圏でも飛ぶし、ガンダムは大地に立つ。これでモビルスーツへの道筋ができたのだ。
「それで、現在研究所……いえ、各メーカーでは私の理論を基にした大規模な研究開発がおこなわれております。ぜひキシリア様と御一緒に見学をしたいのですが」
「艦艇や兵器ですか」
「キシリア様は恩人です。研究員たちも御礼を申し上げたいと」
「はあ……」
彼女は気のない返事をした。
行きたくないわけではない。ガンダム世界のメカニクスにも興味津々なので、隅々まで見て回りたいほどだ。だがキャスバルのことが頭にあるので、どうしても集中できないのである。
せめてあとにしたかったが、ミノフスキーは「ぜひ」と言って聞かない。
少し考えた。
キシリアは自分の音声をオフにすると、小さい声でキャスバルに訊く。
「出かけたいんだけど、付き合ってもらえる?」
少年が承知したので、ミノフスキーに「すぐに行きます」と伝えた。
通話が終わると、キャスバルが「どこに行くのですか」と質問してきた。
「ジオン脅威のテクノロジーを体験するのよ」
ミノフスキー理論とミノフスキー粒子は、のちの戦いで地球連邦軍を圧倒したほどの技術である。キャスバルに見せてしまえば、安心してどこかに引っ込んでてくれるのではないか、と彼女は考えたのだ。
だからと言って、キャスバルが素顔のまま出ていっては問題がある。キシリアは一計を案じた。
「待ってて。すぐに作っちゃうから」
彼女は部屋を引っかき回すと、靴や服の入っていた箱を見つけた。厚手のボール紙でできている。
これを記憶を頼りに切り取り、曲げ、貼りつけた。
大ざっぱな形にすると、キャスバルに渡す。
「……なんでしょう、これは」
「仮面よ! あなたは仮面をつけるの!」
それはシャアが素顔を隠すのに使っている、あのマスクとヘルメットであった。
ボール紙で作ったため歪んでおり、色も白くない。それでもそこそこ似ていた。
「シャアといったらこれ……じゃなくて、えーと、素顔を見せないようにするにはこれが一番」
「どうしてですか」
「テロの標的になったら困るから」
キャスバルは手に持ったまま、しげしげと眺めた。
「目も隠すんですか」
「目と輪郭を隠すのが大事よ」
「このツノはなんです?」
「指揮官機にはツノがついてんの」
適当なことを言う。キャスバルは複雑な表情をしながらも、ボール紙製の仮面をつけた。
キシリアは手鏡を渡す。
「どう? 似合ってるでしょう」
「……その、ちょっと派手では」
「それくらいがいいの。みんなマスクだけを見て、誰が被っているかまで頭回らなくなるから。手提げ袋だけだったらガルマもごまかせなかったけど、これなら平気」
キシリアは自信満々に告げた。これならキャスバルのオーラも消えるというのが、彼女の考えであった。
キャスバルはなおも鏡をしげしげと見つめていたものの、屋敷に匿ってもらっている引け目があるのか、抗議はしなかった。
二人で車に乗る。運転手は仮面のキャスバルにぎょっとしていたが、キシリアが「静かに」と手で制したため、無言を貫いた。
電気自動車に乗ることしばし、キシリアとキャスバルはコロニーの端にある研究区画に到着した。以前訪れたところとは違い、工場も併設されている。敷地は広大で、正門は警備員が厳重に管理している。
訪問のことは知らされているため、警備員はIDの確認だけで通してくれた。車に乗ったまま、正面の建物に向かう。
単に「技術研究所」とだけ書かれたとおぼしき立体看板は取り外されていた。いずれジオニック社のものが置かれる。
施設のエントランスではミノフスキーをはじめとして、研究員総出で出迎えてくれた。
「キシリア様のおかげで、あらゆる計画が大幅に進捗しました」
ミノフスキーが大きな声で言う。
「これで共和国は地球連邦より優れたテクノロジーを得たのです」
「私も嬉しいです、博士。そういう歴史だし」
「……ところで、そちらの方は」
皆の視線が、一斉に仮面の少年へと向けられる。
「見ての通り軍人……じゃなくて、友人。一緒に見学させて」
「機密保持の面からも、身元の不明な方を入れるわけには」
