第243話:「お近づき:3」

 アリツィア王女からの、突然の要求。

 もう少しタイミングが早く、エドゥアルドがカップに残っていたコーヒーをギリギリ飲み干せていなければ、ちょっとした外交問題に発展しかねない事態が起こっていただろう。


「あっ、アリツィア王女?


 今、なんとおっしゃられましたか? 」


 なんとか平静をとりつくろってエドゥアルドがそうたずね返すと、アリツィアは真剣な表情でエドゥアルドを見つめ返す。


「そのコが、ルーシェが、欲しい」


 そう言うアリツィア王女の声も、真剣そのものだ。


「私はね、エドゥアルド公爵。

 そのコのいれてくれるコーヒーの味が、とても、そう、とても気に入ったんだ。


 残念ながら、この対陣は長くなりそうだからね。

 こんなに美味しいコーヒーが毎日、いつでも好きな時に飲めるというのなら、それはもう、素晴らしいことだと思うんだ。


 そういうわけで、エドゥアルド公爵。

そのコを、ルーシェを、私にゆずってはくれないだろうか? 」


 どうやら、本気で言っているらしい。

 エドゥアルドは驚きのあまり、とっさになにも言うことができずに、ポカンと口を半開きにしてしまっていた。


 ルーシェはというと、おもしろいくらいに慌てふためいている。

 内心はもうパニック状態で、本当は手足をジタバタさせてしまっているところなのだろうが、[自分は今、中身の入っているコーヒーポットを手に持っている]という自制心がギリギリのところで働いているらしい。


ルーシェはコーヒーポットからコーヒーをこぼさないようになんとか自制しつつも慌てふためいてジタバタとし、まるで、変な踊りでも踊っているようだった。


 いつもならルーシェの慌てぶりを見て笑ってしまうところだったが、今回ばかりはエドゥアルドも笑ってはいられない。


 ことは、ヘタをすると、国家間の外交問題にも発展しかねないことなのだ。


 エドゥアルドにとってルーシェはすでに、そこにいてくれて当然、いてもらえなければ困る、というほどの存在になっている。

 しかし、彼女の出自は、どこの馬の骨とも知れないスラム街出身の少女に過ぎず、今も、1人のメイドでしかない。


 エドゥアルドとルーシェは、雇用関係にある。

 エドゥアルドが雇い主で、ルーシェはエドゥアルドに雇われている。


 いくら近くに仕えていようとも、公式には、それ以上でも、それ以下でもない関係なのだ。


 そんなルーシェを、アリツィアは欲しいと言っている。

 一国の王女が、そう望んでいる。


 どういう理由で、その要求を断ればいいのか。

 ルーシェはただのメイドでしかなく、普通に考えれば、一国の王女の心象を害する危険を冒してまで保持しておく理由などない。


 エドゥアルドとしては、ルーシェをアリツィアに渡すつもりはなかった。

 そんなことは考えるまでもなく即答できることで、どんな事情があろうとも、この点でゆずるつもりにはなれないだろう。


 しかしエドゥアルドは、外交問題に発展しかねないという危険を冒すだけの理由を、アリツィアを確実に納得させられるだけの理由を、すぐには思いつくことができなかった。


「いや、それは……、困ります、アリツィア王女」


 やがてエドゥアルドは、なんとか、そう言葉を絞り出す。


 アリツィアもルーシェも、エドゥアルドがなんと言うのかを、注目して待っている。

 アリツィアはどこかいたずらっぽい笑みを浮かべながら悠然と、ルーシェはもう変な踊りを踊るのをやめて、ただ、祈るような真剣な表情で、エドゥアルドを見つめている。


 エドゥアルドは、必死に考える。


「その……、ルーシェは、僕の身の回りのことを、いつもしているメイドですから。

 必然的に、国家機密に類するような情報にも、多く触れているのです。


 ですから、いくら友邦の王族の方とはいえ、お渡しするわけには……」

「ほほう、それは、それは。


 なら、しかたない。

 あきらめるとするよ」


 すると、アリツィアはもっと粘るかと思われたのに、意外なほどあっさりと引き下がった。


 エドゥアルドもルーシェも、ほっと胸をなでおろす。

 相手は一国の王女でもあり、どうしても、と強く要望されたら、非常に断りづらかったのだ。


「いや、ごめん、ごめん。

 少し、おもしろそうだったから、2人をからかってみただけなんだ」


 そんなエドゥアルドとルーシェの様子を見ていたアリツィアは、また、楽しそうな笑みを浮かべると、くっくっ、と肩を震わせて笑いながら、2人にそう言って謝罪した。


 そのアリツィアの様子に、エドゥアルドとルーシェは互いを見つめ、笑みを浮かべる。

 からかわれたことに対する不満よりも、ルーシェがこのままエドゥアルドのメイドでいられることの方が嬉しかったからだ。


「でも、ルーシェのコーヒーの味が気に入ったっていうのは、本当だよ? 」


 そのエドゥアルドとルーシェの様子を見て、少し双眸(そうぼう)を細めて優しい表情を浮かべたアリツィアは、そう言ってカップに残っていたコーヒーを飲み干す。

 それから彼女は、「ごちそうさま」と言うと、カップをテーブルの上に戻し、優雅な仕草で立ち上がった。


「もう、お帰りに? 」


 そのアリツィアの様子に、自身も慌ててカップをテーブルの上に戻して立ち上がったエドゥアルドがそう確認すると、アリツィアはうなずいてみせる。


「実に、楽しいお茶会だった。

 コーヒーも美味しかったし、また、ぜひともお呼ばれしたいものだね」

「そういうことでしたら、いつでも。

 こちらからお声がけせずとも、アリツィア王女がお望みの時に、我が陣営をおたずねいただけましたなら、何杯でもごちそういたしましょう」


 満足している様子のアリツィアにエドゥアルドがそう言うと、ルーシェも慌てて、うんうんとうなずいてみせる。


「ああ、それは、ありがたい。


 私としても、エドゥアルド公爵と、そして、メイドのルーシェ。

 2人に個人的な興味もわいたからね。


 また、お邪魔させていただくよ」


 そんなエドゥアルドとルーシェの姿を交互に見た後、アリツィア王女はそう言って、少し意味深な微笑みを残して去って行った。

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