第174話:「ルーシェ、観察する:1」
どうして、自分は物陰に隠れたのか。
最初、ルーシェにもその理由がわからなかったが、エドゥアルドの執務室の扉が開き、アンネがかしこまったお辞儀をエドゥアルドにしながら部屋を出てくる頃には、ルーシェは自分がなにをしたかったのかがわかっていた。
(アンネのことを、観察、してやります! )
物陰に隠れながら顔を半分だけ出してアンネの様子をうかがいながら、ルーシェは、ムッとした顔で、眼光鋭くそう決意していた。
アンネに、自分の居場所を取られてしまうのではないか。
それは、ルーシェにとっては、大きな不安だった。
アンネは、優秀なメイドだった。
しかも、性格もいい。
だからきっと、エドゥアルドもアンネのことを気に入るのに違いない。
そうなったら、もう、ルーシェはいらない子になってしまうのではないか。
それが、ルーシェが休むことを頑なに拒否しようとした、一番の理由だった。
結局、ルーシェは休まざるを得なくなってしまったが、今のままではきっと、ルーシェはゆっくりと休んでなどいられない。
不安で、怖くて、耐えられない。
それならば、アンネの仕事ぶりをじっくりと観察しておくのは、役に立つことだろう。
もしアンネの仕事ぶりにルーシェが対抗できるとわかれば、ルーシェも少しは安心することができるのに違いないし、なんなら、アンネの技術をルーシェも学んでしまえば、エドゥアルドがアンネを気に入ってもルーシェがいらない子になるなんてことは防げるだろう。
「あれ?
わーっ、ワンちゃんだ!
えっと、確か、ルーシェセンパイのところの……、カイくん、だっけ?
どーしてこんなところにいるのー?」
エドゥアルドの執務室を出てきたアンネは、ルーシェが物陰から鋭い眼光で観察していることにも気づかず、唐突なルーシェの行動について行けずに戸惑っていたカイの姿を見て、嬉しそうな歓声をあげていた。
どうやら、アンネも犬は好きなようだ。
「わー、大人しい!
おりこうさんなんだねー、かわいいねー」
アンネは無邪気にはしゃぎながら、カイの目の前にしゃがんで、にこにこと楽しそうに笑いながら彼のことをなでまわす。
カイの方もまんざらでもない様子で、彼は大人しくその場にお座りをすると、アンネになでられるままになっていた。
(むぅ……。
カイの、裏切り者! )
ルーシェは、あまりおもしろくなかった。
アンネはルーシェの居場所を奪ってしまうかもしれない、いわばライバルであって、そのライバル、ルーシェにとっての脅威である相手にも嬉しそうに尻尾を振っているカイは、節操(せっそう)のない犬、ルーシェにとっての裏切り者だと、そう思えるのだ。
そのルーシェの邪念は、カイに伝わったようだった。
彼は突然、寒気に襲われたように身震いをすると、すっとアンネから身体を離し、ちらり、とルーシェの方をうかがい、それからアンネのことをちょっとだけ名残惜しそうに見返すと、とりあえずその場を離れようというのか、トコトコと歩き出す。
「ありゃりゃ、なれなれしくしすぎちゃったかしら?
……と、そーだ!
公爵殿下に、コーヒーをお持ちしないと! 」
そんなカイの姿を実に残念そうに見送ったアンネは、すぐに自分がなにをしようとしていたのかを思い出すと、急いでコーヒーを用意しに向かった。
といっても、さほど遠くに行くわけではない。
コーヒー好きのエドゥアルドのためにいつでもいれたてのコーヒーを出せるよう、簡易的なキッチンがすぐ近くに用意されているのだ。
アンネは、手際が良かった。
元々すぐにコーヒーを用意できるように段取りもしてあったのか、ルーシェと同じかそれ以上の素早さでコーヒーを用意すると、てきぱきとした機敏な動きでエドゥアルドのところへと持って行く。
(ムムム、さすがです……)
そのアンネの働きぶりを見せつけられたルーシェは、あらためてアンネの実力を認めざるを得なかった。
(けれど……、お味の方は、どうでしょうか! )
しかいルーシェは、ニヤリ、と不敵な笑みを浮かべていた。
コーヒーのいれかたは、ルーシェもよく研究したのだ。
そしてそれはすべて、エドゥアルドの好みに合ったコーヒーを用意するためだ。
エドゥアルドの好みを知っていて、いつでも美味しいコーヒーを用意できるのは、自分と、シャルロッテと、マーリアだけだ。
そんな自信を、ルーシェはもっている。
いくらアンネの手際がよくとも、エドゥアルドが一番、美味しい、と思うようなコーヒーを用意できないのなら、きっと、ルーシェがいらない子になることもないだろう。
そう思ったルーシェは、周囲に気づかれないように姿勢を低くしながらアンネと入れ違いにコーヒー用のキッチンへと向かうと、アンネが用意した残りのコーヒーをほんの少しだけ味見してみる。
「ぐぬぬ……」
ルーシェは、苦々しい表情で、悔しそうにそんなうなり声を漏(も)らしていた。
とても、美味しいコーヒーだった。
エドゥアルドの好み、とは違っていたが、アンネのいれたコーヒーには独自の工夫がされているようであり、ルーシェが知っている[エドゥアルドの好み]ではない、というだけではまったく安心できないほどのレベルに達していた。
エドゥアルドもきっと、気に入るのに違いないと、そう思える味わいだったのだ。
(これは……、もっと、観察を続けなければ! )
漠然と抱いていただけだったルーシェの危機感が、現実味を帯びてきた。
ルーシェはカイとお散歩をしていたこともすっかり忘れて、このまま、アンネの働きぶりを観察することにした。
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