「固いこと言いっこなし」
キシリアは強引にキャスバルの見学も認めさせた。
「こちらへどうぞ」
いつもの女性研究員が先に立ち、内部を案内した。
大きな建物だった。工場区画にも直結している。以前はもっと小さく、古ぼけていたのだが、増額した予算で新しく使いやすいものにしたようだ。
女性研究員は、生体認証のロックを解除すると、キシリアを招き入れた。
中は、以前通された部屋と同じような雰囲気だったが、広く、天井も高かった。来客者に説明するためのところらしく、模型がたくさん並んでいる。
キャスバルは興味深げに眺めている。この手の場所ははじめてらしい。
「どう? ジオン共和国のテクノロジーは発展を続けているのよ」
「そうですね。立派だと思います」
仮面の向こう側なので、正確な反応は分からない。キシリアは、やはり実物を見せねばと考えた。
「ねえ、ミノフスキー理論の応用、えーとつまり、反応炉ってどこにあるの」
「反応炉の小型化はまた別のところでおこなっています。やはりまだ危険な箇所が多くて」
「じゃ、ここではなにが?」
「艦艇、兵器の全般的な研究開発です。となりの工場区画では、艦船の建造がおこなわれています」
「それ、見たい」
女性研究員が戸惑った。
「無重力区画になりますし、機械が稼働中ですから……」
「だから見たいんだって」
半ば強引に説き伏せると、工場区画に案内させた。
エレベーターに乗る。コロニーの中心部分に向かって伸びており、上昇するにつれて重力が薄れていった。
(おおっ、これが無重力……というか微少重力)
コロニーの中心部は遠心力の影響を受けないため重力がない。それを利用して大型艦艇などを建造するドックが置かれていた。転生してからの彼女は重力下でしか生活していないため、新鮮な体験だった。
中心部に着いてから、エアロックに通される。
「ここで着替えていただきます」
「なるほど。ノーマルスーツ着用ね」
「ノーマル……?」
「いずれそういう言い方になっちゃうのよ」
キャスバルにはヘルメットだけを取らせ、マスクの部分はそのままにして宇宙服を着せた。
エアロックの空気が抜かれ、キシリアたちは外に出る。
建造ドックは安全と保安のためコロニーの外に位置する。気体で満たすこともできるらしいが、今は真空のままだ。
筒状のドックの中に、巨大な戦闘艦艇が浮かんでいた。
海に浮かぶ船にあるような上部構造物と、船体に対し不釣り合いなほど大きなエンジン部分。艦橋からは大きなアンテナがニョキニョキ生えていた。まだ建造途中だが、急ピッチで進んでいるから、就役するのもそれほど先のことではあるまい。
キシリアは目を輝かせた。
「チベね!」
「はい以前、キシリア様にお話しした艦船です」
女性研究員は手元のタブレットを操作し、完成予想の3D映像を浮かび上がらせた。
「まだ番号しか公表されていませんが、おっしゃる通りチベ級とすることが決定したそうです」
「当然よ」
彼女はキャスバルを手招きする。
「ほらほら、見て見て! あれ、あなたが乗らない船!」
「乗らないんですか……」
「うん。乗るのはムサイとザンジバルだから。もっと先」
キシリアはもう一度チベを見つめた。隣には、将来補給艦となるパプアが並んでいる。どちらも機関部分にぽかりと穴が開いていた。
「エンジンが空っぽね」
「換装するため、既存のエンジンを外しました。試作小型反応炉を積む予定です。まずはパプアで確かめることになっています」
女性研究員はタブレットを忙しげに操作した。
「実はチベにも問題があって、就役と同時に陳腐化が起こりそうなのです。特に砲は実体弾を使用する予定ではあるのですが……」
「全部言わなくていいわ」
キシリアはふっと笑った。
「ミノフスキー理論を応用して粒子を圧縮、エネルギー量を増して、実体弾に匹敵する兵器開発のめどが立ったんでしょう」
女性研究員とミノフスキーが目を見開いた。
「どうしてそれがお分かりに!?」
「まだ誰にも言ってなかったのですが……!」
「私には全部お見通しよ。だってそういうものだから」
キシリアは自慢げに言うと、
