第306話:「来訪:2」
エドゥアルドは、突然目の前にあらわれたアリツィア王女の姿に、呆気にとられるしかなかった。
まさか、と思ってアリツィアの姿を観察してみる。
彼女は今、他の馬丁たちと同じような服装で、とても王族のお姫様の格好とは思えない。
だが、その顔立ち、声は、明らかにアリツィアのものだった。
呆気に取られているのは、エドゥアルドだけではなかった。
その場にエドゥアルドと共に並んでいたノルトハーフェン公国の要人たちもみな、アリツィアの突然の出現に戸惑っている。
どうやら、アリツィアがやってきていることを誰も知らされていなかった様子だった。
「あ……、アリツィア、王女?
なぜ、こちらに?
おいでになるとは、少しもうかがってはおりませんでしたが」
しばらくして、エドゥアルドはなんとかそれだけを声に出してアリツィアにたずねることができる。
その声は、すっかり裏返っていた。
すると、アリツィアは「ふふっ! 」っと小さく吹き出すように笑みをこぼす。
「あっはっはっ! そうだ、それだよ、エドゥアルド公爵!
私は、そのエドゥアルド公爵の驚く顔が見たかったんだ! 」
そして次の瞬間には、アリツィアはお腹の辺りを抱えながら、実に楽しそうに大笑いしていた。
つぼみが開き、美しい花が咲き誇るような。
そんな笑みだった。
そのアリツィア王女の笑いようを見て、エドゥアルドは半ばほっと安心し、半ば不機嫌になっていた。
アリツィアがこうして突然姿をあらわしたのは、なにか素性を隠してエドゥアルドに会いに来なければならないような[厄介ごと]を抱えているからではなく、単純にエドゥアルドのことをからかって、驚かせたかったからなのだ。
厄介ごとでないというのは一安心ではあったが、こうしてアリツィアの気まぐれにまんまと引っかけられてしまった、もてあそばれたエドゥアルドは、決していい気分ではない。
「もちろん、それだけではないんだよ? 」
知らない間柄でもないので、エドゥアルドが
「この子、オルガという名前なんだが、私が故郷で普段乗っている馬の、その娘なんだ。
だから私にとっても、大切な存在なんだ。
それが、ノルトハーフェン公国へ。
エドゥアルド公爵の下へ送られることになった。
だから、私が連れて来たかったんだ」
どうやらアリツィアは、自分にとって縁のある馬だから、自分の手でノルトハーフェン公国まで送り届けてやりたかったらしい。
(馬を、大切にされているのだろうな……)
そう思うと、エドゥアルドももう、不機嫌に思うようなこともない。
アリツィアは貴族の姫らしくない、お転婆で活発なところのある女性だった。
普段から乗馬のような、普通は貴族の男がするようなことを趣味としており、それどころか、オルリック王国軍を率いて戦場に参陣し、自ら陣頭に立って戦うほどの、武闘派な女性だ。
だから、馬に対してどれほどの愛情を持って接しているかは、エドゥアルドにも理解することができる。
馬とは、戦友であり、戦場で生死を共にする相棒なのだ。
それにエドゥアルドだって、自分の馬を愛しているのだ。
「ああ、でも、実は少し、お願いしたいこともあるんだ」
「僕にお願い、ですか? 」
しかし、エドゥアルドはそのアイツィアの言葉で、再び警戒してしまう。
アリツィアはかわいらしく小首をかしげ、両手を頬の横で合わせて、上目遣いを作ってエドゥアルドにねだるような姿を見せている。
その姿はなかなか魅力的なのだが、アリツィアは王族だ。
彼女が公爵であるエドゥアルドに「お願い」と言うのなら、それは、国家間の外交に関わるような内容かもしれないのだ。
エドゥアルドは、生真面目だった。
アリツィアはノルトハーフェン公国とオルリック王国が友好関係を結ぶのに当たって助力してくれたし、ヴェーゼンシュタットの攻防戦では、エドゥアルドを大きく助けてくれた。
ヴェーゼンシュタットでの勝利は、アリツィア王女と、その指揮下の
エドゥアルドからすると、アリツィアには借りがある。
そしてその借りを返すためには、エドゥアルドはアリツィアがどんな無理難題を吹っかけてこようと、できるかぎりそれに応えなければならない。
それは、エドゥアルドの[公爵]としての仕事となるはずだった。
「エドゥアルド公爵は、真面目だねぇ……。
そんなに身構えなくても、大したお願いはしないから」
仕事に臨むような真剣な表情を作ったエドゥアルドに、アリツィアは軽い調子で、少し呆れながら肩をすくめてみせる。
「以前、カール11世陛下のご厚情で、帝国観光をさせていただいただろう?
だけどその時に、私、ノルトハーフェン公国を見ていなかったなぁ、って思い出してね。
だから、しばらくの間、できれば数週間から1か月くらい、エドゥアルド公爵のところにいさせてほしいんだ。
私と、使用人たちと、護衛たち。
どこかに滞在できる場所と、必要なモノの手配をして欲しい。
それと、できればだけど、いろいろ、ノルトハーフェン公国のことを案内して欲しいな。
もちろん、経費は後で我が国王陛下が支払ってくださるから。」
「……それだけ、で、いいのですか? 」
アリツィアの言葉に、エドゥアルドは拍子抜けしたようになってそうたずねていた。
要は、アリツィアはエドゥアルドのノルトハーフェン公国を観光したいと言っているだけなのだ。
「うん、それだけ、それだけ」
アリツィアはにこにことした笑顔を作り、うんうん、とうなずいてみせる。
(本当に、それだけ? )
エドゥアルドはそのアリツィアの笑顔の裏になにか別の意図があるのではないかとちらりと思ったが、しかし、の引っかかりが何なのか、エドゥアルドには具体的に考えつかない。
つまり、アリツィアがノルトハーフェン公国を観光しようというのを、断る理由をエドゥアルドはなにも持っていなかった。
「分かりました。そういうことでしたら、喜んでお迎えさせていただきましょう。
なんなら、1か月と言わず、もっと長くともかまいませんよ」
「そうか、それは、助かるね……」
そのエドゥアルドの言葉に、アリツィアは少しほっとしたように、そして意味深にも思える微笑みを見せながらうなずいていた。
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