第29話

 譲は町へ向かう車の中で、凭れ掛かる私の肩を抱きつつ「揉めてたんだ」と言った。

「二人も多分知らなかったと思うけどさ。うちの家、姉ちゃんを吉継くんに嫁がせるようにって、杼機から金をもらってたらしい」

 初めて聞く内容に、ぼんやりとたゆたっていた意識が締まる。

「私、知らなかった。吉継は?」

「僕も知らない。疑うわけじゃないけど、それ本当?」

 運転席でハンドルを繰りつつ、吉継はバックミラー越しに尋ねる。ひとまずマンションの駐車場へ集合したあと、とても運転できそうにない私達姉弟に代わり吉継が運転を引き受けてくれた。

「うん。あと結納の時も、一千万もらったって言ってた」

「それが、揉めてた理由?」

「うん、それも含めてなんだけど。その金は全部、父さんと母さんが持ってるらしいんだよ。で、じいちゃんばあちゃんは年金と姉ちゃんの仕送りで暮らしてるだろ。同居だけど毎月食費や光熱費はちゃんと入れてるし、ばあちゃんの病院代や介護費用もその中でやりくりしてる。俺もたまに小遣いあげてるけど、結構カツカツみたいなんだよな」

 祖父は元林業従事者で、七十過ぎまで働いていた。祖母が癌を患ったり足を悪くしたりで介護が必要になったため引退して以降は、年金しか収入がなくなっていた。決して贅沢をしているわけではない。

「それで、ばあちゃんが父さん達に金を出させろってじいちゃんに言ったみたいなんだよ。じいちゃんも思うとこがあったみたいで、父さんに言った。そもそも自分の親の生活費を娘に出させるって、ちょっとおかしいからな。でも父さんは、これは自分達の老後のために備えてる金だから必要なら姉ちゃんに言えって突っぱねたんだ」

 父は私の上をいくネガティブ思考で、特に昔から金に関しての不安が強い。ただそれを紐解けば、天候に左右されやすく波があった祖父の収入に振り回された子供時代の苦い記憶に行き着く。近年こそ通年雇用する企業が増えているが、林業従事者は季節労働者的な側面が強く、うちの町では長らく臨時雇いが主流だった。仕事のない冬場は祖父も例に漏れず市内へ出稼ぎに出ていたらしいが、法定福利が万全だったとは言い難い。

 父が公務員になったのは、安定した雇用と収入を得るためだ。決して少なくない資産を築いているはずだが、「何かあったら」を考えて切り崩せなかったのだろう。

「それ聞いたばあちゃんも『じゃあ祈からもっと金をもらえ』って言い出して、じいちゃんがキレてさ。母さんも『あるとこからもらって何が悪いの』とか言い出すし、父さんは相変わらずビタイチ出す気がねえし。金がこんなに人を変えるのかってレベルで修羅場の日々だった。まともなの、じいちゃんと俺だけだったよ」

 とはいえ、その光景はにわかには信じがたいものだ。祖母は我慢が当たり前の人だったし、母だってそんな図々しい性格ではない。父だって、母が実家に仕送りするのを許すくらいには懐が深かった。

「言ってくれれば、いくらでも出したよ」

「じいちゃんだって、そんなことは分かってたと思うよ。でも頭下げる姉ちゃんのこと考えたら、娘の婿から金引き出せなんて普通、言えねえじゃん。だからキレたんだよ」

 吉継の戸惑う声に、譲は少しぶっきらぼうに返す。黙った吉継に、項垂れて溜め息をついた。

「俺は、じいちゃんを責めらんねえよ」

 声が震え、啜り泣く声に変わる。私にも、祖父の考えが分かる。私に迷惑を掛ける前に、自分と妻と我が子の始末をつけたのだろう。やり方が良かったとは決して思わない。でも、

 一連の話が勢いのままに町へ漏れ出せば、杼機の暗部が明かされることになる。杼機の名に傷をつけたのは「私」の実家だ。祖父は、自分達のせいで私が処分されるのを恐れたのだろう。