「要はエネルギー兵器ね。粒子を強力にしたんだからメガ粒子。メガ粒子砲って名付けましょう」
ミノフスキーが胡散臭そうな顔をする。
「それはあまりに安易では」
「なんでです」
「もう少し士気が向上するような名称がいいかと思います」
「メガ粒子砲のどこが恰好悪いってんですか。ばーんって発射すれば、相手がぼかーんって爆発する。そんな兵器はメガとかハイパーがふさわしいんです。いずれハイパー・メガ・ランチャーってのが開発されます」
キャスバルの方を向いた。
「ね、メガ粒子砲がいいわよね!?」
「そうですね、僕としては……」
「ほらメガ粒子砲がいいって言ってる!」
キャスバルがなにを言おうが関係なかった。全員の反論を許さず、「メガ粒子砲に決定!」と言い切った。
なおも案内され、色々と見て回る。
チベだけではなく、無骨な戦闘機も造られていた。横にした巨大な文庫本から足が伸びたような外観をしている。
「あー、これガトルね」
「よくご存じですね」
「だってガトルって感じの形じゃない。コクピットが互い違いに並んでいるのが素敵」
「あまり注目する人が多くないところです」
「これがいいのよ」
転生する前は各種公式ムックを買いあさり、出てくる名称をぶつぶつ言いながら覚えたほどだ。自然と心が浮き立った。顔もほころんでくる。
「こうなってくると、もっと大きな船も欲しくならない? 宇宙戦艦よ」
「反応炉のめどが立ちましたから、当方でもいくつか提案させていただく予定です」
「こういうのはどう」
タブレットを借りると、グラフィックソフトを呼び出し、指だけでさらさらと描きあげる。
そこにあるのは、先端が細くなり、後方には球体が多数つけられた大型宇宙戦艦であった。
「名前はグワジンよ!」
「グワジン……」
女性研究員は、口の中で呟いた。
「意味はどのようなものですか」
「カタカナ四文字で濁音つき。インパクトがあって発音もしやすい。これは売れるわ」
「そうではなく意味は……」
「昔の言葉で恰好いいって意味よ!」
キシリアは声の大きさだけで押し切る。
「こんな恰好良くて強そうな戦艦はザビ家専用ね。兄に頼んで予算をぶんどるから、遠慮なく造りなさい」
「はあ……予算をいただけるなら」
女性研究員はなんとなく納得した。
キシリアはタブレットを返すと、ドックの中をきょろきょろ見回した。
「私が前に言った、二足歩行の人型兵器はどうなってるの」
「その研究も、大幅に進んでおります」
女性研究員が答える。
「ミノフスキー理論のおかげで、反応炉の大出力化と小型化が同時に可能となりました。マニピュレーターを人間と同じ五本指とすることで、宇宙空間での工作に加え多様な兵器の保持と操作も容易になります」
あとの台詞をミノフスキーが引き取った。
「試作にも着手しています。ここではなく、工業コロニーでですが」
「ここで造ってくださいよ」
「元々ここは兵器生産に適しているとは言えませんので。また次の機会に」
ミノフスキーはヘルメットの中で咳払いをした。
「その二足歩行兵器のことですが、実はご提案があります。どうでしょう、キシリア様の名前を取り、キシリアマシンという名にするのは」
「え、止めて」
「この兵器はキシリア様の提案によるものです。偉業を歴史に留める機会です」
「本当に止めてください。どういう名称にするかは決めています」
彼女は自然と背筋を伸ばした。
「何度か言ったことがありましたが、モビルスーツです。略称はMS。今後、大型二足歩行兵器は全てモビルスーツと称します」
ミノフスキーは女性研究員と顔を見合わせた。
「それは……少し安易ですね。やはりキシリアマシンの方が……」
「そっちのが安易です! オタクから総突っ込み喰らってプラモも売れなくなりそうなのは全部駄目なの! モビルスーツです!」
「モビルスーツですか……」
「MSのあとに数字をつけることで型式を管理します」
キシリアはプラモデルの箱にある説明文みたいなことを言った。
「これがあれば共和国軍の戦力も大幅に強化されることになるでしょう」
