第283話:「光と影:1」

 部屋の壁にかけられた時計が、チックタックと、時を刻んでいる。

 時計からぶら下がった振り子が左右に動くたびに秒針が進み、止まることなく流れ続ける時間の進みを、ルーシェに教えてくれる。


 そこは、帝都・トローンシュタットの一画。

 エドゥアルドのために用意された宿泊所の部屋の中だった。


 ノルトハーフェン公国では、エドゥアルドに仕えている貴族たちはみな、自身の領地ではなく、公爵の居館が置かれているポリティークシュタットに屋敷を作り、そこに住んでいる。

 なぜなら、ノルトハーフェン公国ではずっと以前から中央集権的な権力が確立されており、家臣はその領地から切り離されて、主君のためにいつでも働くことができるように近くに住むことを求められるようになっているからだ。


 かつては、そうではなかった。

 公爵家に仕える貴族たちは自身の領地に屋敷を持っていてそこで暮らし、公爵からの要請があれば出向いてくるというような形を取っていた。


 それぞれの領主は自身の領地と強く結びついており、君主の呼び出しがあっても、それが気に入らなければ出向かないこともあったし、時には自身の兵権を用いて逆らうことさえあった。

 しかし、それでは公爵の統治はやりにくいし、臣下が、その自身の兵力と密接に結びついている状態は危険でさえあった。


 だから歴代の公爵たちは腐心しながら徐々に中央集権化を推し進め、家臣たちをそれぞれの領地から切り離していたのだ。


 だが、タウゼント帝国全体でとなると、そういったことはできていなかった。

 帝国を構成する諸侯はみな自らの領地に住み、帝都には屋敷など持たず、皇帝に呼ばれた時や用事がある時だけ参上するようになっている。

 そのため、諸侯はトローンシュタットを訪れるたび、適時に宿泊所を確保しなければならなかった。


 タウゼント帝国では諸侯の自治権が強く、皇帝は絶対の権力を得てはいないからだった。


 今、ルーシェがエドゥアルドの帰りを待っているこの部屋も、エドゥアルドが凱旋(がいせん)式と戦勝パーティに出席するために用意されたものだった。

 サーベト帝国との戦争に出陣する際にもエドゥアルドはトローンシュタットに滞在したが、その時とは違う部屋になっている。


 帝都を訪れる上流階級向けに作られたホテルの一室で、最上級の豪華な部屋だ。

 壁は下側が木で作られ、上側は漆喰しっくいで丁寧にしあげられ、随所に細やかな細工が施されている。

 床はきれいに磨かれた床板でおおわれていて、顔を近づければ、自分の顔が映るほどだ。


 家具ももちろん、充実している。

 ソファやイス、テーブルなどは何セットも用意されていたし、棚もたくさんあって収納に困るようなことはなく、ベッドも広々としていて、ふかふかしていてで快適そうだった。

 しかも、壁には著名な画家が描いた高価な絵画が何枚も飾られ、足元には美しく複雑な模様が描かれた厚い絨毯じゅうたんさえしかれている。


 明かりも、最新式だ。

 オイル式のランプよりもさらに新しい、ガス灯が使われていて、古い蝋燭ろうそくの照明はどこにもない。

 そして、部屋の中に別の部屋があるほど、広々としているのだ。


 公爵家の、エドゥアルドのメイドとなる以前のルーシェが見たら、驚きのあまり眩暈めまいがしたことだろう。


 その部屋で、ルーシェは1人で待っている。


「エドゥアルドさま、遅いなぁ……」


 いつでもエドゥアルドを出迎えられるように、部屋の入り口に一番近いイスに腰かけながらつぶやいたルーシェの言葉は、誰もいない部屋の中に溶けるように消えて行った。


 遅くなるとは、事前に聞いている。

 だから時計の針が夜の9時を回っても少しも驚くようなことではないのだが、広い部屋に1人で待っていると、段々と孤独感に包まれてくる。


「カイと、オスカーがいてくれたらなぁ……」


 そうしたらきっと、退屈などしないのにと思う。


 今回の出征に、ルーシェはカイとオスカーを連れてこなかった。

 こんなに対陣が長引くとは考えていなかったから、2匹には安全なヴァイスシュネーで留守番をしてもらっていたのだ。


 すぐに帰れるだろうと思っていた。

 せいぜい1か月くらいだろうと考えていたのだが、結局その何倍もの時間がかかってしまった。


 こんなことなら、連れて来ればよかった。

 そうすれば寂しい思いをしなくて済んだのに、と、ルーシェは少しだけ後悔している。


 そして、1人で孤独にしていると、ルーシェの脳裏にはどうしても、今回の戦争のことが浮かんできてしまう。


 長く続いた対陣と、戦いで傷つき、倒れて行った大勢の兵士たち。

 何人もの兵士たちの治療をルーシェは手伝ったが、その兵士たちの苦しむ様子、痛みにうめく声や悲鳴が、ルーシェの脳裏から離れない。


 戦争の陰惨な光景が、今回の戦争についての、もっとも強烈な記憶だった。


 しかし、エドゥアルドが参加し、ルーシェも建物の窓から見物した凱旋(がいせん)式は、そんな戦争の陰惨さなど少しも感じさせないものだった。


 通りは大勢の人々で埋め尽くされ、その人々から浴びせられる歓声の中を、軍装を整えた兵士たちが様々な楽器の音色に合わせて勇壮に行進していく。

 空からは絶え間なく色とりどりな紙吹雪が舞い落ち、兵士たちはみな誇りに満ちた表情で前を見つめ、観衆はその兵士たちの姿を目にして、その頼もしさに感心する。


 それは、戦争というものが持つ光と影の、光の部分だった。


 勝利と、栄光。

 見る者を興奮させ、熱狂させる力を持った、強烈な光。


 しかしルーシェは、その光の影で強烈な暗さを持つ影の部分にばかり意識が向いてしまう。


 光が強烈であればあるほど、生み出される影は濃くなると、そう聞いたことがある。

 確か、なにかの哲学の話だったと思う。


 そして、その通りだとルーシェは実感していた。

 昼に見た凱旋がいせん式の輝かしい栄光の光景の裏に、多くの兵士たちの犠牲、数えきれない民衆の犠牲があることを、ルーシェは知っているからだ。


だが、その勝利の栄光の光は、あまりに眩し過ぎて。

 それを目にした者に、その光に隠された濃い影があることを忘れさせてしまう。


(エドゥアルドさまは、大丈夫、ですよね……? )


 その光の中で、兵士たちと共に進むエドゥアルドの誇らしげな様子。

 その姿にルーシェは、エドゥアルドもまた、この勝利のまばゆい栄光に目をくらませてしまうのではないかと、かすかに不安を覚えていた。


 なぜなら、負傷した兵士たちを直接手当てしたルーシェでさえ、その勝利という光に照らされて、一瞬だけ影の存在を忘れそうになってしまったからだ。


 エドゥアルドなら、きっと、大丈夫。

 そう思いはするものの、1人きりで待ち続けているという寂しさもあって、ルーシェの思考は、段々と悲観的な方向に傾いて行ってしまった。

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