第284話:「光と影:2」

 エドゥアルドが帰って来たのは、時計の針が9時半を回ったころのことだった。


「おかえりなさいませ、エドゥアルドさま」


 かちゃり、と扉のノブが回される音に気づいてすっと立ち上がったルーシェは、部屋の中に入ってくるエドゥアルドの姿を見ると、嬉しそうな微笑みを浮かべながら一礼してエドゥアルドを出迎えた。


「ああ、ルーシェ、戻ったぞ。


 さっそくで悪いが、コーヒーを頼む。

 後の着替えは自分でするから。外はけっこう、寒くって」


 そんなルーシェの姿を見てどこか安心したような表情を浮かべたエドゥアルドは、ルーシェにコートを脱ぐのを手伝ってもらいながらそう命じる。


「かしこまりました。すぐにご用意いたしますね」


 ルーシェはエドゥアルドにうなずき、預かったコートを手早く丁寧にハンガーにかけてコートラックに吊るすと、音を立てないように静かに、だが素早く、コーヒーを準備するために部屋の外に出て行った。


 エドゥアルドのためにコーヒーを用意するのは、もう、すっかりと手慣れている。

 事前に準備もしておいたから、ルーシェはさっとコーヒーの準備を済ませることができた。


 ルーシェはいろいろな味わいのコーヒーを用意できるようになり、エドゥアルドのその日の気分を推察して出しわけるようにしていたが、今日のコーヒーは、[いつもの味]にした。

 エドゥアルドがもっとも好み、飲みなれている、ルーシェが最初にいれかたを身に着けたコーヒーの味だ。


 というのは、今日のエドゥアルドは少し疲れている様子で、ゆったりと落ち着いた時間を過ごしたがっているように思えたからだ。


(昼はパレード、夜はパーティ……、とても、お疲れのはずです)


 ルーシェは、貴族にとってのパーティがただご馳走ちそうを楽しむようなものではなく、社交の場であり、政治的な駆け引きさえも行われる場だということを知っている。


 そして、ルーシェの思った通りだった。

 コーヒーの準備を終えて戻ってくるころにはすでに楽な部屋着に着替えていたエドゥアルドにルーシェがコーヒーをついでやると、それを口にしたエドゥアルドは、ソファに深く腰かけながら、しみじみとした様子でルーシェのコーヒーを味わった。


「ああ、美味しい……」


 そして、心からの言葉がれる。


 その言葉に、ルーシェは思わずぴょんぴょん飛び跳ねたくなるほどの嬉しさを覚えたが、公爵家のメイドとしての姿を守るべくぐっと抑え、エドゥアルドが脱いだ衣装を後で洗濯するために手早くまとめた。


 それからの2人は、特に会話もなく、しばらくの間静かな、無言の時間を過ごした。

 エドゥアルドはソファに身体をあずけ、コーヒーをゆったりと楽しみ、ルーシェはエドゥアルドのコーヒーカップが空になるとそっとお代わりをついでやる。


 ただ、それだけの時間。

 だが、どこか暖かい時間。


 しばらくの間、部屋の中はチックタックと時を刻む時計の音と、エドゥアルドがコーヒーをすする音だけに支配される。


 それは心地よい時間だった。


「エドゥアルドさま。

 あまりお代わりをされますと、寝つけなくなってしまうのではないですか? 」


 エドゥアルドが自分の用意したコーヒーを美味しそうに飲んでくれている。

 それだけでルーシェは幸せで、ずっとこうしていたいとさえ思っていたが、しかし、忠実なメイドとしてはそう警告しなければならなかった。


「ああ、そうだな……。

 このくらいにしておこうか」


 そのルーシェの忠告に、エドゥアルドは従った。

 やはり疲れているのか、ぐっすりと眠りたいようだ。


「だいぶ、お疲れのご様子ですね? 」


 ルーシェはコーヒーセットを片づけながら、エドゥアルドを気づかった。


「ああ、まぁな。

 昼はパレード、夜はパーティ。

 メイドの仕事ほどではないかもしれないが、かなり、疲れた。


 けれど、悪くない疲れだよ」


 エドゥアルドはルーシェの方を振り返らないまま、ソファの背もたれに頭をあずけて天井を見上げ、双眸そうぼうを閉じながらこたえる。


「だって、これは、勝利したからこそ、体験できたことなんだ。

 それは大きな価値があることだって、そう信じられるようなことなんだ」


 そのエドゥアルドのなにげないセリフに、ルーシェはピクリと肩を震わせ、一瞬だけ不安の表情を浮かべる。


 エドゥアルドに限って、そんなことはあり得ない。

 そう信じてはいるものの、ルーシェは、エドゥアルドもまた、あの勝利のまばゆい輝きに目をくらませてしまったのではないかと、そう心配になってしまう。


「あの……、エドゥアルドさま」


 コーヒーセットをまとめ終えたルーシェは、しかし、それを片づけに運び出そうとする手を止め、エドゥアルドの方を振り返ると、おずおずとした様子で声をかける。


 その声がきっと、真剣で、そして不安に揺れ動いていたからだろう。


「どうした? ルーシェ」


 エドゥアルドはルーシェの方を振り返ると、小さく首をかしげて、続きをうながしてくれる。


 その様子にルーシェは、嬉しさと安心感を覚えていた。


(ああ……、エドゥアルドさまは、私の声を聞いてくださる)


 スラムで育った、誰が父親なのかも知れない自分。

 1人のメイドでしかないはずの、なにも特別なことなどないはずの自分。


 そんなルーシェの言葉でも、エドゥアルドはきちんと聞こうとしてくれる。

 それはエドゥアルドが、勝利のまばゆい輝きに目をくらませることなく、ルーシェのような、貴族にとっては取るに足らないはずの平民にもきちんと目を向け続けてくれていることの証明であるようにルーシェには思えた。

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