「それには同感です。私の理論が共和国のためになるなら、これほど名誉なことはありません。そもそも理論のは……」
ミノフスキーは専門的な説明をはじめた。
キシリアはミノフスキーの言葉を聞きながら、隣の少年を手招きした。さりげなくヘルメットをくっつけ、振動のみの会話にする。
「どう、共和国の軍備は?」
「僕は素人ですが、とても優れていると感じます」
「でしょう。ということはね、あなたがいなくてもこの国はきちんと回るのよ。だから安心して、アルテイシアのところに行って、適当なタイミングで戻ってもらえれば……」
キャスバルは首を振った。
「それではザビ家の皆さんに全ての責任を押しつけることになります」
「みんな権力大好きだから多分平気」
「ダイクンの名を持つ者として、それはできません」
駄目か、とキシリアは思った。目先の雰囲気で圧倒すればなんとかなるとの考えが甘かったようだ。今は子供でも、いずれネオ・ジオンを率いる総帥である。
ちょうどミノフスキーの説明も終わっていた。キシリアは礼を言うと、見学を終わらせた。
帰りの車内は会話がなかった。キシリアが、どうやってキャスバルを亡命させようかずっと考えていたせいである。
屋敷の自室に入ってからも続いていた。どうもいい案が出てこない。気分転換にネットニュースをつけた。
ニュースを一日中流しっぱなしにしている局がある。最近はジオン共和国の政変ばかりやっていた。
今日は頻発するデモ隊の特集である。共和国庁舎の前を行進していた。プラカードやシュプレヒコールの内容は、全てザビ家に関することであり、横暴であると非難していた。
新聞と同じような論調である。もうキシリアはなんとも思わなかったが、キャスバルは眉をめていた。
「ザビ家の皆さんが貶められるのは堪えられません」
「いやあ、気にしなくていいのよ。政治家なんて罵られるのが商売でしょう」
「でも、キシリアさんの悪口まで言ってます」
ニュース動画をよく見ると、プラカードにはキシリアのことまで書いてあった。「父の威を借るキツネ」「ダイクン遺児をかどわかす悪女」「独裁娘」などとバリエーションに富んでいる。中には「いまのキシリアはもはや別人」というのもあって、知らないうちに本質を突いていた。
「僕が皆の前に出て説明しましょうか」
「そこまでしなくていいわよ」
「このままではキシリアさんの評判が悪くなる一方です」
「悪役令嬢っぽくていいと思わない?」
『機動戦士ガンダム』の歴史では、ダイクンが死去してからザビ家が独裁体制を強めることになっている。だからデモ隊の主張は正しく、キシリア自身が煽っていた面もあった。
(だいたいザビ家が全部かっさらうことになってるんだから……あ、そうか)
彼女は部屋の扉を少しだけ開けた。ちょうど通りかかった身体に声をかけた。
「ねえドズル」
「あっ、キシリア。具合悪いんだろ。さっき出かけたの見たぞ」
「もう治った。父上と兄上いる?」
「仕事に出かけたよ。庁舎だろ」
ダイクンが亡くなってから、デギンとギレンの二人は忙しい。今まではダイクンのカリスマのせいもあり、良くも悪くも権力が一本化されていたのだが、死去によってバラバラになったのだ。その取りまとめに奔走している。
キシリアはキャスバルにじっとしているように頼むと、タクシーを呼んだ。
車通りの多いところを走る。素っ気ないが大きな建物が徐々に近づいてきた。
のっぺりとした外観に、等間隔に配された窓がときどき光っている。共和国の庁舎である。お馴染みのデモ隊もちらほら見えた。
(やっぱり近代のビルは恰好悪い……。ツノのついた爬虫類顔こそが至高ね……。ジオニズム様式の誕生よ)
できる限り早く、新しい庁舎を着工せねばと決心しつつ、タクシーから降りた。
庁舎に入る。一階ロビーは広く、一般の来館者もいる。場を和ませるためか、ところどころに花瓶があり、花が生けてあった。
エレベータに乗った。最上階近くにデギンの執務室がある。大きな扉を力一杯開けた。
「父上!」
中にはデギンだけではなくギレンもいる。二人はやってきたキシリアを見てぎょっとしていた。
「いったいどうした」
