第180話:「正体:2」

 アンネの靴に、幾重にも巻かれた布。

 それは、アンネの苦しい言い訳を否定し、彼女にこれ以上の言い逃れを許さない、決定的な証拠だった。


「……っ! 」


 そのことを理解したアンネは、咄嗟(とっさ)に、シャルロッテから逃げようとしていた。


 だがそれは、あまりにも無謀なことだった。


 アンネは、なかなか、素早かった。

 元々体格が小柄なこともあり、相手が自分と同じ素人であれば、うまく逃げおおせていたかもしれない。


 しかし、シャルロッテは素人ではなかった。

 アンネが逃げようと決心し、走りだそうと身体を動かし始めた段階でシャルロッテはアンネの意図を見抜き、彼女の逃走を阻止するために動き始めていた。


 アンネは、シャルロッテの脇をすり抜けようと、できるだけ身体を低くして、全力で駆け出した。

 いつの間にかシャルロッテに背後を取られていた、つまり出口をシャルロッテに抑えられていたアンネの逃げ道は、そちらにしかなかったからだ。


 シャルロッテは、アンネが逃げ出そうとすることを最初から想定して、自身の立ち位置を決めていた。

 背後からアンネを詰問(きつもん)することで彼女にごまかす暇(いとま)を与えず決定的な証拠をつかむのと同時に、逃げ出そうとしても絶対にシャルロッテの側に向かって来るしかないという状況を、シャルロッテは意図して作っていたのだ。


 アンネがいくら素早くとも、「どう動くか」を完全に予測され、シャルロッテによって制御されてしまっているのだから、アンネの逃走は成功するはずがなかった。


 アンネの逃走劇は、彼女が逃げ出そうとしてからたったの数秒で、失敗していた。

 自身の脇をすり抜けようとするアンネの肩を手早くつかんだシャルロッテは、走り出したアンネの勢いに回転する力を加えてその向かう方向を変え、アンネを近くの壁に叩きつけていた。


「きゃんっ!? 」


 背中から壁に叩きつけられたアンネは、息を詰まらせながら悲鳴を漏(も)らす。


 だが、彼女はまだ、逃げることをあきらめてはいなかった。

 シャルロッテが放つ冷酷な雰囲気から、アンネは、このまま捕まってしまえば、自分はどんな目に遭うかわからないと、そう理解していたからだった。


「無駄ですよ、アンネ」

「ひっ! 」


 再び走り出そうとしたアンネだったが、目を開いた瞬間にシャルロッテから睨みつけられて、身体がすくんでしまっていた。


 シャルロッテは、静かにアンネのことを見つめていた。

 しかし、その怜悧(れいり)な表情からは、「決して、逃(のが)しませんよ」という、シャルロッテの意志がにじみ出ている。


 自分は、逃げることなどできないのだ。

 瞬時にそうわからせられてしまったアンネは、もう、ただおびえて、カタカタと小刻みに震えることしかできなかった。


「やはり、あなたは賢いコですね。アンネ? 」


 そんなアンネの姿に、シャルロッテは少しだけ表情を和らげ、微笑んで見せる。


 しかしそれは、追い詰めた獲物を前に舌なめずりする獣(けもの)のような、残酷さと余裕の入り混じった表情だった。


「そんなあなただから、今が、どんな状況なのかは、すでにおわかりですね?


 さぁ、答えていただきましょうか。


 あなたは、どうしてこんな場所に?

 どうして、ずっと私のことをつけていたのですか? 」


 アンネは、シャルロッテのその言葉で、シャルロッテの後をつけていたことをずっと前から気づかれていたのだと、初めて理解していた。

 そして、シャルロッテが自身をつけていたアンネの捕らえるために、この隠し部屋まで誘い込んだのだということにも気づいた。


(最初から、バレバレだったんだ……っ! )


 途中まではうまく隠れながら後をつけることができていると、そう思っていたのに。

 自分がシャルロッテの罠にまんまとはめられてしまったことに気づいたアンネは、後悔するのと同時に、普段は厳しくも親切な美しいメイドであるシャルロッテの、[裏]のおそろしさを思い知らされていた。


「安心なさい、アン。

 あなたがもし、自発的に、正直に話してくれるのなら、私は、あなたに手荒なことはいたしません。


 ですが、もし、あくまで隠し立てするというのなら、その限りではありませんよ? 」


 シャルロッテからは逃げようがない。

 そう理解しつつも、まだ正直に打ち明けようとしないアンネに、シャルロッテはやや笑みを深くしながら、聞き分けの悪い子供に言い聞かせるように言う。


「幸い、ここはかつて、とある公子を、世間から隠して生活させるために作られた秘密のお部屋です。

 防音対策は完全ですし、ここであなたがなにを言っても、どんな大声をあげても、それに気づく者はどこにも、誰もいません。


 そして私は、人に、言いたくないことを言わせるのが、けっこう、得意でして」


 そのシャルロッテからの恫喝(どうかつ)に、ゴクリ、とアンネは喉(のど)を鳴らしていた。


 シャルロッテの物腰は静かで感情的なものではなかったが、その、人が言いたくないことを言わせる方法とやらを、ためらうことなく実行できるという冷酷な気配を、アンネははっきりと感じ取っていたからだ。


(……なかなか、強情ですね? )


 恐怖からか、それとも、やはりためらいがあるのか。

 追い詰められ、カタカタと震えるしかできないものの、まだしゃべろうとしないアンネに、シャルロッテは小さくため息をついていた。


 そしてそっと、自身のスカートの中に手をのばし、一度は手放したナイフの柄をつかむ。


「せっかく、かわいらしいお顔をしているのです。

 ですから、いきなり、目や、耳、鼻といったところではなく……、まずは、そのおさげからにいたしましょうか」

「わっ、わーっ!!!


 ごめんなさいごめんなさいごめんなさいーっ!


 なっ、なんでも、全部しゃべりますからぁっ!!! 」


 そのシャルロッテの言葉に、アンネはたまらず、全面降伏を宣言していた。

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