第219話:「衛生組織」
今回の出征には、ルーシェたちメイドたちにも最初から参加してもらい、負傷兵の救護を行ってもらう。
その決定は、エドゥアルドがルーシェに伝えた、兵士たちの士気の維持に効果があったから、という理由だけではなかった。
それは、ノルトハーフェン公国で新たに編制されつつある、徴兵制を利用した軍隊の創設と関係のあることなのだ。
古来、戦場における負傷者というのは、悲惨だった。
まともな治療のための人や設備の準備はなく、兵士たち同士での応急処置などを行うことも多く、戦傷を負った者の致死率は高く、回復は遅く、治療の質が悪いために後遺症が残る場合も多かった。
軍を指揮する諸侯はそれぞれに軍医を雇ったり、聖職者を雇ったりして、兵士たちの治療にあたらせはしたものの、それだけではすべての兵士たちに十分な治療を施すことなど不可能だった。
だが、これまでの戦争というのは、志願者たち、つまり傭兵によって行われるものだった。
いわば、戦場で戦死、あるいは戦傷するリスクを承知のうえで、金銭を目的に兵士となる者たちで戦争が行われており、衛生が整っていない状態で命を落とすことはある程度織り込み済みのことだったのだ。
しかし、エドゥアルドは徴兵制をノルトハーフェン公国に導入し、決して自ら進んで兵士になろうとは思ったことのない、一般の国民を戦場に動員しようとしている。
そんな状況で、戦場で兵士が傷つくのは当然だからといって、ロクに手当てもせずに放置などしたらどうなるか。
兵士たちの士気などあがるはずもなく、少し状況が不利になればすぐに兵士たちが逃げだしてしまうような、脆弱な軍隊ができあがってしまう。
だから、エドゥアルドは衛生という部分を十分に強化しなければならなかった。
これは、兵士たちが戦死、戦傷した場合に十分な補償を約束するということと合わせて実施が決められたことで、そのための衛生組織の素案も、参謀本部の主導で出来上がっている。
ノルトハーフェン公国軍の衛生組織は、主に次の3つの階層によって構成される。
第1の階層は、前線のすぐ後方で負傷兵たちに応急処置を施す包帯所。
第2の階層は、前線の後方にやや専門的な治療のための設備や短期間の入院に対応できる設備を有する、兵士たちに簡単な外科手術なども行える野戦病院。
そして第3の階層は、後方の、常設の病院などを利用し、兵士たちに本格的な手術を含む高度な治療を施し、長期の入院を可能にする兵站病院。
この3つの階層を持つ衛生組織を設立して運用することにより、ノルトハーフェン公国軍の戦死者を大幅に減らし、かつ、負傷を治療して戦線復帰、あるいは後遺症なく日常生活に戻れる兵士たちの割合を増やそうというのが、狙いだった。
ノルトハーフェン公国では元々、戦場で命を落とす兵士の数を減らそうという試みが行われて来た。
これは、先代の公爵、エドゥアルドの父親が命を失った際に、ノルトハーフェン公国軍全体でも大きな犠牲が生じたことからくる教訓だった。
このために、摂政として公国の権力を掌握し、統治を行っていたエーアリヒ準伯爵は、公国国内の軍病院を充実させ、戦時に動員できる軍医の数を確保し、兵士たちの長期的な医療体制を整えてきていた。
そういう下地があったから、新しい衛生組織を導入しようという試みも短期間で実現のめどが立ちつつある。
しかし、包帯所、野戦病院、兵站病院と、組織立てて兵士たちの衛生環境を向上させるためには、軍医たちがいるだけでは足りない。
軍医が施す治療を補助し、負傷兵たちを看護する者たちも大勢、必要になって来る。
そこで白羽の矢が立ったのが、ルーシェたちメイドをはじめとする、エドゥアルドに仕えている使用人たちだった。
なにしろ、彼女たちには実績がある。
アルエット共和国への侵攻戦争での決戦となったラパン・トルチェの会戦で帝国軍が大敗した時、彼女たちは大勢の負傷兵たちを救ったのだ。
ノルトハーフェン公国軍の兵士だけではなく、敗走する他の諸侯の軍勢から落後した負傷兵たち。
ルーシェたちは自分たちの身も危険であるにも関わらず、できるかぎりの治療を施し、多くの命を救った。
その行為は諸侯たちからも深く感謝され、エドゥアルドの帝国内での地位を高めるのにも、大きな貢献をしてもいる。
幸か不幸か、今回の戦争は、タウゼント帝国が外部からの侵略を受けたことに対する、防衛戦争だった。
アルエット共和国への侵略戦争のように、こちらから敵地に深く乗り込んでいかなければならない必要はない。
ノルトハーフェン公国軍の新しい衛生組織である、包帯所、野戦病院、兵站病院についても、タウゼント帝国内の、その運用に十分な支援を受けやすく、しかも安全性の高い場所に設置することができる。
つまり、ルーシェたちを連れて行ったとしても、アルエット共和国で経験したような困難には陥りづらいだろうという見込みがあった。
まして、今回の戦いは、長期戦になる可能性があった。
サーベト帝国軍はすでにズィンゲンガルテン公国の首府、ヴェーゼンシュタットを包囲下に置いている。
タウゼント帝国軍は軍勢を集めてこれを救援し、ヴェーゼンシュタットの包囲を解放しなければならなかったが、諸々の事情により、今回は10万程度の軍勢しか集めることができない。
対して、サーベト帝国軍は自称で40万、推測される実質は20万という大軍であり、タウゼント帝国軍が正面から決戦してこれを打ち破るには、工夫が必要だった。
勝機が訪れるまで長期戦となり、その間に小競り合いなどで負傷者が増える可能性があり、そんな状況を考えると、ルーシェたちに衛生面で支援してもらえることは有意義なことだった。
そういうわけで、ノルトハーフェン公国軍では、衛生部隊として大勢の使用人たちも同行することとなった。
もちろん、比較的危険性が小さいとはいえ、戦地に行くのだから、望まない者は同行せず、自ら志願した者たちだけを選んで連れて行く。
また、ヴァイスシュネーは手薄になってしまうが、エドゥアルドが出征している以上はヴァイスシュネーでの仕事も減るから、特に問題とはならないはずだった。
そうして、数日の内にルーシェたち使用人たちも、出征する準備を慌ただしく整えたのだった。
※作者注
ノルトハーフェン公国軍の衛生組織についてですが、旧軍のものを参考にしています。
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