第218話:「ついて来い」

 自分の身体が、もう、旅行鞄には入らない。

 それは、ルーシェが昨年に比べて成長し、背が伸びたせいだったが、ルーシェにとってそんなことは大事なことではなかったのだろう。


 エドゥアルドについていくことができない。

 そう思ったルーシェは慌てて、冷静さを失い、そしてなにを思ったのか、エドゥアルドに助けを求めるために駆けこんできたのだ。


 エドゥアルドに隠れて出征についていくために旅行鞄に隠れようとしていたのに、そんな画策をしていたことを自分からエドゥアルドに白状して、どうするつもりなのか。

 普通に考えればすぐにわかるようなこともわからないほど、ルーシェは慌ててしまっていたようだった。


 ルーシェはスラム街出身の少女だったが、決して、愚かなわけではない。

 その証拠に、彼女はエドゥアルドに仕えるようになってから数年もしないうちに、読み書きを覚え、難しいはずのヴィルヘルムの授業も理解し、エドゥアルドたちが日常的に話している国家機密に類するような事柄の内容も理解できるようになっている。


 そんな優れた理解力を持った賢い少女であるはずなのに、エドゥアルドが呆れて思わず笑ってしまうようなことをしてしまう。


 それは、ルーシェのドジっ子気質によるものなのかもしれなかったが、彼女にとってエドゥアルドの側にいられないかもしれないという可能性が、あまりにも重大であり過ぎるせいだった。


 エドゥアルドにも、ルーシェがどんな考え方をするのかがわかって来ている。


 ルーシェは、エドゥアルドがアルエット共和国に出征する際に、鞄に隠れて密航し、強引に同行して来た。

 エドゥアルドから安全なノルトハーフェン公国に残っているように言われていたのに、彼女はそれに従わなかった。


 以前、エドゥアルドがルーシェに休暇を与えた時などは、彼女はむしろまったく休むことができず、休んでいるはずなのにかえって弱り切っているようなありさまだった。


 要するに、ルーシェにとっては、エドゥアルドの側が居場所で、そこにいられないというのは、死活問題なのだ。

 これは、エドゥアルドがルーシェを救った命の恩人であるからというだけではなく、天涯孤独な身の上であるルーシェにとっては、他に行く当てなどないからだろう。


 恩を感じ、自分が仕えると決めた相手が、自分の手の届かないところでいなくなってしまうかもしれない。

 自分の居るべき居場所が、失われてしまうかもしれない。

 そう思うと、ルーシェは不安でたまらなくなり、いてもたってもいられなくなってしまうのだ。


 エドゥアルドにとっては、世話が焼けるなという思いが半分、嬉しいという気持ちが半分だった。


 ルーシェがエドゥアルドのために日々頑張ってくれていることは、いつも身近でルーシェのことを見ているからエドゥアルドはよくわかっているし、ありがたいことだと思っている。


 確かにエドゥアルドはルーシェにとっての命の恩人には違いなかったが、ヴィルヘルムの授業を理解するほどの利発さを持っているルーシェならば、たとえこの時代が必ずしも女性にとって平等ではないのだとしても、しっかりと生き抜いていくことができるはずだ。

 エドゥアルドはしっかり給金も出しているから、ルーシェはいつでも、自立しようと思えばできてしまうのだ。


 しかしルーシェはエドゥアルドから自立したいなどとは思わず、あくまでエドゥアルドのために働いてくれている。

 それは忠誠心とはまた少し違う感情からのようで、それがエドゥアルドにとっては居心地がよく、嬉しい。


「あの……、エドゥアルドさま?


 そんなに、笑わないでくださいまし……」


 ルーシェの頓珍漢(とんちんかん)な行動に腹を抱えて笑っていたエドゥアルドに、ルーシェは、少し不満そうに唇を尖らせている。

 悪いのは自分だというのはわかっているのだが、エドゥアルドの笑いようも、あんまりだと言いたそうな様子だった。


「いや、悪い、ルーシェ。


 だけど、あんまり、おもしろくって」


 エドゥアルドはそう言って彼女に謝罪しながら、何度か深呼吸をして気持ちを落ち着ける。


「それに、ルーシェ。

 お前は、鞄に入ってまでついてこようなんて、そんな算段をしなくてもよかったんだ」


 それからエドゥアルドは、まだ笑いの余韻(よいん)を残したまま、そうルーシェに教えていた。


「……どういうことで、ございますか? 」


 ルーシェは、そのエドゥアルドの言葉に怪訝そうに首をかしげる。

 彼女は今回の出征でもエドゥアルドにノルトハーフェン公国に残るように命令されると、そう思い込んでいたから、エドゥアルドの言っている意味がすぐには理解できなかったのだろう。


「今回の出征には、ルーシェ。

 お前にも、最初からついて来てもらうつもりだったんだ」


 そんなルーシェに、エドゥアルドは説明する。


「前回の出征の時、ルーシェたち、メイドや使用人たちにもついて来てもらって、負傷兵の救護なんかをしてもらっただろう?

 あれが、兵士たちの士気を維持するのにとても効果があったから、また今回の出征でもやってもらえないかっていう話になっているんだ。


 戦う以上、犠牲は避けられないことだが、救える命があるのならそれに越したことはないからね。


 だから、ルーシェ。

 今回は、またついて来てくれって、僕の方からお願いしに行こうと思っていたんだ。

 もちろん、カイもオスカーも、連れてくるといい。

 おいていくのは、かわいそうだし、なんだかんだ役に立ってくれるからな」

「は、はぁ……。

 そうだったんでございますか」


 そのエドゥアルドからの説明に、ルーシェは拍子抜けしたような顔でうなずく。


 しかしそれからすぐに、彼女は悔しそうな顔になった。


「そうだったのなら、エドゥアルドさま、もっと早くおっしゃってくださればいいのに!


 私1人だけ右往左往して、ただのおバカさんみたいじゃありませんか! 」

「いや、すまない、こっちも出征の準備でいろいろと忙しくて……、ぷっ!


 あっはははははっ!! 」


 エドゥアルドはそう言って頬を膨らませるルーシェの姿を目にして、また、こらえることができずに笑い始めてしまっていた。

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