――祈。強くなれ。お前は人の上に立たねばならん。

 山から救い出されたあの頃から、祖父は私に言って聞かせた。娘なのにと困る母を気に留めず、私を厳しく鍛え上げた。私が長男だったら、と言われ続けていたのは祖父のせいでもある。祖父はあの時には、私が杼機に嫁ぐことを察していたのかもしれない。

 胸が落ち着いたところで体を起こし、長い息を吐く。ここから、長い日々が始まる。

「警察回りは今、明将さんがしてくれてるんだよね」

「多分、そうだと思う」

 吉継の答えに頷く。何もかも私がすれば早いが、もうそういうわけにはいかない。

「着いたら葬儀の手続きは私がするから、譲は明将さんに礼を言って何があったかを説明をして」

「え、俺がすんの?」

 譲は洟を啜りつつ、驚いたように私を見る。窓の外を流れる灯りが、涙の残る顔を照らして消えた。

「私はもう杼機の人間だからね。整田の家で起きたことは、整田の人間が報告しなきゃいけない。私が頭を下げて事情を説明するのは譲のあとだよ。初めてで不安なのは分かるけど、これから表に立ってお母さんと家を守っていくのは譲なの」

「無理だって。俺、姉ちゃんみたいに強くねえもん」

 泣き言を返す譲を、暗闇の中でじっと見据える。

「強い強くないの問題じゃない。強かろうが弱かろうが『する』の。大丈夫、明将さんには『私の家族に何かしたら一族郎党根絶やしにする』って言ってあるから」

「相変わらず仲悪いね」

「どうしても合わないの。仕方ないでしょ」

 苦笑して座席に凭れ直し、溜め息をつく。明将が取り仕切っているのなら、事件として新聞一面に載ることはないだろう。町の警察は完全に押さえているし、町が表立って大きく揺れることはないはずだ。理由は無理心中辺りか、事実もそう遠くはないから異存はない。知事選に影響が出るようなことになれば、譲と母は町にいられなくなる。

「多分、明将さんは無理心中かその辺で話をまとめようとするはずだから、受け入れて指示に従って」

「じいちゃんを悪者にすんの? やだよ」

 感情的な反応をした譲に苦笑する。気持ちは分かるが、今優先すべきは祖父への思いではない。

「譲が今の暮らしを全部捨ててお母さんと一緒に東京で暮らせるなら、しなくてもいいけど」

 或いは私が離婚して、二人を連れて東京へ出るか。ここで言うわけにはいかないが、選択肢としてはアリだ。二馬力で働けば、母に後遺症が残ったとしても養える。

 しかし譲は、途端に黙ってしまった。「それくらいやってやるよ」と突っぱねる気性があれば、と思うが仕方ない。人には向き不向きがある。だから祖父も、譲を無理には鍛えようとしなかったのだ。

「『杼機は嫁を金で買ってる』なんて噂が流れたら、お母さんも譲も町では生きられなくなる。明将さんの奥さんの実家も、杼機のお義母さんの実家もね。事実を明らかにして楽になるのは私と譲だけ。今は、より多くの人を救う道を選ばないと」

「姉ちゃんは、それで納得できるの?」

「納得するの」

 悔しさや申し訳なさを感じないわけじゃない。でも祖父は、自分の名誉より多くを救えと言うはずだ。あの世で謝っても許してくれる。

「明将さんは人間性はともかく仕事は完璧だし隠蔽のプロだから、言うとおりにして」

「姉ちゃん、そのうち消されそうで怖いんだけど」

「腐っても杼機の跡継ぎだよ。私ごときの悪態に目くじら立てるような度量で、杼機を背負えるわけないでしょ」

 慣れない褒め言葉を吐いたせいか、眉間に皺が寄ってしまう。一息ついて座席へ凭れ、窓外を眺める。脳裏に浮かび来るのは、寺本の施術で見たあの光景だ。簡単には結びつけたくないが、祖母や両親が普通と違う様子だったのは気になる。

