第286話:「夜中の来客:1」
ヴィルヘルム・プロフェート。
若きノルトハーフェン公爵、エドゥアルドの最良の助言者。
今となっては昔のことだが、彼は元々、ノルトハーフェン公爵位の
家庭教師という名目で、エドゥアルドの行動を監視し、
だが、ヴィルヘルムはいつの間にか、エドゥアルドの側についていた。
それだけではなく、適時に的確な助言を実施し、エドゥアルドがノルトハーフェン公爵としての実権を奪還するために大きな功績をあげた。
それ以来、ヴィルヘルムはエドゥアルドの助言者として、忠実に働いている。
その表情は常に仮面のような柔和な笑みで、ヴィルヘルムがその内心を明かすことはなかったが、その行動を見れば、エドゥアルドに対して誠実であると言わざるを得ない。
だが、ノルトハーフェン公爵家のメイド、シャルロッテ・フォン・クライスに言わせれば、やはりヴィルヘルムという人物は[うさん臭い]人物でしかない。
シャルロッテの生家、先代の当主が戦死したことで実質的に断絶状態にあるクライス家は、代々、ノルトハーフェン公爵家の諜報を支えてきた一族だった。
情報収集、分析をはじめ、
そのクライス家の[ノウハウ]を、シャルロッテは引き継いでいる。
元々一族の役割を引き継ぐ当主として育てられていたわけではなかったため、すべてではないが、シャルロッテはクライス家が握っていた情報網や特殊技能、たとえばエドゥアルドの身辺警護のために役立った体術やナイフ術などの戦闘技能、秘密を握っている相手にその秘密を[聞き出す]技術などを継承している。
エドゥアルドの近くにいさせる以上、ヴィルヘルムを[素性の知れない人物]でい続けさせることはできない。
エドゥアルドを守るために、シャルロッテはこれまでずっと、ヴィルヘルムの素性を暴くために手をつくして来た。
断じて、過去にヴィルヘルムと対決し、シャルロッテが負けてしまったからではない。
あくまでエドゥアルドの安全を確保し、ヴィルヘルムが本当に信用できる人物であるという確証を得るための調査だった。
しかし、シャルロッテはヴィルヘルムの正体をつかむことができていない。
過去に、帝国でその名を知られた名門の大学で、優秀な成績をおさめて卒業したことまでは、調べがついている。
だが、そこからさらにさかのぼった経歴については、まったくわからないでいる。
大学を卒業するためには、多額の資金が必要だった。
そしてそういった資金を用意できるのは、貴族や一部の金持ちだけだ。
だから大学を出ているというだけで調査対象をずいぶんと調べることができ、ヴィルヘルムの素性など簡単に判明させることができるはずなのだが、それができない。
ヴィルヘルムの過去は、大学に入った時点から急に追いかけることができなくなってしまう。
ヴィルヘルムの過去が、調べても、調べても、判然としない。
そのことがシャルロッテをいら立たせていた。
過去を消す。
それは、並大抵のことでは実現できない行為だった。
それなのにヴィルヘルムの過去はきれいに消されている。
ヴィルヘルムがよほど上手に過去を消すような工作をしたのか、あるいは、それとは別の、もっと大きな力が働いているのか。
もしくは、その両方か。
ヴィルヘルムを雇い、スパイとして送り込んできたノルトハーフェン公国の宰相、エーアリヒ準伯爵に問えば、答えてもらえるかもしれない。
しかし、シャルロッテが行っているのは、私的な調査に過ぎない。
エドゥアルドはヴィルヘルムのことを信用するとすでに決めてしまっており、彼の素性をあらためて明らかにする必要性を感じていないようだった。
だからヴィルヘルムについての調査を続けているのは、あくまでシャルロッテの[興味]からでしかなく、そんな私的なことのために小なりとはいえ一国の重鎮の手間を取らせるわけにはいかなかった。
推論だけでは行き詰まり、証拠は途絶え、シャルロッテは
そんな思いを抱えたままのシャルロッテは、
いよいよ我慢できなくなって、直接ヴィルヘルムを問いただそうとしているわけではない。
シャルロットとしては、自身が継承した[特殊技能]の限りを尽くしてヴィルヘルムの口を割らせ、その顔に柔和な笑み以外の表情を浮かべさせてみたいという気持ちがあったが、それはエドゥアルドの命令でもない限り実行しないことに決めている。
もう、かなり遅い時間だ。
ヴィルヘルムはもちろん、エドゥアルドのも、他のみなも、眠っているはずの時間だ。
なぜなら、ノルトハーフェン公国軍は明日、祖国へ向けて帰国することとなっているからだ。
皇帝・カール11世は、ヴェーゼンシュタットの解放のために功績があったノルトハーフェン公国軍に、帝都で数日間滞在し、休養し帝都での観光を楽しんでから帰国するようにと命じた。
その費用はもちろん、カール11世が拠出してくれた。
そのおかげで、兵士たちは心おきなく帝都を観光し、飲んで食べて、勝利の美酒に酔いしれることができた。
いくら不満のある相手とはいえ、明日になればノルトハーフェン公国に向けて出発しなければならないヴィルヘルムを、こんな夜中に起こすようなことは、シャルロッテはするつもりはなかった。
しかしシャルロッテがこうしてヴィルヘルムの部屋へと向かっているのは、夜の番をするために起きていたシャルロッテのところにとある人物がたずねて来て、ヴィルヘルムだけを、それもこっそりと呼び出して欲しいと頼まれたからだった。
普通は、そんなふうに頼まれたからと言ってヴィルヘルムを起こしに行くことはしない。
緊急の用件でもない限りは、寝ている人間をわざわざ叩き起こすようなことをシャルロッテはしない。
だが、夜中の来客に応対したシャルロッテは、その頼みごとを引き受けるしかなかった。
なぜなら、その来客の顔を、シャルロッテは知っていたからだ。
それは、タウゼント帝国の皇帝・カール11世に仕える、侍従長だったのだ。
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