第7話 察した女と期待外れの男


「彌莉? 大丈夫?」


 その声で現実に引き戻された。

 大量の汗をかき、身体は小刻みに震えていた。


「あ、あぁ。少し昔のことを思い出した」


 彌莉は答えながら、震える手で額の汗をぬぐった。

 どうやら震えが優美にも伝わったらしく、とても心配そうな眼差しを向けてくる。


「彌莉?」


「安心しろ、優美。大丈夫だからよ。それより俺変な事言ってなかった?」


「うん。急に何処か違う世界を見ているような感じになってからはなにも」


「なら良かった」


「その反応から見るにまだ無理ってのが本当の理由かしら?」


 遥は何かを察したような問いかけと一緒に「ばかね」と小声で言った。

 普段なら聞き流している言葉は彌莉の心にグサッと刺さる。

 だけど否定する気はないので、その質問を無視して心の中で暴れる不安を押し殺して質問で返す。


「だとしたら、どうする?」


「…………」


 返って来たのは沈黙。

 部屋の中が重たい空気で満たされていくなか、手を通して伝わってくる優美の温もりだけが彌莉の心の支えとなってくれる。それは安心感とは別に心の中で暴れる不安を優しく包み込んでくれるような暖かさをもっている。


 すると、体が感じていた重い圧迫感に似たなにかが徐々に薄れていった。


「それでも私は……彌莉を信じてる。私が最後に頼れる相手は彌莉しかいない……から」


 震えた声。

 それは切羽詰まった声と言うべきだろうか。


「泥棒猫? どうして? どうして軍を動かさないの? そうすればなんとかなるんじゃないの?」


「動かしたくても動かせないのよ。既に他国から救援要請には応じないと言われた今北に戦力を集めれば他が手薄になる。そうなるとさらにマズイ状況にオルメス国は陥るのよ」


 奥歯を噛みしめそう告げる遥に優美は問う。

 人が本当に困った時、最後に頼る相手。

 それがどういった人間なのかを正しく理解して。

 信用や信頼は勿論。

 困難な局面でもどんな無茶だと思える状況でも――。


「なら先日ニュースで見たんだけど、正規軍が身を挺して戦っているけど時間稼ぎにしかなってない。既に北に配置していた軍は機能を失いつつあり、その補填で予備軍を援護に向かわせたって本当なの?」


「えぇ。ルーミアは向こうにとっても特別な個体。そこら辺の天使だけの力じゃ正面からやり合っても勝てない。それは二年前に証明されている事実なのよ」


 ――自分の味方だと信じられる特別な相手。


「……神がいない。それでもこの国に住む多くの者が諦めない理由。それは泥棒猫の事を皆が信頼しているから。だけど私にとって彌莉は最後の家族……。だから無茶はして欲しくないし、させたくない。お願い、こちらも無茶を言っているのはわかっている。だけど手を退いて欲しい」


「自分が何を言ってるのかわかっているの!? それで国が滅びる可能性が極めて高くなるのよ!」


「うん。こっちにもそれなりの事情がある……。それを詳しく言うことは相手が泥棒猫でもできない。だってそれを言えば絶望の二文字を突き付けることと同意義だから」


「あの時、お父様やお母様じゃなくて俺が死ねば……良かったのかもしれない。そうすればこんな状況には……」


 そう呟いた瞬間。


 彌莉の脳裏に血塗れの母とルーミア相手に立ち向かう勇敢な父親の顔が見えた。

 母親が血に濡れた顔で真剣な眼差しを彌莉に向けながら「殺された方がマシだったとか優美の前で言わないで! 優美を悲しませることだけは絶対に私許さないから!」と怒り、背中を向け勇敢に戦う父親からは「男なら前を向いて歩け! いつまでも逃げるな!」と喝を入れられた。


 頭がかち割れそうだ。


 慌てて手で頭を抑え、大きく息を吸い、ゆっくりと吐き出し、乱れ始めた呼吸を整える。それから頭を振って記憶の中の二人を振り払う。記憶の中にある大切な人の死が残した心に残る深い傷跡。それは二年経った今でも癒えることを知らない。


 自分が無垢で愚かだったために、両親を助けることができなかった、あの忌まわしい日から彌莉は事あるごとに自責の念が作りだす被害妄想に心を蝕まれ正常に大天使ミカエルの力を扱うことができないでいた。


「それは違うよ。だからそんな事言わないで。私は……彌莉がいればそれでいい。きっと私の両親もそれを願っているはず。私達の未来を。そして幸せを」


 優美の声を遠くに聞きながら、彌莉は少し遠くに見える白い壁を見つめる。

 どんなに後悔したって過去には戻れない。そんなことは頭の中ではわかっている。だけど物心付く頃から過ごした懐かしい日々が鮮明に今でも甦えってくる。一緒に過ごしたかけがえのない時間はもう二度と戻ってこないというのに。


「…………」


 白い壁に映る過去の楽しい日々の記憶に涙を零した。

 壁の中に映る楽し気な四人の姿はとても幸せそうで、とても楽しそうだった。

 ずっと隣にいてくれた、自由な世界を教えてくれた、家族の愛を教えてくれた、両親はもうこの世にはいない。

 そして壁に映る両親に「ごめん」と呟いた。


「ごめんなさい……私が……我儘言ったばかりに嫌なことを思い出させたみたいね」


「別に気にしなくていい。これは俺の問題だから」


「それより汗凄いけど大丈夫?」


 ベッドの横に置いてあるハンドタオルを手に取り汗を拭いてくれる優美。


「あぁ。心配かけてごめんな優美」


 そんな優美を優しく抱きしめる。

 体が密着したことで優美の心音が伝わってくる。


「ううん、大丈夫。私達ずっと一緒だからね?」


 すると優美も腕を回して抱きしめてきた。


「そうだな」


「私お邪魔みたいだから帰るわね」


 そう言って悲し気な表情をしたまま遥が立ち上がる。

 その時。

 ほんの一瞬だった。

 光を反射する滴が遥の瞳から零れていることに偶然気が付いた彌莉。

 だけど止めることはできなかった。

 今止めても、今の自分ではどうすることもできないと思ったから。

 そのまま天使の力を使い王城へと帰っていく遥の背中を静かに見送った。

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