「お話があります。最近のデモ隊の主張や、ニュースで流れる噂をご存じですよね」
「うむ。根も葉もないことだが、報道の自由もあるし、デモは市民の当然の権利だ。有効な対策がないので頭が痛い」
「一気に解決する方法があります」
彼女はタブレット型の端末をデギンに見せる。建築家のコンペティションで採用になった、例のデザインが映っていた。
「この、緑色の建物はなんだ?」
「新しい庁舎です」
「禍々しいにもほどがあるぞ」
無理もない。なにせ建物が悪人面でツノまであるのだ。だがキシリアは「これがいいんですよ」と言った。
「どうせマスコミもダイクン派も、ザビ家の専横って非難してるんですから、そうしちゃいましょう。この建物を象徴として、ザビ家による統治をおこないます」
キシリアは高らかに宣言した。
「葬儀の席で、私たちザビ家がダイクンの後継者だとアピールできました。次は政治体制を変えるときです。これからはザビ家がジオンの名を引き継ぐのです。共和国なんてカビの生えた名称は止め、公国制にして権限を全て公王と公国庁舎に集中、議会を有名無実化すればなにもできません。そうしてから軍備をばんばん増強すれば怖いものなんてありません。逆らうコロニーは片端から吹き飛ばし、跡地に小惑星を置いて宇宙要塞にしましょう」
「待て、待て」
目をぎらぎらさせて熱弁を振るうキシリアに、デギンが落ち着くよう言った。
「公国制とはなんだ。立憲君主制にするのか?」
「そんな感じです。父上が公王に就任し、終身の地位を得ます。実務は兄上がやればいいんです」
デギンとギレンは顔を見合わせた。
「つまり、キシリアの言っていることは、ダイクン亡き後の共和国をひとつにまとめるために、あえて権力の集中をおこなえと言ってるのだな」
「そう、そうです。さすが父上、話が早い」
キシリアは満足げにうなずいた。共和国が公国になれば、もはやキャスバルのことなどどうでもよくなる。興味が薄れた段階で地球にでも送ろう、というのがキシリアの描いた絵図であった。
これならテレビ版のストーリーとも矛盾しない。さらにザビ家強化にもなる。キャスバル亡命の日付など、あとからつじつまを合わせればいいのだ。
にこにこしながら、もう一度公国庁舎の完成予想図を見せる。だがデギンもギレンも、浮かない顔をしていた。
ギレンが静かに喋り出す。
「実は、私も父上も、キシリアと似たようなことを考えていた」
「あら。やりますね」
「政治的混乱を収めないと、地球連邦政府による介入がはじまるだろう。そのためにはなんらかの象徴が必要だということで、意見が一致した」
「ですから父上が公王に……」
「キャスバル・レム・ダイクンにそれを担ってもらう」
「ええっ!?」
目を見開くキシリア。
「聞き間違いですか!?」
「ダイクンの長男なら、民衆はまとまるし騒動も収まる。毛並みもいい」
「でもあの子はまだ小さくて……」
「回りが補佐すればいいのだ。そのために我々がいるのだろう?」
さすがギレン。アプローチが違っても、ザビ家の権限が大きくなるようにはするつもりだ。政治的野心はある。
だがこれは、キシリアの予定、なにより『機動戦士ガンダム』のストーリーから大きく逸脱していた。なにもかもすっとばして『逆襲のシャア』をスタートするのと変わらない。下手をするとシャア・アズナブルの名が使われない可能性もあった。
「反対です、反対!」
キシリアは叫んだ。
「あんな子供をトップにつけちゃ駄目です! ザビ家だけで独占しましょう!」
「やりすぎは良くない」
「宇宙にいていいのはザビ家か、ザビ家に従う人間だけです。他の家系は全部駄目。ジーク・ジオンの精神が作品を救うんですよ!」
「意味不明だ。ダイクンの遺児にすれば丸く収まる」
「だってあの子フェンシングで負けて額から血を流すんですよ!?」
彼女はついに、自分以外知るよしもないストーリーを持ち出して騒いだ。もちろん通じるわけがない。
ギレンが言う。
「キシリアは二人を連れてきてくれ」
「なんで!?」
「葬儀の一件以来、二人とも行方不明だ。お前なら知ってるんじゃないかと思っている」
