第210話:「喫茶店:2」

 喫茶店の扉を開くと、来店者を告げるために設置されていた鈴が愛らしい音色を奏でる。

 そして、外で感じたものよりも一層濃密なコーヒーの香りに包まれた。


 エーアリヒに案内されて喫茶店の中へと入ったエドゥアルドだったが、芳醇なコーヒーの香りを堪能するよりも先に、驚かされていた。

 なぜなら、その店内では、何人もの人間がエドゥアルドのことを待ち受けていたからだ。


 服装からいって、ノルトハーフェン公国の一般の民衆、平民たちであるようだった。

 彼らはエドゥアルドを出迎えるのに当たって失礼のないよう、できるかぎり身なりを整えてきていたが、エドゥアルドが普段話すことの多い、貴族や公国の有力者たちとは雰囲気が違っている。


 そんな平民たちが、7、8人もいて、エドゥアルドがやって来るのをそれぞれの席から立って待ちかまえていた。

 そしてその平民たちはみな、エドゥアルドが入ってくると、たどたどしい仕草で一礼して、挨拶をして見せる。


 店内には、その平民たち以外には、店の人間と、エドゥアルドの警護のために派遣されて来た数名の兵士たちの姿があるだけだった。


 みなが待っている。

 エーアリヒはそう言っていたが、そのみな、というのは、どうやらこの平民たちであるようだった。


「どうぞ、公爵殿下、こちらのお席へ。


 他のみなも、どうぞ、座って、コーヒーを楽しみなさい」


 エーアリヒがそう言って案内し、エドゥアルドが席に着くと、喫茶店でエドゥアルドを待っていた平民たちはそれぞれの席に腰かけ、そして、言われた通りにコーヒーを楽しみ始める。


 エドゥアルドは、戸惑っていた。

 エーアリヒに誘われてやってきたはいいものの、突然、こんな形で平民たちと一緒になるとは思っていなかったからだ。


 エドゥアルドに同行して喫茶店に入って来たシャルロッテもルーシェも、戸惑っている。

 シャルロッテはエドゥアルドの護衛という職務があり、表情こそあまり変えなかったものの一瞬目を丸くしていたし、ルーシェなどは呆気に取られて、ぽかんと口が半開きになっていた。


 エドゥアルドたちが戸惑っている間に、コーヒーが運ばれてくる。

 どうやらエーアリヒのお勧めのコーヒーらしく、コーヒーを運んできた店主はエドゥアルドからミルクや砂糖の好みを聞き、コーヒーを仕上げると、うやうやしく一礼して奥へと引っこんでいった。


「さ、公爵殿下、まずは一杯。

 ここ、カミル・ハウスのコーヒーは、なかなか良いものです」


 エドゥアルドはまだ戸惑ったままだったが、エーアリヒがそう勧めて来るのでひとまず、コーヒーに口をつけることにした。


 とてもいい香りがする。

 濃厚で、だが爽やかな印象のする香りだった。


 口をつけてみると、味も抜群にいい。

 苦みが出過ぎないように、コーヒーを抽出する時にうまく工夫をしているようだった。


 そのコーヒーの味だけでもエドゥアルドは今日この喫茶店を訪れたことを後悔しないし、また訪れても良いと思えるほどのものだったが、しかし、エドゥアルドはまだコーヒーを味わうことに集中することができなかった。


「それで、エーアリヒ準伯爵。


 今日、僕をここに呼んだのは、どういう意図からなのだ? 」


 エドゥアルドのその問いかけに、エーアリヒは自身のコーヒーカップをソーサーの上に戻すと、エドゥアルドの方へと向きなおり、穏やかな表情で、だが真剣な視線をエドゥアルドへと向けた。


「実は、公爵殿下。


 ここ、カミル・ハウスでは、日頃から政治に関する談義が盛んに行われているのです」

「……なに?


 ここで、政治の話を? 」


 そのエーアリヒの言葉に驚いたエドゥアルドは、思わず、店内を見回してしまう。


 店内にいる平民たちはみな、それぞれの席に座り、思い思いにコーヒーを楽しんでいた。

 ある者は読書を楽しみながら、別の者は新聞を広げながら、また別の者は景色を楽しみ、1つのテーブルに集まった者たちは店内の雰囲気を損ねないように声を抑えながらおしゃべりを楽しんでいる。


 そこにあるのは、なんのことはない、他愛のない日常の風景だった。

 だが、その日常的な場所で、政治談議が盛んに行われているのだという。


 エドゥアルドにはその光景が想像できなかったが、しかし、その場にいる平民たちがみな、普段通りのことをしながらも、エドゥアルドの一挙手一投足に注目しているのも感じていた。

 ちら、ちら、と、みながエドゥアルドの方をうかがっている。


「私(わたくし)、このカミル・ハウスの常連でして。


 そして、今日集まった者たちはみな、私(わたくし)の[飲み友]。


 日頃から公爵殿下の治世について、一言物申したいと息巻いている連中なのです。

 また、なかなか筋の通ったことを申す者たちです。


 本日はぜひ、公爵殿下にも彼らの言葉をお聞きになり、かつ、彼らに公爵殿下のお考えを披見していただければと、このような場を設けさせていただきました」


 平民たちの様子にエドゥアルドが戸惑っていると、エーアリヒはようやく、なぜエドゥアルドを喫茶店へと誘ったのか、その理由を明らかにした。


 エドゥアルドは、平民たちが自分に注目しているわけを理解した。

 彼らは公爵がやってきたことに驚いているのではなく、エドゥアルドに対して自身の意見をぶつけたくて、うずうずしているのだ。


 エドゥアルドはこの状況に戸惑ったが、同時に、(おもしろい)とも思っていた。

 エーアリヒが推薦するほどの者たちだから、その意見がエドゥアルドの考えに合っていようと反していようと、意見交換をすることは有意義なことだろうと思えたからだ。


「いいだろう。


 貴殿らの意見、じっくり、聞かせてもらうとしよう」


 エドゥアルドは席から立ちあがり、集まった平民たちを見渡すと、少し挑戦的な笑みを浮かべてそう言っていた。


※作者注

 史実でも、喫茶店という存在は民衆の政治世論の形成に大きな役割を果たしていたそうで、おもしろいと思ったので作中に取り入れてみました。

 エーアリヒが、民衆は徴兵制について否定的、という世論を知っていたのも、喫茶店で政治談議などを聞いていたから、という設定です。

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