私は貴女をカッフェで待つ

鍋谷葵

私は貴女をカッフェで待つ

 私は貴女をカッフェで待つ。


 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 貴女は私に二度と会わないと、ショートピースを半部程度吸いながら、女性にしては低い特徴的な声で、短い髪の毛を弄びながらそう言った。ふっくらとした濃い赤に彩られた唇から漏れる紫煙を、私は殴りたかった。私は貴女を殴りたくなかった。私を吸い寄せた貴女の顔を傷付けたくなかったから。だから、私は貴女の口から漏れる気怠い煙を殴ろうとした。手を伸ばして、掴みかかって殴ろうとしたけれど、私の臆病な手は震えて動かなかった。

 貴女を直視できなくなった私は目を伏せた。どうしてか、深いこげ茶色のテーブルの上に置かれた切子の灰皿に私の視線は向かった。まだ紫煙をゆらゆらと燻らせる二本の煙草が目に入った。

 窓から差し込む夏の日差しをぎらりと灰皿は反射した。そして、煙草の煙と合体して、私の目に沁み込んできた。悲しみの涙と辛い涙が合わさって、ぼろぼろと私の目から中途半端な涙が零れ落ちた。私は途方も無く悲しかった。


「……嘘?」


 腹底から込み上げてくる嗚咽を飲み下しながら、私は貴女に問いかけた。顔は見れなかった。いや、顔を見せたくなかった。


「嘘じゃないよ。私、君に飽きたんだ」


 貴女はきっと私を見向きもせずに、窓を見つめて、夏の暑い道を歩く人を見つめていた。夜の遊びを終えた後にいつも見せるあの素っ気ない表情と声色で、貴女は答えた。


「飽きたってどういうこと?」


「そのまんまの意味。君との夜に飽きたんだ」


 貴女は右手の人差し指と中指に挟んだ煙草の煙を吐き出しながら、やっぱり素っ気なく別れの理由を言った。

 途端、私の涙は色を変えた。私の二つの感情が合わさった中途半端な涙は、怒りに満たされた。散々尽くして、貴女のしたい遊び方に身を任せた私の献身が踏みにられたから。紐に縛られ、鞭に打たれ、敏感な場所を声が出なくなるまで弄繰り回されて、何よりも処女を捧げた。それら全てが踏みにじられたことを想うと、怒りが湧いてきて堪らなかった。


「……どうしてそんなことを言うの?」


 けれど、臆病な私は貴女に震える声で、怒りを伝えることしかできなかった。膝の上で強く握り締めた拳は、今にも貴女の白い頬と殴り飛ばそうとしていた。貴女が好きと言ってくれたから嫌々来ていたワンピースから顔を出している足も、貴女を蹴り飛ばす準備は出来ていた。でも、私は臆病だから貴女を殴れなかった。私は私の全てを侮辱されようとも、貴女を嫌いになれなかった。


「どうしてって、うん……、まあどう言ったって堂々巡りだ。本当に君に飽きただけだよ」


 ニコチンに毒された脳で、適当な理由を探そうとした貴女は、気の利いた答えを吐き出せなかった。貴女は簡潔に、けれども決定的に私に別れの理由を突き刺してきた。


「貴女に全部捧げたのに?」


「うん、まあそうだね。悪いとは思ってるよ。それに私もまさか君に飽きるとは、思ってなかったからさ。君の嬌声はうっとりとするくらい私をたぎらせたし、快感に溺れながらくねらせる豊満な体は淫乱だったよ。けど、味の濃いものも食べすぎると飽きるように、理想的な夜も数回で良いんだ」

 

 あっけらかんと乾いた笑い声と共に、貴女は私を突き放した。

 私の涙腺は限界を迎えた。ぽろぽろと止めどなく、悲しい涙が溢れた。せっかく貴女に会えると思って整えてきた、化粧も崩れたはず。

 泣き出した私は、やっぱり貴女の顔を見れなかった。でも、多分、貴女は気まずそうな表情を浮かべていただけのはず。だって、貴女は本気で私を突き放したから。貴女が乾いた笑みをこぼす時は、いつだって本気だった。


「ごめん……」


 締め付けられた窮屈な声で、貴女は私に謝った。

 嫌々謝った。

 貴女は私を落ち着かせるために、貴女は周りの迷惑のために謝った。貴女のその声を聞くと私は、どうしようも無く胸が締め付けられた。けれど、そのおかげで溢れる貴女への想いを無理やり押し込めた。

