第166話:「はじめての後輩」
朝早くの、自分以外に誰もいない洗濯場。
そこで、自分自身の幸せをルーシェが噛みしめていると、突然、背後で扉が開く音がした。
「おっはよーございまーす! 」
「うへぁぁぁぁぁぁぁぁっ!? 」
そして、朝の静けさを粉砕(ふんさい)するような明るい挨拶の声に、ルーシェは悲鳴をあげ、あたふたとして、そして足を滑らせ、洗濯槽(せんたくそう)の側に置いてあった籠(かご)を巻き込みながら盛大に転んでしまった。
洗濯籠(せんたくかご)は中に入っていた洗濯物をぶちまけながら洗濯槽(せんたくそう)に貯め込まれた水の中に飛び込み、ルーシェは自分の方に崩れてきた洗濯物の中に埋もれてしまう。
「うわっ、ちょっと、大丈夫ですかーっ!? 」
おそらくそんな意図はなかっただろうが、ルーシェに対して完璧な奇襲攻撃を実行してしまった相手は、慌てて駆けよると、洗濯物をかきわけてルーシェを救出し、助け起こしててくれた。
「ぅぅー……っ。
いきなり、びっくりしました……」
自分は、ささやかに幸福を噛みしめていただけなのに。
転んだ時に尻もちをついてしまったルーシェは、その痛みで涙目になりながら、恨めしそうに自分に奇襲をしかけてきた相手のことをねめつける。
「あー、そのー、えっと?
なんか、すみません? 」
すると、その相手、三つ編みにした金髪に碧眼を持つ、ルーシェと同じようなメイド服に身を包んでいる少女は、とりあえず謝罪の言葉を口にしていた。
「……あれ?
えっと、どちら様でしょうか? 」
ルーシェは、その少女の姿に見覚えがないことに気づいて、きょとんとした表情を浮かべていた。
シュペルリング・ヴィラにいたころ、ルーシェの身の回りには、限られた人々しかいなかった。
だが、ヴァイスシュネーには大勢の使用人たちが働いており、その全員の顔と名前を一致させることは、かなり大変なことだった。
しかし、ルーシェは一度、確かに、同じ職場で働いている使用人たちの顔と名前を、しっかりと覚え込んだのだ。
これから一緒に働いていくのだからそれくらいはしたいと、そう思って、ルーシェは頑張った。
それなのに、目の前にいるメイド、おでこが広々と見える金髪メイドに、ルーシェは見覚えがなかった。
だから、外からのお客かなにかなのかと、そんな風にルーシェは思っていた。
「あー、すみません。
私、ルーシェさんたちが公爵殿下と一緒に出征している間に、このお屋敷に新しく入ったメイドなんです。
名前は、アンネ・シュティといいます。
気軽に、アン、とお呼びくださいね」
きょとんとしているルーシェに、アンネは苦笑すると、そう言って自己紹介してくれる。
(アンネさん……、アン、とお呼びすればいいのね)
そんなアンネのことを、ルーシェは食い入るように見つめていた。
ここのお屋敷に雇われているメイドだということは、つまり、これから一緒に働く同僚、仲間、ということだ。
それならこの場でしっかりと彼女の顔と名前を覚えておこうと思ったのだ。
そうしてアンネのことを観察していたルーシェは、あることに気づく。
アンネの目線が、自分とかなり近い高さにあるのだ。
ルーシェにとって、身の回りにいる人々は大抵、自分よりも背が高い。
女性でも頭一つ分以上、男性ならほとんど空を見上げるようにしなければならないのだ。
だが、アンネの背丈は、ルーシェとそこまで変わらなかった。
「えっと……、アン?
もしかして、私と、そこまで年が変わらない感じですか? 」
「そうですね!
あたし、18ですから!
これからよろしくお願いしますね? センパイ! 」
自分と年の近い仲間が増えたのか。
そう思って嬉しくなったルーシェだったが、しかし、アンネの年齢を聞くと、「わわわっ! 」と慌てて、助け起こされる際に握ったままだったアンネの手を離した。
「18って、私よりも4つは年上じゃないですかっ!
シャーリーお姉さまと、あんまり変わらないっ!
気軽に、アン、なんて呼んで、ごめんなさいですっ! 」
てっきり同い年か1つか2つ上位だと思ったのだが、ルーシェが尊敬するメイドであるシャルロッテと変わらないような年齢だと知ったルーシェは、そう言って頭を下げていた。
このヴァイスシュネーに雇われたのは最近だということだったが、18歳ということはそれ以前にもどこかのお屋敷で働いていたことがあるかもしれず、だとすれば、メイドの経歴で言えばアンネの方がルーシェよりもずっと上のはずなのだ。
だとすれば当然、ルーシェは相応の敬意をもってアンネに接しなければならないはずだった。
「いえいえ、そんなお気になさらず!
気軽に、アン、とお呼びくださいね、ルーシェセンパイ! 」
「そ、そんなっ、でもっ……って、え?
ルーシェ、先輩? 」
年上でメイド歴でも上かもしれないアンネを前に恐縮していたルーシェだったが、彼女の[センパイ]という言葉を聞いて、再びきょとんとした表情でアンネのことを見つめてしまう。
するとアンネは、「そうです、ルーシェセンパイです! 」と、それがさも当然であるかのように胸を張ってみせた。
「確かに年はあたしの方が上かもしれないですけど、このお屋敷で働いている経歴なら、ルーシェセンパイの方が上じゃないですか!
だから、ルーシェセンパイ。
あたしが、後輩です! 」
「は、はぁ、そうなんですか……?
というか、あの、私のこと、前から知っていらしたんですか? 」
アンネの理屈は、わかるような、わからないような。
ルーシェを戸惑わせていたのはそれだけではなく、どうやら、アンネは以前からルーシェのことを知っていた様子だということだった。
「もちろんですとも!
他のメイドさんたちからも、センパイのことはよくおうかがいしていますし、私も、もう何度もお見かけしています! 」
そんなルーシェに向かって力強くうなずき、また胸を張るような様子を見せると、アンネは人懐っこい笑顔で、ルーシェに向かって右手を差し出してくる。
「これから、よろしくお願いしますね!
ルーシェ、センパイ! 」
「あっ、はいっ、こちらこそ、よろしくです! 」
握手を求められている。
そのことに気づいたルーシェは、自分が先輩になったということに気恥ずかしさを覚えてはにかみながら、アンネの手を握り返していた。
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