第304話:「小康状態」

 平民にも、士官の道を開く。

 そうすることをエドゥアルドはアントンに提案されるまで考えていなかったが、しかし、一度その必要性を理解すると、すぐに行動を開始した。


 以前、喫茶店で平民たちと論戦を交わして以降、エドゥアルドは貴族階級が持つ典型的な特権意識から脱却している。

 平民はただ貴族に支配されるだけの存在ではなく、自ら考え、行動することのできる人々だということをエドゥアルドは知っている。


 だから、平民を士官にしても十分に働いてくれるだろうということを、エドゥアルドは疑わなかった。


 平民に士官の道を開こうというエドゥアルドの前に立ちはだかっている壁は、厚く、大きい。

 まだ準備を始めた段階に過ぎなかったが、やはり諸侯からの反発は大きそうであり、たとえノルトハーフェン公国の国内だけに絞って平民を士官にするのだとしても、簡単には了承を得られそうになかった。


 アルエット共和国に関する動向についても、少しずつ情報が入り始めている。


 フルゴル王国をその影響下に置いたアルエット共和国が、その総力を率いてタウゼント帝国に侵攻してくる。

 それがエドゥアルドたちにとっての[最悪の事態]だったが、アルエット共和国軍を率いるムナール将軍は、すぐには軍を動かそうとはしていないようだった。


 彼は、むしろ兵力を引き、バ・メール王国軍を包囲していた要塞からも撤兵していた。


 この報告を受けた時、エドゥアルドはまた、ムナール将軍が偽装を行っているのではないかと懸念けねんした。

 サーベト帝国との戦争のために全神経を集中していたとはいえ、数か月間もその動向をエドゥアルドたちにつかませなかったように、ムナール将軍は巧みにその行動と意図を隠しているのではないかと思ったのだ。


 しかし、続報が入ってくると、エドゥアルドは少し安心することができた。


 どうやら、共和国軍は本当に休息しているようだった。

 というのは、すでに一昨年のこととなりつつある、タウゼント帝国とバ・メール王国の侵略以来、共和国軍は動員体制を解除することができず、常に臨戦態勢にあったからだ。


 バ・メール王国軍を包囲して、撃滅するか降伏するかさせるために、アルエット共和国は軍を動員状態において大軍を活動させ続けてきた。

 そのために兵も民衆も疲弊し、厭戦えんせん機運が高まりつつあったのだ。


 その人々の不満は、政府よりも、軍の指導者であるムナール将軍へと向きつつあった。

 ラパン・トルチェの会戦で大勝利をもたらした[英雄]ではあったが、その功績も、民衆が直面している戦争疲弊を前にすればかすむようだった。


 ムナール将軍が突如南へと転進したのは、民衆から不満の矛先を向けられ始めたからであったようだった。


 このままバ・メール王国軍と対峙していても、相手が兵力不足から決して要塞から打って出て来ない以上、早期の決着はつかない。

 ならば、南のフルゴル王国へと転進し、同国をアルエット共和国の支配下に入れてしまう。

 それは要塞を陥落させるよりも短期間できるように思われ、事実、ムナール将軍はそれを短期間で成しとげた。


 こうしてムナール将軍は、再び[英雄]としてアルエット共和国の民衆に歓迎され、栄誉と共に凱旋がいせんした。


 新たにフルゴル王国の王となったリカルド4世は、民衆の憎悪を一身に集めて処刑されたアルエット共和国の王家に連なる、民衆にとっての憎むべき相手であるはずだった。

 しかし民衆にとっては、アルエット共和国が大勝利をおさめ、フルゴル王国がその影響下に置かれ[属国]となったことの方が重要であったらしい。


 そうしてアルエット共和国の後背を固め、自身の名誉と人気も回復したムナール将軍は、軍を休ませることとした。

 すでに兵役期間を終えていた者は故郷へと帰してやり、残った軍隊も戦地には送り込まず、これまでの労苦をねぎらっているようだった。


つまり、アルエット共和国軍もその限界に達しようとしていたのだ。

 長年続いた戦乱による疲弊に耐えかね、兵士たちはその士気を衰えさせ、民衆は戦火を嫌っていた。


 これ以上の作戦は不可能だと判断したムナール将軍は、然るべき[キリ]をつけるために、フルゴル王国へと転進して鮮やかに成果をあげたのだ。


 そういった事情がわかってくると、バ・メール王国に派遣していた義勇軍を解散させ、それぞれの故国に帰国させようかという話も持ち上がってきていた。

 元々エドゥアルドの発案に賛同したタウゼント帝国の諸侯の有志によって結成され、バ・メール王国へと派遣されていた10000名の義勇軍だったが、その義勇軍を派遣し続けていることは諸侯にとってそれなりに負担であった。


 食料など、物資はバ・メール王国がかなりの部分を負担してくれてはいたものの、諸侯からまったくなにも出さないというわけではなかったし、なにより[人]そのものが派遣されているということが問題だった。


 貴族たちにとってはともかく、平民からすれば、バ・メール王国のことなど[他人事]に過ぎないことだった。

 一部には、エドゥアルドと論戦を戦わせた者たちのように、その能力と熱意を持って大局を考えている平民たちもいたが、多くの平民たちにとっては、国家の命運よりも自分たちが平穏に暮らせることの方が大切だった。


 アルエット共和国の民衆が戦争をいとい始めていたように、義勇軍を派遣している諸侯の民衆も、もうこんな戦争は止めたい、これ以上の負担は嫌だと考え始めていたのだ。


 その思いは、存亡の危機に立たされていたバ・メール王国でも同様だった。

 バ・メール王国の国王、アンペール2世はアルエット共和国軍が後退したのを機会として自国の立て直しを図るべく、軍の動員を解除して休ませるのと同時に、戦争による消耗で衰弱している自国の経済を立て直すべく奔走ほんそうし始めていた。


 いわゆる、小康状態というものが訪れていた。


 それが、より強く恐ろしい嵐の前の静けさでしかないことを知っている者は多かったが、ひとまず、戦いは止んでいる。


 結局、エドゥアルドは他の諸侯たちからの要望もあり、バ・メール王国へと派遣していた義勇軍を解散させ、撤収させることを決めた。

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