第341話:「滞在の終わり:2」
ルーシェの手から、これからカートに積み上げようとしていた皿がツルりと落ちる。
「あっ、ちょっ、ルー先輩っ! 」
アンネがそれに気づいてとっさに手をのばして皿を空中でつかんでくれていなければ、ルーシェはまた自身のドジっ子伝説に新たなエピソードをつけ加えるだけではなく、メイドの師匠であるシャルロッテにこっぴどく叱られていたことだろう。
しかしルーシェは、それどころではなかった。
アンネに「ありがとう」と感謝する余裕さえない。
「けっ、けっ、けっ、くっ、かっ……」
結婚。
そう発音しようとしているのに、ルーシェの引きつった口は満足に動いてくれず、声もまともに出ない。
キャッチした皿をカートの上に重ね、それから表情を引きつらせているルーシェへと視線を戻したアンネは、疲れた視線でしばらくの間みつめる。
「あー、ルー先輩には、刺激が強すぎたかー」
それから、ルーシェがこのような状態になっているのは自分の不用意な発言に原因があることに気がついたアンネは、少し反省したようにそう呟いた。
「ルー先輩、大丈夫ですよ!
たとえ本当に結婚、なんてことになるとしても、当分先のことでしょうし、そうとも限らないんですから」
「……そ、そうなの、かな? 」
エドゥアルドとアリツィアは結婚しない。
そう言われたことでルーシェは思考を取り戻す。
だが、その表情は、不安でいっぱいだ。
(はぁ……、ルー先輩に気づかせるのも、大変そうだなぁ)
アンネは青ざめた表情のルーシェの様子を観察しながら、内心でそんなことを思う。
ルーシェは、自分が今、なぜこんなに不安になっているのか、その理由を少しもわかっていないのだ。
アンネには、わかっていた。
ルーシェに身長の高さでは抜かれはしたものの、人生経験の長さではアンネの方に一日の長がある。
(さて、どうしましょうかね……)
アンネは他のメイドたちが運んできた皿を受け取ってカートの上に積み上げながら、考える。
アンネが観察するところ、アリツィアがノルトハーフェン公国に滞在している間に、エドゥアルドとの間でなにかがあったのは間違いなかった。
そしてルーシェが気づいた2人の関係性の変化は、ある辺りを境に起こっている。
いつ、なにがあったのか。
普段はフェヒターのメイドとして彼の屋敷で働いているアンネには、具体的なことはわからない。
ただ断片的な情報から
ノルトハーフェン公国とオルリック王国が友好関係を結ぶ、その証として婚姻を行う。
それは貴族社会の在り方を考えれば、ありそうな話だ。
友好国が増えるのは基本的には良いことであるはずだったし、現在、エドゥアルドの統治によって順調に力を増しているノルトハーフェン公国と結ぶことは利益が大きいに違いないと思える。
それに、エドゥアルドもアリツィアも年が近く、組み合わせとしてはちょうどいい。
政略結婚の相手としてはまったく不自然なところはなかった。
だから、そういう話が行われ、そのために2人の関係に変化が生じた、ということは十分に考えられることだった。
(結婚の申し込み、は……、さすがに気が早すぎるしなぁ)
しかしアンネは、その考えを保留する。
もし本当に政略結婚の話が持ち上がっているのなら国同士の間で正式なやりとりが行われているはずだったが、そんな様子はない。
だが、なにかがあったことは間違いなかった。
今も2人は同じテーブルにつき、同じ食事をしている。
そして会話はないものの、お互いに視線が合うと慌てたように視線をそらし、それなのに、相手がこちらを見ていない時は、ちらちらと視線を送っている。
(あれは、間違いなく意識していますよね……)
アンネの鋭敏なセンサーが、ビンビンに反応している。
あの初々しい態度は、エドゥアルドとアリツィアがお互いのことを異性として、恋愛の対象として意識していることのあらわれに違いなかった。
貴族同士の政略結婚。
そこに、アンネのようなメイドが介在する余地などない。
そしてエドゥアルドとアリツィアが結ばれることは、良いことであるのに違いなかった。
2人の様子から、その関係がどこまで進んでいるのかはわからないものの、好意的に考えていることがわかる。
友好国が増えるのも、好きになった者同士が結ばれるのも、どちらも悪いことのはずがない。
(だけど、あたしは……、ルー先輩を、応援したい)
エドゥアルドとアリツィアを観察していたアンネの視線は、いつの間にか、同じテーブルで食事をしているフェヒターへと向けられていた。
彼はどうやら、エドゥアルドとアリツィアに挟まれて、苦労している様子だった。
普段なら食事中はワインなどをよく飲んでいるのに、今日はあまり飲まずに、フェヒターは直接会話しようとしないエドゥアルドとアリツィアの間を中継するという役割を果たしている。
あまり性に合っていない役割なのだろう。
フェヒターはにこにこと笑ってはいるものの、その表情は若干引きつっていて、困惑しているように見える。
それでも彼は自分の役割を果たし、エドゥアルドの力になろうと、頑張っている。
フェヒターはかつてエドゥアルドに反逆を企てたこともある大罪人で、多くの人々にとっては決して、好意的に見ることのできる存在ではなかった。
しかし、アンネにとっては命の恩人だ。
ルーシェにとってのエドワードがそうであるように、アンネにとってのフェヒターは、自分を貧しく苦しいスラム街での暮らしから救い出してくれた人なのだ。
アンネは、フェヒターのことを慕っている。
アンネに言わせればフェヒターに対する悪評は彼の本当の姿を知らないために起こったものに過ぎないし、事実として、エドゥアルドとの関係を修復し、過去の遺恨を乗り越えた現在では、彼の振る舞いは立派なものになっている。
フェヒターから受けた恩を返すために、自分にできることならなんでもする、そうしたいと、アンネは思っていた。
ルーシェとアンネは、それぞれの芯にある想いに気づいているかいないかの差はあっても、同じような境遇にあると言っていい。
ルーシェもまた、アンネと同じように自身を救ってくれたエドゥアルドに対し、自分にできる限りのことをしたいと考えているのに違いない。
だからこそアンネには、ルーシェ自身がまだ気づいてさえいない気持ちの正体がわかっていた。
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