「さすが鋭いと言いたいですが、無理です。アルテイシアは特に」
もはや「とっくに逃がした」とは言えなかった。
「兄上、まだ間に合います。穏当なやり方はゴミ箱に送って、過激な手段を取りましょう。秘密警察を駆使してダイクン派を監獄に送るんです。なんのためのザビ家ですか。混沌に満ちたサイド3をもっと見晴らし良くするんですよ!」
「皆が納得する方法があるなら、やらない理由はないだろう」
「どうせどっかから不満が出るんですから、強権が一番確実ですって!」
「連れてくるのは早ければ早い方がいい」
「ぎゃー!」
もはや時間すらなかった。悠長なことを言っていられない。なにがなんでもキャスバルを亡命させないと。
ポケットの端末が震える。誰かから電話だ。この忙しいのになにごとだと思って確認する。
ガルマであった。キシリアは荒々しくボタンを押す。
「なに! こっちは滅茶苦茶なんだからあとにしなさいよ!」
『姉上、キャスバル……じゃなくて、変な男の子がいなくなった』
「なにそれー!!」
『父上に話があるみたい。そっち行ったんじゃないかって』
キャスバルは自分を使って欲しいと言っていた。キシリアが言を左右にするばかりだったので、直談判するつもりだろう。
最悪のタイミングである。キシリアは口から泡を吹きつつ、通話を終わらせる。
「父上、兄上、その話はまたにしましょう!」
執務室から出ると、全速力でエレベーターに向かう。一階ロビーまで下りると、ちょうどキャスバルがやってきたところだった。少年はキシリアを見るとにこりとする。
彼女は対照的に心臓がひっくり返りそうであった。こんなところを警備員、いや一般市民にすら見られたら大騒ぎになる。駆け寄ってロビーの隅に引っ張る。
「なんで出てきたの!?」
「直接、協力を申し出た方がいいと思いました」
キャスバルは純粋な、汚れのない瞳をしていた。
「今の騒動を収めるのは、僕の名前が必要でしょう。ザビ家の人になら安心してこの身を預けられます」
「余計なこと考えなくていいわよ!」
「もう決めました。話をしてきます」
キャスバルが背を向ける。視線の先にあるエレベーター、その上にはデギンとギレンがいて、彼のことを待っていた。
キシリアの頭に説得の言葉がいくつも浮かぶが、もはやなにを言っても聞きそうにない。とっさに飾ってあった花瓶を、両手で持った。
「ごめんねー!」
ごん。後頭部に花瓶を叩きつける。キャスバルは無言でその場に昏倒した。
○
キャスバルが目覚めたとき、キシリアは神妙な顔をしていた。
「目が覚めた……?」
少年は顔をしかめながら起き上がる。ベッドに横たわっていた。
「ここは……」
「私の部屋。キャスバルがいきなり倒れたから、帰ってきたのよ」
彼は自分の後頭部を触っている。
「すごいがあります」
「あの花瓶、大きかったからね」
キシリアは、いかにも精一杯看病したという顔をしていた。
「お医者さんも、寝ていた方がいいって。私は外にいるから、しばらく大人しくしててね。父上たちとの話は……また後で」
半ば強引に言い含めると、反論される前に彼女は部屋から出た。
静かに扉を閉める。この部屋は外から施錠できないのが難点だ。また余計なことをやらないように見張っているしかない。
しかしどうしよう。とっさに気絶させたが、事態の先送りに過ぎないのだ。デギンもギレンもキャスバルも、また話を持ち出すに決まっている。
端末が震える。本日何度目か分からなくなるほどの、通話通知だった。
「はい。……あ、ミノフスキー博士ですか」
『キシリア様、先だっては失礼しました。キシリアマシ……モビルスーツ開発工場への見学のお誘いです。興味が大変おありのようでしたので』
「行きたいのは山々ですけど……」
そこまで口にしたところで彼女の頭に雷光のような考えが出現した。
「あの、博士!」
思わず声が上ずる。
「亡命するつもりはありませんか?」
端末の向こうで、皺に隠された目が見開かれた。
[つづく]
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