第178話:「夜回り:2」
タウゼント帝国。
その歴史は優に一千年を超えるとされる国家と共に存立して来たノルトハーフェン公爵家には、長い歴史がある。
その隠し階段も、その、長い歴史の中で生まれたものだった。
時は、数百年前、ヴァイスシュネーが建設されたころにさかのぼる。
当時のノルトハーフェン公爵家には、ある1人の公子(こうし)がいた。
それも、決して世間にその存在の明かされることのない、秘密の子供だった。
なぜなら、その公子には、先天的に重度の知的障害があったからだ。
長い歴史の中でその存在はすっかり忘れ去られ、今となっては名前を記憶している者もいないが、当時、その公子の存在は、ノルトハーフェン公爵家にとって大きな[厄介ごと]だった。
公爵家ほどの権力と財力を有する家ならば、障害を持った1人の子供くらい、なんの問題もなく養っていくことができるはずだ。
ならばどうして、それが大きな厄介ごとだったのだろうか?
貴族は世襲制であることが一般的だったが、その世襲のやり方には、様々な厳しいルールが設けられていることが普通だ。
貴族は生まれもって様々な権利や義務を背負っているが、一族の当主として、大きな権力を振るうことができるのはたった1人だけで、後継者を巡って争いが起こるのが常であり、その争いを避けるために、厳格に継承法を定めておくことが必要だったからだ。
ノルトハーフェン公国では、タウゼント帝国の他の貴族の家と同じように、嫡子(ちゃくし)、それも男子がもっとも優先して公爵位を継承できるように定められている。
当時、問題だったのは、その、知的障害をもって誕生した子が、この、ノルトハーフェン公爵家を相続するべき、嫡出児だったからだった。
公子は、10歳になってもまともにしゃべることができず、それどころか、獣(けもの)のようにうなり声をあげることしかできないようなありさまだった。
そもそも、自分自身が誰なのかさえ、認識できていないような様子だった。
その障害はあまりにも重く、多くの医師が治療を試み、多くの使用人たちが看病したが、症状はまるで改善する気配を見せなかった。
障害があろうとも、それが貴重な命であることにはなんの変わりもない。
しかしながら、公爵、すなわち数百万もの国民の命を預かる国家元首になれるかどうかとなると、話しは別だ。
優秀な臣下を置いて摂政をさせるのだとしても、外交折衝(がいこうせっしょう)や皇帝に対する儀礼など、国家元首として公爵が果たさなければならない、公爵にしか果たせない役割は、数多い。
だが、その公子は到底、その役割を果たすことはできなかったし、そもそも、後継者となる子供を産む能力があるのかどうかさえ疑問視されていた。
ノルトハーフェン公爵家は、公爵家の断絶と、公国の存立にかかわる重大な問題に直面していたのだ。
そうして生まれたのが、この隠し階段だった。
時のノルトハーフェン公爵は、当時直面していた問題を解決する手段として、この重度の知的障害を負った公子を、[最初からいなかったこと]にしようとし、その存在を秘匿するために、この隠し階段を、そしてその先にある一室を作り出した。
公爵という地位を継承していく能力がないのだとしても、その公子は、時の公爵の子供に違いなかった。
だから命を奪うなどということは到底できず、代わりに、その存在を秘匿して、そもそも存在していなかったということにしたのだ。
この目論見は、成功した。
裏で様々な政治的な駆け引きや暗闘がくり広げられはしたものの、結局は当時の公爵の次男が嫡出児として認められ、ノルトハーフェン公爵家は現代にまで続いている。
そして、知的障害を負って生まれた、その存在を記録から抹消された公子は、60歳過ぎまで生き、自然死したという。
その人生が幸福であったかどうかは、誰にも、本人にもわからないものだった。
現代に生きるノルトハーフェン公国の人々は、数百年もの昔に闇に葬り去られた公子の存在を、覚えてはいない。
しかし、シャルロッテの一族、クライス家は、そのことを知っていた。
元々、クライス家というのは、ノルトハーフェン公国で諜報(ちょうほう)などの任務を担って来た家なのだ。
その当主、シャルロッテの父は、エドゥアルドの父と共に数年前に戦死し、シャルロッテが一族の最後の生き残りとなって、事実上、クライス家は断絶した状態にあるが、それでも、クライス家が抱えてきた[秘密]については、シャルロッテに継承されている。
だから、シャルロッテは日々の夜回りを人に任せることなく、自分で行っていた。
なぜなら、シャルロッテにしか確認することができない[秘密]が、このヴァイスシュネーには多く残されているからだ。
ノルトハーフェン公爵家を存続させ、公国を守るために作られた、秘密の階段。
その先にある部屋の内装は、豪華なものだった。
知的障害があり、歴史から抹殺(まっさつ)された存在であったとはいえ、この部屋にいたのは、まぎれもなく公子だった。
だから、それ相応の待遇が与えられていたのだ。
また、当の公子が自然死してからも、この秘密の部屋には役割があった。
故あって失踪(しっそう)したり、亡命したりしなければならなかったやんごとなき身分の人々を、歴代のノルトハーフェン公爵は度々、この部屋にかくまったことがあったからだ。
その理由は様々であったが、この隠し部屋は、何人もの人々によって使われて来た。
どうやら、つい最近も、この隠し部屋は利用されていたようだった。
部屋まで続いている階段にも、部屋の中にも、長く使われていなければ降り積もっていてもおかしくない埃(ほこり)のようなものはなく、きれいに掃除され、注意深く丁寧に手入れされているような形跡があった。
隠し部屋は、ひときわ暗い場所だった。
獣のような声をあげ続ける公子を隠しておくための部屋なのだから、この部屋は防音対策を重点的に行っており、窓の類がほとんどなく、外部に明かりがあってもあまり入ってこないからだ。
さすがにまったく日光が入らないのはマズい、ということで、後に屋根に天窓が設けられたが、この窓も三重に作られた防音仕様であるだけでなく、今は鎧戸がしっかりと閉じられている。
その、暗い部屋。
そこに入り、ランプの明かりで照らして、異変がないことを確認したシャルロッテは、他になにも気づいていないような態度をよそおいながら、静かに部屋の奥の方へと向かって行った。
そして部屋の奥、入り口からは見えない場所にまで来ると、シャルロッテは適当なところにランプを置き、背後を振り返って、すっ、と鋭く双眸(そうぼう)を細めた。
普通の人間ならば、聞き逃してしまうようなかすかな音。
しかしシャルロッテにはずっと、自分の後を忍び足でつけて来る誰かの足音が、聞こえていたのだ。
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