第300話:「もどかしい時間」

 エドゥアルドは、アルエット共和国軍が転進し、フルゴル王国をその影響下に置いてしまったという出来事が起こっているということを、これまで気づけずにいた。


 エドゥアルドだけではない。

 タウゼント帝国のすべての者たちが、これほどの大事件を知らず、今まで気づかなかったのだ。


 1つには、ムナール将軍が転進するのにあたって工夫を行い、主力軍がバ・メール王国との戦線から去った、という事実をうまく隠していたという理由がある。

 このために、そもそも共和国軍と対峙していたバ・メール王国軍も、そこに参加していたタウゼント帝国からの義勇軍も、ムナール将軍とその主力が遠く、南へと去ったことに気づかなかった。


 そして、理由はもう1つある。

 それはエドゥアルドたちがタウゼント帝国領の南側でサーベト帝国軍と対峙し、長期にわたって対陣し続けていたためだった。


 エドゥアルドたちの活躍によってタウゼント帝国はサーベト帝国に対して決定的な勝利を得ることができたが、しかし、南方で続いた戦役はタウゼント帝国にとって間違いなく[危機]であった。


 サーベト帝国軍は、タウゼント帝国軍を上回る大軍。

 さらにタウゼント帝国は防衛する側で、もし敗北すれば、サーベト帝国によって大きく領土を削り取られかねないような状況だった。


 そのために、タウゼント帝国の諸侯の目は、アルエット共和国ではなくサーベト帝国へと向けられていたのだ。

 バ・メール王国とアルエット共和国との戦争は膠着こうちゃくした状態にあって、しばらくは動かないだろうと、みなが考えていたのだ。


 それは、あまりにも楽観的な先入観だった。


 自分たちが現状の危機を乗り越える間は、どうか、動かないでいて欲しい。

 その願望がタウゼント帝国の誰にも楽観的な予測を信じ込ませ、アルエット共和国が見せた大きな動きを見過ごし、数か月間も気づかないという醜態しゅうたいをさらしてしまったのだ。


 もっとも、これにはヴェストヘルゼン公爵・ベネディクトの責任も大きかった。


 タウゼント帝国の5つの被選帝侯は、それぞれ、帝国の要所を抑えるように配置されている。

 エドゥアルドのノルトハーフェン公国は北方の海からの玄関口の抑えとして。

 ユリウス公爵のオストヴィーゼ公国は帝国の東の守りを。

 フランツ公爵のズィンゲンガルテン公国は南ににらみをきかせる。

 そして、デニス公爵のアルトクローネ公国が、帝国の中央にあって四方の公国の結節点となり、帝国全土を結びつける。


 帝国の西の守り。

 アルエット共和国への抑えは、本来、ヴェストヘルゼン公爵・ベネディクトの役割であるはずだった。


 だからこそベネディクト公爵は南方戦役に本来の軍役よりもはるかに少ない軍勢で参陣することが許されていたのだ。


 アルエット共和国の情勢に探りを入れ、その行動に気を配っていなければならなかったはずのベネディクト公爵は、しかし、その役目よりもタウゼント帝国内での政争に注意を払っていた。

 次期皇帝をめぐる勢力争いで、最大のライバルであるフランツ公爵を蹴落とすチャンスに、ベネディクトは目がくらんだのだ。


 その結果が、数か月間もの間、アルエット共和国軍が転進したことに気づかず、フルゴル王国がその勢力下に入るのを阻止できなかったという、屈辱くつじょく的でさえある現状だった。


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(よくない状況になってしまった……)


 エドゥアルドはアルエット共和国の動向に十分に気を配っていなかった自分をそう情けなく思いながらも、アルエット共和国とフルゴル王国という2つの国家が結びついたことで誕生した新たな強敵にどう対処するかを考えなければならなかった。


 といっても、エドゥアルドに今すぐにできることはあまりない。


 なにかを考え、決定するためには、その基礎となるべき情報が必要だ。

 しかし、最速の通信手段が馬や船舶といった現状では、その情報を得るのにも時間がかかる。

 慌てて情報を集めようと思っても、すぐには情報を得ることができないのだ。


 だからエドゥアルドは、待つしかなかった。

 そしてその待っている時間は、あまりにももどかしい時間だった。


(ああ、僕は、こんなのばかりだ……)


 自身の執務室でじっとしていられず、部屋の隅から隅まで行ったり来たりしながら、エドゥアルドはこのもどかしい気持ちをこれまでも味わってきたことを思い出していた。


 最近では、南方戦役へ従軍した時がそうだ。

 次期皇帝位をめぐる政争を優先し、サーベト帝国軍の包囲下で苦しい日々を送る民衆をかえりみないタウゼント帝国の諸侯に対して、エドゥアルドはずっともどかしい思いを抱いていた。


 しかし、今回のもどかしさは、それ以上だ。

 アルエット共和国軍が転進し、フルゴル王国に向かったという事実を、数か月も気づかないでいたという失態が、エドゥアルドのもどかしさを増長させていた。


 執務室を意味もなく何度もいったり来たりしているエドゥアルドのことを、メイドのルーシェは不安そうに見つめている。

 エドゥアルドの側近くに仕えるようになって何年も経ったが、これほど焦燥感に焦がれているエドゥアルドの姿を見たことがないのだ。


 エドゥアルドの気持ちを晴らすために、なにか、はげますようなことが言えればいいのに。

 ルーシェはそう思いはしていたものの、どんな言葉をかければよいのかもわからず、エドゥアルドの姿をじっと見つめていることしかできない。


 なんだか、気まずい雰囲気だった。

 別にエドゥアルドとルーシェがケンカをしたとか、そういうわけではなかったのだが、2人がいる執務室にはどこかぴりぴりとした空気が漂い、とても居づらく感じる。


 そんな執務室の扉がノックされたのは、エドゥアルドが数十回目の往復を終えてようやく、いらだたしげにイスに腰かけ、その様子にルーシェがほんの少しだけほっとしていた時のことだった。

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