第343話:「メイドよ、大志を抱け:2」

 遠慮などする必要はない。

 もっと、自分に素直になってもいいのだ。


 アンネにそう言われても、ルーシェはただ戸惑うことしかできない。


 いったい、なにを遠慮するなと言っているのか。

 素直になるとは、どういうことなのか。


 ルーシェには思い当たらない。


 だが、アンネはルーシェには分からないことが分かっているようだった。


「ルー先輩、いいですか?


 ルー先輩は、エドゥアルド公爵様が誰かと結婚してしまうのは、嫌だって、そう思いましたよね? 」


「わ、私、そんなことは……」


「いいえ、そう思ったはずです。

 顔を見ていれば、そのくらい、すぐにわかるんですよ」


 アンネの言葉は、確信に満ちている。

 思わずルーシェが、(そうだったのかも……)と思ってしまうほどに。


 いや、実際に、ルーシェは不安だった。

 エドゥアルドが誰かと結婚して、自分には手の届かない、遠い存在になってしまうことが、怖かった。


 もちろん、エドゥアルドが結婚したところで、ルーシェが用済みになってメイドをクビになる、なんてことはないだろう。

 エドゥアルドは今まで通りにルーシェをメイドとして働かせてくれるのに違いない。


 しかしそれは、今までと同じではない。


 ルーシェはエドゥアルドのメイドとして働いていて、今まで多くの時間、エドゥアルドのことを独占していることができた。

 たとえエドゥアルドの意識の中にルーシェが存在せず、歯牙にもかけられていなかったのだとしても、そこにいるのは2人だけ。

 ルーシェとエドゥアルドだけだったのだ。


 その時間が、ルーシェは好きだった。

 このままずっと続けばいいのにと、1分1秒でも惜しいと思えるほど、好きだった。


 しかし、エドゥアルドが誰かと結婚してしまえばきっと、その状態は終わってしまう。

 なぜなら、エドゥアルドの側にはルーシェではない別の誰かが常に存在するようになってしまうからだ。


 そしてルーシェはきっと、自分からどんなにエドゥアルドに触れたいと思っても、そうすることができなくなる。

 エドゥアルドの側はもう自分以外の誰かによって埋まっていて、ルーシェがそこに入り込む余地はないからだ。


 そのことを想像すると、ルーシェの心は、ズキズキとした痛みを覚える。

 そうなってしまうかもしれないと、そう思うだけで不安でいっぱいになって、自分が立っている地面がなくなり、奈落の底に無限に落ちていくような恐怖を感じてしまう。


 アンネの言葉が、有無を言わせないモノであったからではない。

 彼女が言語化した感情を実際に感じていたのだと、ルーシェは自覚せざるを得なかった。


「だけどルー先輩は、それがわからなかった。


 いいえ、自分で自分の気持ちに、気づかないようにしていたんです。


 どうしてなのか。

 それは、ルー先輩が遠慮して、自分の気持ちに素直になれないからなんですよ! 」


 自分のことは自分が一番よく知っている。

 それは真理であったが、しかし、自分自身ではない他人が、外から見た方が見えやすいということもある。


「いいですか、ルー先輩。

 自分がメイドだからって、そんな風に遠慮して縮こまっている必要なんてないんです。


 自分で、自分の幸せをつかまないと、いけないんです! 」


 アンネは、ルーシェにだけ聞こえる声で、力説する。

 その言葉は、心の奥深くにまで響く。

 アンネの洞察どうさつが鋭く、的を射ているだけではなく、彼女自身がルーシェとまったく同じ感情を抱えているからだ。


「確かに、あたしたちはスラムの出身。

 今、こうしてお屋敷で働かせていただけいるだけでも、望外のことです。


 だけど、だからって言って、それで満足しなくちゃいけないっていうわけじゃないんです。

 むしろ、こんな幸運をもらえたのだから、それを最大限に生かして、自分の本当に欲しいものをつかみ取らなければいけないんです。


 この世の中には、そんな機会さえ得られない人が大勢いるんです。

 ルー先輩だって、良く知っているはずです。どんなに努力して、頑張っても、自分の力だけではどうにもできなかった人たちが、たくさんいるっていうことを。


 ほんの少しの偶然で、あたしたちの今がある。

 だけどもし、自分の目の前にある、大勢の人が手にできなかった幸運のおかげでできたチャンスに手をのばそうともせずに、遠慮して、縮こまって、結局なにも得られなかったら。


 その方が、他の大勢の人たちに、チャンスをもらえなかった人たちに対して申し訳ないと、ルー先輩はそうは思わないんですか?

 あたしは、そう思いますよ! 」


 自分は、メイドだから。

 今でも十分に、過分なほどに、幸せだから。


 これ以上のことなんて、求めてはいけない。

 望んではいけない。


 なぜなら、自分のように幸せになることができなかった人が、その人自身の責任ではなく、個々の力ではどうしようもない世の中の在り様のせいで望みを叶えられずにいる人が、大勢いるから。


 だからルーシェは、今のままでいいと思っていた。

 そう思って、ずっと、自分の心の奥深くにある気持ちに鍵をかけ、気づかないフリをしてきた。


 だが、そうではないのだ。


「ルー先輩は、もっと、エドゥアルド公爵様と一緒にいたいんですよね?

 あたしには、分かっていますよ!


 だったら、そんな風にとぼけてないで、もっと、どーんと、アピールしていかないと! 」


「あ、アピールって、言っても……。

どうしたら、いいのかな?」


 ルーシェのそのおずおずとした言葉に、アンネは一瞬、きょとんとした顔をする。

 だが、すぐに自分の言葉がルーシェに届き、その心を揺さぶり、彼女が自分でかけていた鍵を開いたのだと悟って、ニヤリ、と不敵な笑みを浮かべていた。


「任せてください、ルー先輩!


 あたし、全力で応援しちゃいますから! 」


 そしてアンネはルーシェの手に自身の手をのばし、ガッシ、と力強く握る。

 すうとルーシェも、控えめにだが、その手を握り返す。


 2人のメイドは握手を交わし、そして、この時から、メイドたちの新たな戦いが始まるのだった。

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