 見捨てられた憐れな女の口からは、嗚咽だけが漏れ続けた。愛して愛して止まなかった人に、打ち捨てられた孤独な女は、愛する人に顔を向けられなかった。


「本当に、これでお別れなの?」


 孤独に耐えられない淋しい私は、蜘蛛の糸に縋るように貴女に問いかけた。ほんの少しでも、あともう少しでも、私は貴女と繋がっていたかった。


「それなら最後に一回だけ、付き合ってよ」


 嗚咽混じりの声で、嬲られ、虐められ、笑われ、舐められ、意識を失ってもイカせられ続けた艶かしい夜の繋がりを最後に貴女に求めた。

 貴女はごくりと唾を飲んだ。

 貴女の反応に、私は一縷の希望を見出した。もう一回、貴女と繋がれると思った。嬉しかった。


「ごめん……、やっぱりこういう時は後腐れなく済ませたいんだ」


 でも、貴女は苦しそうに私の誘いを断った。

 私はその時、無意識下に泣き止んで、顔を上げた。貴女が自分の欲求で、傷付く所を見たかったからだと思う。

 急に泣き止んで、急に顔を上げた私に貴女は目を丸くして驚いていた。短い髪をいじらないで、化粧の崩れた私の顔を凝視していた。

 そして、貴女は没義道もぎどうな笑みを浮かべた。艶やかで、悪魔の様な邪な笑みだった。昏い貴女の瞳に私は吸い込まれた。灰皿からゆらめき立つ紫煙も相まって貴女は美しく写った。


「それならこれでお別れだね……」


 魂が抜けた様な声が、私の口から漏れた。

 耽美的にほんのりと口角を上げる貴女は、より高く口角を上げた。そして、昏い瞳により深みが入った。どんよりと貴女の瞳は濁った。


「うん、そうだね。けど、覚えておいて」


 昏い瞳のまま貴女は立ち上がると、呆然とした私の元に歩み寄った。

 そして、貴女は流れるままに私に唇に口づけをした。しかも、深い深い舌を絡み合わせる一番気持ちの良いキスを。貴女は舌で、私の口の中を嬲った。歯茎をなぞって、舌を絡ませて、なぜか甘い唾液と唾液を混ぜ合わせて、貴女は時間を忘れさせる心地良いキスをしてくれた。

 

「ぷっはぁ、はぁはぁ……」


 息が続かなくなって私から離れた貴女は、顔を赤らめて、けれども昏く笑っていた。私は息苦しさの中でただ貴女を見つめるだけだった。


「ふふ、それじゃあね。またどこかで、そう、それこそ一年後、ここで会えたらこの続きをしよう。それまで君がここで待てたらの話だけど」


 貴女は息が整うのを待たずに、手をひらひらと振りながら私に背を向けて立ち去った。

 情欲に塗れた人を私は見た。そして、そんな欲深い人を待とうと決心した。

 貴女もまた淋しい人だったから……。


 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 それから今日で一年経った。

 今日もあの日と同じで、青々と晴れている。太陽は燦々と輝いて、夏の鋭い陽光を地面に降り注ぎ続けている。

 カーテンを閉めているのに、暑い日差しは否応なく窓から入り込んでくる。けれど、カッフェは冷房が効いている。それに手元にはアイスコーヒーがあるからそこまで暑く無い。

 水滴まみれのグラスに入った氷がからりと鳴った。薄黒いコーヒーが、ぱしゃりと小さな音を立てた。同時にがらんがらんと真鍮のベルが鳴った。

 入店する人を気にかけず、あの日と変わらないぎらりと日差しを受けて光る切り子の灰皿を見る。そこにショートピースの吸い殻は相変わらず無かった。何日も何日も待ち続けた煙草と紫煙は、そこに無い。


「今日来なかったら殺すから……」


 でも、今日はその日だ。

 私が待ち望んだ貴女と会える日だ。

 もう一度、貴女の匂いを嗅げると思うと胸が熱くなる。興奮する。愛が溢れそうになる。


「貴女に滅茶苦茶にされたい」


「やっぱり、時間を置いて正解だった」


 灰皿と快楽の思い出に夢中だった私は、待ち続けた貴女に気付かなかった。


「行こうか」


 昏い瞳と低い声で、貴女は私を魅了すると有無を言わせないまま、私の手を取る。

 快楽と依存の手を……。


 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

私は貴女をカッフェで待つ 鍋谷葵 @dondon8989

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