・第17章:「詰問状」
第345話:「公爵とメイドのとある朝:1」
ノルトハーフェン公国に、また春が訪れようとしている。
段々と気温があがり、そこかしこに残っていた雪も見えなくなり、地面には緑が増え始める。
そんな、始まりを感じさせる季節の、とある朝。
「……っ! 」
ノルトハーフェン公国の若き少年公爵、エドゥアルド・フォン・ノルトハーフェンは、まだ朝早い時間に、自室のベッドで飛び起きた。
誰かに起こされたからでも、不穏な気配を感じたわけでもない。
カーテンの隙間から薄く朝日が入り込み始めたくらいの時間で、壁にかけられたガス灯が1つだけの部屋の中は薄暗かったが、その部屋にはエドゥアルド以外の何者かがいる様子はまったくない。
エドゥアルドは汗だくだった。
彼のブロンドの髪はぬれて重くなり額にべったりと張りつき、灰色がかった彼の碧眼は、動揺しているのか焦点がうまくさだまらない様子で震えている。
服も湿っていて、肌に張りついて不快だった。
数回、エドゥアルドは荒い呼吸をくり返し、冷たい空気を火照った体の中に取り込んで、熱を冷まそうとする。
それから彼は、そっと布団をめくり、自身の下半身もぬれていることを確認した。
「……また、あの夢を見た」
それからエドゥアルドは、ガックリとうなだれながら、ため息交じりに、どこか熱っぽい様子でそう呟く。
夢、と言っても、悪夢などではない。
むしろ、心地よい夢だ。
アリツィア王女とのとある一件以来、エドゥアルドは何度か今日と同じ夢を見ている。
その夢を見ている間はたまらなくなるほど心地よいのだが、ハッとして目覚めるとエドゥアルドは決まって汗だくで、身体は火照って熱っぽく、少しの気怠さと妙な落ち着きを感じるのだ。
エドゥアルドはその、満足感とも言うべき感覚にひたっていることはしなかった。
そそくさとベッドから起き出し、履物も履かないで着替えの用意してある衣装部屋へと向かう。
エドゥアルドは急いでいた。
特に緊急の公務があるわけではないのだが、彼は自分にできるだけの早さで服を着替え始める。
服を脱ぎ、タオルで全身をぬぐい、少しにおいを気にしてから、今は入浴できる時間でもないから仕方がないと少し顔をしかめ、それから新しい衣装を身につける。
とにかく、急がなければならなかった。
なぜならもうすぐ、この部屋を訪問してくる者がいるからだ。
「ひぐっ!? 」
こんこんこんこん、と丁寧に4回ノックがなされた時、エドゥアルドはまだシャツを着ている途中だった。
詰まるような声の悲鳴を
その手は動揺によって激しく震えている。
「エドゥアルドさまー? お目覚めでございますかー? 」
エドゥアルドが慌てていると、扉の向こうからメイドのルーシェの、朗らかで少し間延びした明るい声が聞こえてくる。
その声を聞いたエドゥアルドは、ますます焦った。
なんとか着替えだけは済ませられそうだったが、しかし、それだけでは不十分だからだ。
さっきまで身に着けていた衣服。
それを、エドゥアルドはメイドに知られることなく[始末]しなければならないのだ。
「あ、ああ、ルーシェ! もう、起きている! 」
エドゥアルドは思い通りに動いてくれない自身の指をもどかしく感じながら、とにかくルーシェにそう答える。
エドゥアルドが起きておらず、眠ったままだったら、エドゥアルドを起こすためにルーシェは勝手に部屋の中に入ってきてしまうからだ。
そのためにルーシェには、エドゥアルドの部屋の合鍵を持ち出すことが許されている。
「ああ、エドゥアルドさま、お目覚めでございましたか!
でしたら、お着替えのお手伝いを……」
「いい、大丈夫だッ!
もう着替え終わるところだから! 」
エドゥアルドの声を聞いてルーシェは嬉しそうな声でそう言ってきたが、エドゥアルドは彼女の親切を急いで断った。
それがメイドとしての彼女の仕事であり、いつもなら手伝ってもらうところなのだが、今はそうできない理由がある。
実際にはまだシャツのボタンを閉め終えたところで、上着を着て、ネクタイを締める工程が残っていたが、汗などで濡れた衣服を始末するまではルーシェを部屋の中に入れるわけにはいかなかった。
しかし、エドゥアルドは慌てるあまり、ミスを犯した。
部屋に入ってくるなと、ルーシェにはっきりと言わなかった点だ。
たとえ着替えを手伝わずとも良くても、それ以外にも彼女にはいろいろな仕事がある。
カーテンを開いたり、明かりをつけて回ったり、エドゥアルドに朝食の要望を聞いたり、エドゥアルドが脱いだ服を片づけたり、ベッドメイクをしたり。
公爵ほどの身分になると身の回りのことはすべて使用人たちがやってくれるし、それだけたくさんの仕事があるのだから、1つやることが減ったら他のことをくりあげて行おうとするのに決まっているのだ。
「あっ、ちょっ、ちょっと待っ……」
上着を身につけようとしていたエドゥアルドは、ルーシェが合鍵を鍵穴に差し込み、ガチャリ、と開く音を聞いて、上着のそでに腕を通しながら今さら制止する言葉をあげる。
しかし、遅かった。
「おっはようございます、エドゥアルドさま!
今日はとってもいいお天気になりそうですよ! 」
ルーシェはすでに部屋の中に入ってきており、エドゥアルドの制止する声が聞こえなかった様子で、弾むような声でそう言って来る。
エドゥアルドの部屋は広く豪華なもので、部屋の中に部屋があるほどだからまだ直接お互いの姿を目にしているわけではなかったが、そうなるのは時間の問題だ。
エドゥアルドの額を、新しくにじみ出てきた冷や汗が伝って行った。
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