 あの幻覚に譲がいなかったのは、予期していたからか。これはサブリミナル効果が引き起こした惨禍ではなく、間接的に作用して拡がった私の呪いなのか。呪いなんて、ありえないはずだ。全ては寺本が吉継から金を巻き上げるためのもので。でも、もし本当だったら。

 溜め息をつき、顔をさすりあげる。ざらりと触れる包帯の感触に、溜め息をついた。

 まだCD鑑定の結果が出ていない。出るまではまだ分からないのだ。全てが揃ってから考えるべきだろう。

 傍らで揺れた携帯にびくりとして確かめると、予想どおりの明将だ。いやな予感しかしない。それでも、出ないわけにはいかないのだろう。

 はい、と掠れる声で応えつつ、窓外の暗闇を映す。町に近づいてもここは、夜の山は、どこまでも暗い。

「お母さんが、今、亡くなったそうだ」

「分かりました。お手数をお掛けしてすみません。もうすぐ着きますので、よろしくお願いします」

 抑えた声で告げられた訃報に、力なく大人の挨拶をして通話を終えた。

「お母さん、助からなかった」

 ぽそりと告げた私に、譲は隣で体を折り曲げ頭を抱える。

――おかあさん、おかあさん。

 あの時は、どこかにいる母を必死で呼んでいた。その手が伸びて抱き締めてくれるのを、心の底から待っていた。でも今はもうどれだけ呼んでも、祈っても願っても、もう抱き締めてはもらえない。

 目を閉じ、震える息を吐く。到着すれば、忙殺されるのが分かっている。脳裏に浮かんでは消える家族の思い出に、今は浸ることにした。


 母は父の二歳年下で、大学時代の後輩だった。父が町へ戻ってからは遠距離恋愛を続け、四年の時に籍を入れて自分も町役場を受験した。祖母曰く「猪のように追い掛けてきた娘」だったらしい。本人も、父が好きで仕方なくて爆走したのを認めていた。

 都会育ちで明るくてあっけらかんとした母は、暗く湿った町ではある種「異質な存在」だった。最初の頃は田舎の洗礼を浴びて、つらい思いをしたこともあったらしい。ただ母は、どうやっても悲劇のヒロインにはならないタイプだ。みなと仲良くなるのは早々に諦めて、自分を嫌う人は適当にあしらい暮らしていた。

 家族の中でもムードメーカーで、母がいればどこでも笑顔があった。たまにあった母のいない食卓は静まり返って、火が消えたようだった。

 母のような妻になり母のような母親になるのが理想だったが、私にはどちらも無理だった。孫を抱かせるどころかろくに安心させることすらできないままで、見送ってしまった。

――好きな人と結婚して、ずっと好きでいられるのって幸せよ。

 今年で結婚三十何年目だったか、たった二年で挫折しそうな今は母の偉大さがよく分かる。

 父は矢上のように財政畑の人だったから、子供の頃は「たまにすごく忙しくなるお父さん」だった。小さな町で予算も少ないとはいえ、仕事の忙しさは大して変わらない。繁忙期でも家には帰って来ていたが深夜だったし、やっぱり休みはなかった。祖父と違い線が細く、猟銃を持つより読書が好きでよく部屋に籠もった。不安定なところはあったが、絵を描いたり短歌を詠んだりと、感受性の豊かな人だった。

 忙しくない時には、よく絵本を読んでくれた。眠る前に一冊か二冊、私と譲を両脇に挟んで穏やかな声で読み聞かせた。父の声だと驚くほどよく眠れたし、恐ろしくもなかった。子供時代の幸せを思う時、家族で囲む食卓と共に浮かぶ思い出だ。

――良かった、祈。祈。

 私が山で見つかった時、父は私を抱き締めて泣いた。あの時、一番泣いたのは父だった。

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