第176話:「それは、敵」
アンネの働きぶりを観察したルーシェは、はっきりと、理解していた。
アンネは、ルーシェにとっての[敵]なのだと。
アンネは、本当にいい子だ。
性格も明るくて気づかいができて、働きぶりも申し分なく、メイドとして非情に優秀だ。
ルーシェに、(私なんて、アンの足元にも及ばない……)と、そう認めさせるほどに。
ルーシェ自身も、アンネのことは好きだった。
自分にとって初めてできた[後輩]であったし、アンネの方はルーシェになにか悪意があるわけでもなく、他の人たちにするのと同じように、明るく、好意的に接してくれた。
本当なら、ルーシェがアンネのことを嫌いになる要素など、なにひとつないはずなのだ。
しかし、それでもやはり、アンネはルーシェにとっての[敵]だった。
仕事ができて、性格も良くて、みんなから好かれて、歓迎される。
そんなアンネの存在は、ルーシェの存在意義を脅かし、そして、ルーシェにとって大切な居場所を奪うかもしれない、脅威であるのだ。
もちろん、アンネがルーシェの居場所を奪ってやろうなどと、そんなことを考えているはずはなかった。
だが、意図していなくとも、アンネはルーシェにとっての脅威、[敵]なのだ。
アンネとエドゥアルドの、楽しそうに笑う声。
その声が、ルーシェの中で何度も再生されて、そのたびに、ズキン、ズキン、と、ルーシェの心は痛んだ。
「ずっと、この場所にいたいよ……」
ルーシェは自室のベッドの上で犬のカイのことを抱きしめながら、か細い声でそう呟いていた。
「エドゥアルドさまのお側に、いたいよ……」
そう呟くルーシェの瞳は、涙にぬれている。
だが、ルーシェは、涙をこぼしてはいなかった。
なぜならルーシェは、(自分が、こんなことを考えることが、間違いなのだ)と、そう思っているからだった。
自分は、スラム街でたまたま、拾われただけの身だ。
エドゥアルドのメイドとなって、半年以上もの期間、側に置いて働かせてもらっただけでも、感謝するべきなのだ。
エドゥアルドは、ルーシェに夢のような生活を与えてくれた。
衣食住に困ることのない、今日のことではなく、明日のことを考えて、もっと先の未来にも希望を抱くことのできる、そんな毎日をもたらしてくれたのだ。
それだけで、ルーシェには、エドゥアルドに返しきれない恩義がある。
その恩のわずかでも返すことのできていないルーシェが、これからもずっと、エドゥアルドのために働きたい、その近くにいたいと願うことは、贅沢で、我がままだと、ルーシェはそう思っていた。
だが、そう願ってしまう心を、ルーシェは止めることができなかった。
「エドゥアルドさま……」
ルーシェは切ない声でそう呟くと、ぽすん、とカイの背中に顔をうずめて、彼の存在を確かめるように、カイの全身をなでまわした。
カイの、人間よりも少しだけ高い体温。
その暖かさを感じていると、少しだけ、ルーシェの心の痛みはマシになるのだ。
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傷心のルーシェに抱きしめられ、なでまわされながら、カイは、すっかり困り果てていた。
最初は、普段は仕事で忙しくあまりカイやオスカーのことをかまってくれないルーシェが、理由はわからないが部屋にいるとわかって、とても喜んだ。
それからルーシェはカイをお散歩に連れて行ってもくれて、それも、カイにとってはとても嬉しいことだった。
だが、ルーシェは途中から様子がおかしかった。
普段のルーシェが決して見せることのないような表情を浮かべながら、影でコソコソ、アンネのことを見張っていた。
そして今は、すっかりしうちひしがれて、今にも泣き出しそうなのにこぼれそうになる涙を必死にこらえながら、心細そうにしている。
久しぶりに、めいっぱい、ルーシェと遊ぶことができる。
そんなふうにカイは期待していたのに、どういうわけか、ルーシェは元気がなく、悲しそうだった。
そんなルーシェのことを、なんとかして励ましたい。
そう思っているからこそ、カイはずっと、ルーシェの側を離れず、こうして抱きしめられながら、なでまわされている。
しかし、ルーシェがこの体勢に入ってから、もう、数時間は経つ。
カーテンも閉められていない窓の外はすっかり暗くなってしまっていて、いつもなら晩御飯をもらえる時間もとっくに過ぎているはずなのに、ルーシェは悲しそうにカイのことを抱きしめたままだった。
ルーシェのことをなんとか助けたい。
カイは切実にそう願いつつも、その一方でひもじかった。
そしてなにより、ルーシェの抱きしめる力、カイをなでる力は、いつもよりもずっと強かった。
このまま抱きしめられ、なでられ続けていたら、カイの毛がハゲてしまうのではないかと、そう心配になるほどに。
その時、ルーシェの部屋の扉に作られた動物用の扉を通って、猫のオスカーが部屋に帰って来た。
ルーシェは悩みごとでいっぱいだったから気がつかなかったようだったが、オスカーがたてたかすかな音に気づいたカイは、ぱっ、っと表情を輝かせてオスカーの方を見つめた。
オスカーは、カイよりも数年は年上の、ベテランの風格を持つ猫だった。
最近ではヴァイスシュネーの周辺に暮らしている野良猫たちのボスにおさまり、10匹以上の猫たちを従えるまでになっている。
だからきっと、ルーシェのことをなんとかしてくれると、そうカイは期待したのだ。
オスカーはそんなカイの視線に気づき、そしてルーシェの普通ではない様子にも気づくと、驚いたように立ち止まって、「いったいなにがあったのか? 」と探るような視線を向けて来る。
そんなオスカーに向かって、カイは、「タスケテ」と、必死にアイコンタクトを試みた。
犬と猫、お互いに種族が違うから直接意思疎通をする手段は持ち合わせてはいないのだが、お互いに長いつき合いだから、オスカーにもカイの必死の訴えは届くはずだった。
そしてそんなカイの救援要請に気づいたオスカーは、あろうことか、180度反転して部屋から出て行ってしまったのだ。
その謎の反転にカイは驚き、そして絶望し、それから、オスカーが消えて行った扉を、恨めしそうな視線で睨みつけた。
これはさすがの自分にも手に負えない、ということなのだろうが、だからといってカイに全部任せていくのは、あんまりだと思うのだ。
お腹はもうペコペコだったし、このままだと毛が抜けてハゲ犬になってしまうかもしれない。
かといって、こんな状態のルーシェを、1人にしておくわけにもいかない。
カイにとって、今夜は長くなりそうだった。
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