第290話:「帰国:1」

 皇帝・カール11世からヴィルヘルムへとてられた手紙をたずさえて、侍従長が人目を忍んでたずねてきたその翌日。


 そんなことが起こったことなど少しも知らないまま、エドゥアルドたちノルトハーフェン公国軍は帰国するために帝都・トローンシュタットを出発した。


 その陣容は、南へ、ズィンゲンガルテン公国を救援するために出発した時よりも、目に見える形で減少している。

 多くの諸侯が日和見を決め込む中、ヴェーゼンシュタットで過酷な籠城戦に耐えていた人々を救うためにサーベト帝国軍との戦いの矢面に立った結果、ノルトハーフェン公国軍には少なくない犠牲が出ていたからだ。


 その損失は、死傷3000名を超える。

 エドゥアルドが率いて出撃したノルトハーフェン公国軍15000名の内、20%以上もの損害を出したことになる数字だった。


 そして、その中の1000名は、戦死した。

 衛生組織を整え、将兵の迅速な治療体制を用意していたノルトハーフェン公国軍だったが、それで死亡率を抑えられはしたものの、それでも救えなかった命はこれほどの数にのぼるのだ。


 残りの2000名の負傷兵たちは、先にノルトハーフェン公国へと送り届けられている。

 まだまだ洗練される余地は大きいものの、ノルトハーフェン公国軍の衛生組織は機能し、負傷兵たちを療養させ回復させるために後方の専門的な軍病院へと送り出していた。


 出征する時と比較してその陣容は明らかに減ってはいたものの、ノルトハーフェン公国軍の将兵の表情はみな、明るかった。

 なぜなら彼らは勝利の栄光を手にし、生き残って、堂々と故郷へと帰ることができるからだ。


 兵士たちの頭の中にあるのは、なつかしい故郷の景色や、人々。

 そして、この戦いであげた功績によってもたらされる、昇進や褒賞ほうしょう、そして帝都・トローンシュタットで受けたような賞賛しょうさんと歓迎のことだった。


 ノルトハーフェン公国では宰相・エーアリヒの手配によって、帰国するエドゥアルドたちを出迎える準備が進められている。

 出征した兵士たちの家族に対し、兵士たちがいつ帰って来るのかを連絡し、ノルトハーフェン公国の首都・ポリティークシュタットで出迎えることができるように手配していたし、兵士たちに与える休暇や昇進、褒賞ほうしょうの用意も進めている。


 帰ればきっと、エドゥアルドが決裁せねばならないことが山のようにあるだろう。

 多くのことはエーアリヒがうまく処理してくれてはいるだろうが、あくまでそれは宰相として、エドゥアルドの[代理]として行っているのに過ぎず、なにごともエドゥアルドの承認を受けなければならないからだ。


 エドゥアルドがやらなければならないことは、山ほどあるだろう。

 しかしエドゥアルドの表情は、他の将兵と同じように明るい。


 忙しいのはエドゥアルドが望んでやっていることだったし、エドゥアルドも、住み慣れたヴァイスシュネーに帰ることができるのは嬉しかったのだ。


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 エドゥアルドのメイド、ルーシェにとっても、ノルトハーフェン公国に帰ることができるのは嬉しいことだった。

 タウゼント帝国の最北にあり、冬になれば流氷が漂うようなフリーレン海に面しているノルトハーフェン公国はすでに本格的な冬を迎えており、どこも雪景色で、とても寒かったが、それでもそこにルーシェにとっての暖かな家族が待っているからだ。


 犬のカイと、猫のオスカー。

 ルーシェがメイドになる以前、港町のノルトハーフェンのスラム街でその日暮らしの貧しい生活をしていたころからの、大切な家族。


 その2匹は、ルーシェのことを暖かく迎え入れてくれるのに違いない。

 ルーシェは、そう信じていた。


 カイはきっとルーシェの姿を見れば喜んで、はち切れんばかりに尻尾を振りながらルーシェに飛びついてきてぺろぺろとルーシェの顔をなめ回すのに違いないし、猫のオスカーはカイよりもひかえめながらも、ルーシェにすりよって甘えて来てくれるのに違いない。


 しかし、実際にルーシェが2匹と再会した時、2匹の反応はルーシェの期待とは大きく違ったものだった。


「たっだいまー!


 長い間ほったらかしにして、ごめんねーっ! 」


 ルーシェがそう明るく言い放ちながら自室の扉を久しぶりに開いた時、カイもオスカーもそこにいた。

 ルーシェのいないベッドの上で退屈そうに、そして少し寒いのか2匹でよりそって丸まっていた。


 ルーシェのことに気づけば、すぐに起きて、駆けよってくる。

 そうなるだろうと思ってルーシェは嬉しそうな笑顔を浮かべながら、2匹を迎え入れるように両手を差し出していたのだが。


 カイも、オスカーも、なんの反応も示さない。

 それどころか、「ルーシェのことなんて、知らないよ」とでも言いたそうな様子で、ツンとそっぽを向けている。


「あっ、あれれーっ? カイ、オスカー?


 私、帰って来たんだよー? 」


 予想もしていなかったその2匹の反応に、ルーシェは少し焦る。

 確かにずいぶん長い間離れ離れにはなっていたが、まさか、自分のことを2匹が忘れてしまったのではないかと、そう心配になってきてしまったのだ。


「ほ、ほーら、カイ~?

 お土産の、ソーセージだよ~?

 オスカーの分も、あるんだよ~? 」


 ルーシェはそう言いながら、スカートのポケットに入れておいた、紙に包まれたソーセージを取り出す。

 カイとオスカーに留守番をしていたご褒美をあげたいと、エドゥアルドに許可をもらって食糧庫から持ってきた、オストヴィーゼ公国産の最上級のソーセージだ。


 そのルーシェの言葉と、おそらくは匂いで敏感にソーセージの存在を察知したのだろう。

 カイが、耳をピクリと動かした。

 ソーセージが大好物なのだ。


 しかし、そんなカイのことをオスカーがジロリ、とひと睨みすると、カイはまた身動きをしなくなる。


 どうやら2匹は、ルーシェが帰って来たことに気づいているし、ルーシェのこともきちんと覚えているらしい。

 しかし、すねているのだ。

 ズィンゲンガルテン公国の救援のための出征で、敵地につけばすぐに戦闘が始まって、短期間で帰って来ることができると思ってカイとオスカーを連れて行かなかったのに、何か月もかかってしまってその間ずっと留守番をさせられたことに対して、2匹はすっかりふてくされている様子だった。


「ね、ねーっ? ねーってばー。


 置いて行ったのは、私が悪かったよ~。

 だからさ~、ほら、機嫌、なおして~? 」


 久しぶりに2匹の体温に触れたい。

 その一心で、ルーシェはなんとか2匹の機嫌をとろうと猫なで声ですりよって行くのだが、ルーシェに対する不満を体現したまま、2匹は微動もしない。


 結局、カイとオスカーに機嫌を直してもらうまでに、小一時間もかかってしまった。

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