第285話:「光と影:3」

 ルーシェは、少し困ってしまった。

 思い切ってエドゥアルドに声をかけてみてはいいものの、その用件はすでに済んでしまったからだ。


 もちろん、そんなことをエドゥアルドは知りようもない。


「どうしたんだ? ルーシェ」


 エドゥアルドはルーシェの方を振り返ったまま、ルーシェに言いたいことは言っていいのだと安心させるような穏やかな笑みを向け続けている。


 ルーシェは、かすかな胸の苦しさを覚えた。

 それは、辛いとか、恐ろしいとか、そんな負の感覚ではなく、嬉しい、心地よい、そんな感覚から来る苦しさだった。


 エドゥアルドは、あれだけ華やかな勝利という栄光をその身に受けても、変わらなかった。

 平民たちを、ルーシェのことを、きちんと見てくれる、[良き公爵]であろうとし続けてくれている。


 そんなエドゥアルドが、ルーシェの言葉を待っている。


(なにかを、言わなくちゃ……)


 なんでもない、で済ませてしまえば簡単だった。

 だがルーシェは、エドゥアルドが自分に言葉を向けてくれる時間を、少しでもたくさん欲しいと思っている。


「あの……、エドゥアルドさま。


 実は私、ちょっとだけ、不安になっちゃっていたんです」


 ルーシェは、シャルロッテやヴィルヘルムの教育をよく自分のモノとして身につけてきた、賢い少女だったが

 だが、こんな時にとっさに思っている以外のことでさりげなく会話を続けられるような、狡猾こうかつさまでは身につけていない。


 だからルーシェは、自分の思っていることを、エドゥアルドに素直にぶつけるしかなかった。


「不安って、なんだ?

 大丈夫、僕たちは戦争に勝って、こうして生きている。


 お前だって、僕たちの凱旋がいせん式は、見てくれたんだろう? 」


「はい……。


 とっても、にぎやかで、きれいで……、エドゥアルドさまたちも、他の兵隊さんたちも、とっても、ご立派でした」


 ルーシェはこくん、とうなずいてみせると、それから、伏し目がちにエドゥアルドのことを見つめる。


「でも、ルーが、私が不安になっちゃったのは……、その、エドゥアルドさまたちの立派な姿を見てしまったからなんです」


凱旋がいせん式が、どうかしたのか? 」


 ルーシェの言葉に、エドゥアルドは怪訝けげんそうに首をかしげる。

 盛大に執り行われ、多くの民衆の賞賛の言葉を浴びながら行進して来たエドゥアルドからすれば、あの光景の中に不安を覚えるような要素など思い当たらないのだ。


凱旋がいせん式は、とても、素敵でした。

 エドゥアルド様も兵隊さんたちも、凛々しくて。

 街の人たちもみんな、エドゥアルドさまたちのことをめていて、ルーも、とっても嬉しかったんです。


 だけれど、凱旋がいせん式は、とっても、眩しい……。

 ルーは、その眩しさでエドゥアルドさまがの目がくらんでしまうんじゃないかって、そう思ったんです」


「僕の、目がくらむ? 」


「はいです。


 エドゥアルドさまが、私たちのことなんて……、ルーや、平民のことなんて、見えなくなってしまわれるんじゃないかって」


 ルーシェのその言葉に、エドゥアルドは最初、きょとんとした顔をしていた。

 凱旋がいせん式の光景を目にしてそんな心配をされるなんて、予想もしていなかったのだろう。


 だが、ほんの少しすると、エドゥアルドは心底愉快そうに、笑いだす。


「あっはっはっ! ルーシェ、そんなことを心配していたのか! 」


 それからエドゥアルドは、すっ、とルーシェの方に手をのばしてくる。

 そしてその手は、ルーシェの黒い前髪を、やさしくなでてくれる。


(あっ……)


 そのエドゥアルドの仕草に、ルーシェは一瞬だけ、ピクリと身体を震わせる。


 エドゥアルドにさわられるのが、嫌だったわけではない。

 むしろ、ルーシェはさっき感じた嬉しさと心地よさのある胸の苦しさをより強く感じている。


 もっと、エドゥアルドにふれられていたい。

 ルーシェはただそう願わずにはいられなかったし、大人しく、エドゥアルドの手に自身を委ねるだけだった。


 だが、エドゥアルドは公爵で、ルーシェは、ただのルーシェでしかなかった。

 そんな自分がエドゥアルドにふれてもいいのだろうかと、そんな風にルーシェは思ってしまったのだ。


「大丈夫だ、ルーシェ。大丈夫だ」


 少し鼓動が早くなって、顔の血の巡りがよくなっていることを自覚していたルーシェに、エドゥアルドは穏やかな声で、言い聞かせるような声で言う。


 それはもちろん、ルーシェに向けられている言葉だった。

 だが、同時に、エドゥアルド自身にも向けられているような、そんな印象のする言葉だった。


「僕は、お前たちを……、平民たちのことを、決して忘れたりはしない。

 僕は、他の諸侯のような、政争のために、自身の思惑のために、民衆を犠牲にするような公爵には、ならない……」


 エドゥアルドはおそらく、そうして、自身の覚悟を再確認しているのだろう。


 それからエドゥアルドは、ルーシェからそっと手を離すと、ニッ、と明るさと力強さを感じさせる笑みを浮かべて見せる。


「それでも、もしもまた、ルーシェが不安になったら。

 僕が、お前や、平民たちのことを顧みない君主になってしまったと、そう感じたら。


 その時はまた、ルーシェ、お前が僕にそのことを教えて欲しい。

 僕のことを、これからも支えて、見ていて欲しい」


「エドゥアルドさま……」


 エドゥアルドの手が離れて行ってしまったことは、少し、寂しい。

 だがルーシェは、エドゥアルドのその言葉で自身の身体の奥底がじんわりと暖かくなり、無限にも思えるようなパワーが湧いてくるような感覚を覚えていた。


 だからルーシェは、エドゥアルドに満面の、これ以上ないほど元気な笑みを浮かべてうなずいてみせる。


「はい!


 お任せくださいませ、エドゥアルドさま!

 メイドのルーシェ、一生懸命、お仕えしますから! 」

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