第175話:「ルーシェ、観察する:2」
アンネは、よく働いていた。
エドゥアルドがなにか要望を出すとすぐにそれにこたえることができるようにしっかりと段取りもしてあったし、手際がよかった。
その働きぶりは、影に隠れてその様子を観察しているルーシェから、段々と元気を失わせていくほどだった。
(勝てない……)
アンネの働きぶりは、ルーシェに、そう確信させるだけのものだったのだ。
今までエドゥアルドに一番近いところで、一番多くの時間働いてきたのは、自分だ。
ルーシェはそんな自負心も持っていたし、いくらアンネであろうと、自分よりも上手にエドゥアルドの身の回りの世話をすることはできないだろうと、そう考えていた。
しかし、今のところ、アンネはなんの問題もなく働いている。
それどころか、むしろルーシェよりも手際がいいくらいだった。
そしてなにより、アンネは一切、ドジをしなかった。
このままでは、ルーシェの存在意義が、失われてしまう。
ルーシェの中で、そんな不安が、どんどん大きくなっていった。
ルーシェを焦らせ、不安にさせたのは、アンネの働きぶりだけではなかった。
アンネの周囲の人々の反応も、ルーシェの不安をかき立てる。
みんな、アンネのことを高く評価しているのだ。
それだけではなく、好意的に受け止めてもいる。
たとえば、アンネが必要な物があって取りに行くと、そこで働いていた使用人たちは喜んでアンネの手伝いをしてくれる。
アンネとすれ違う人々はみんな笑顔を浮かべて挨拶をかわし、アンネも、にこにこと親し気な笑みを浮かべてこたえている。
アンネはもうすっかり、ヴァイスシュネーの人々から受け入れられ、歓迎されているのだ。
(それも、当然です……)
相変わらず物陰に隠れながらアンネの働きぶりを観察し続けていたルーシェは、すっかり落ち込んでいた。
(だって、アンは……。
私なんかよりも、ずっとずっと、優秀なメイドさんですから)
アンネの働きぶりに、ルーシェはかなわない。
そう理解してしまったルーシェは、もう、自分の居場所はここにはないのではないかと、そんな心配までし始めていた。
そんなルーシェのかたわらで、犬のカイが、ルーシェのことを心配するように「くぅん……」と小さく声を漏(も)らした。
「ありがとう、カイ……」
そしてそっとルーシェをはげますようによりそってくれるカイのことを、ルーシェはぎゅっと抱きしめ返していた。
そんなルーシェたちの存在に気づいていないのか、アンネは一生懸命に働き続けていた。
そしてその働きを、エドゥアルドは「ありがとう」と言ってほめるのだ。
その光景を目にした瞬間、ルーシェの中で、なにか、どす黒い衝動のようなものがわきあがって来た。
アンネは、確かにいい子だ。
一生懸命に働くし、賢くて気づかいもできるし、周囲からも好意的に受け入れられて、すっかりなじんでいる。
ルーシェだって、アンネのことを尊敬しているし、好きだった。
だが、だからこそ、アンネはルーシェにとっての脅威なのだ。
なぜなら、すべてにおいてルーシェよりも上だと、少なくともルーシェにはそうとしか思えないアンネがいる限り、このヴァイスシュネーから、ルーシェの居場所はなくなってしまうかもしれないからだ。
エドゥアルドだってきっと、ルーシェのようにドジをすることもないアンネに身の回りの世話をしてもらった方が、いいと言うのに違いない。
そう思うと、ルーシェの心の中は、バラバラに引き裂かれるような感じがして。
「カイ、ゴー!
アンを、やっつけるのですっ! 」
深刻な危機感に襲われ、自然と鼓動が速くなり、ハー、ハー、と苦しそうに胸を押さえながら呼吸をしていたルーシェは、その衝動に突き動かされるまま、カイをアンネにけしかけようとしていた。
今のところ、アンネは完璧に職務を遂行していた。
その実力は明らかにルーシェよりも上で、このままでは、アンネは一時的な代わりなどではなくなってしまうだろう。
アンネをやるなら、今しかない。
ルーシェはそんなことを考えてしまうほどに、追い詰められていた。
しかし、いくら家族とはいっても、カイは犬だった。
普段からそう訓練を受けているならまだしも、彼は人間に対して積極的に襲いかかるような行動は仕込まれたことがない。
嬉しくて思わず飛びかかってしまうことはあるが、相手を傷つけるような意図はカイには少しもなく、ましてや、こんなふうに突然「アンネを襲え」などと言われても、その指示を理解して実行することなど、できるはずがなかった。
だからカイは、ルーシェの言葉にも、きょとんとした表情で首をかしげるだけだった。
「……私、なに、やってるんだろう……? 」
そのカイの姿を見ているうちに冷静になってきたルーシェは、激しい自己嫌悪に襲われていた。
アンネはただ、自分に与えられた役割を果たすために、一生懸命に働いているだけだ。
それは他の誰とも、ルーシェとも変わらない。
そんなアンネのことを、力づくで妨害してやろうなどと。
一瞬でもそんなことを考えてしまったルーシェは、自分の考えの愚かさ、そして醜(みにく)さに気づかされて、心底、自分のことが嫌になってしまった。
「……帰ろうか、カイ」
やがてルーシェはそうカイに言うと、よろよろとした力ない足取りで、自分の部屋へと戻っていく。
そんなルーシェの背後からは、エドゥアルドとアンネが、楽しそうに会話をしている声が聞こえてきていた。
その笑い声が聞こえるたび、ルーシェの心はズキン、ズキン、と、痛みを感じていた。
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