第165話:「ワーカホリック」

「お屋敷のお仕事を片づけるために!


 仕事場よ!

 私は、帰ってきたぁっ! 」


 休み明けの朝イチ。

 まだ辺りが明るくなり始める前から、メイド服に身を包み、身だしなみを整えたルーシェは、自身の職場となる場所に誰よりも先にやってくると、よくわからないテンションでそう叫び、ビシッ、っとポーズを決めていた。


 そこは、ヴァイスシュネーで出される洗濯物をきれいにするための洗い場だった。

 深く掘られた井戸から水をくみ上げ、石造りの洗濯槽(せんたくそう)か洗濯桶(せんたくおけ)を使って衣服を洗い、排水は排水溝から、城館を守る堀に押し流す仕組みになっている。


 その洗濯場で、山積みになっている洗濯物を見て、よしよし、と満足そうにうなずいたルーシェは、さっそく腕まくりをすると、洗濯物の入った籠(かご)をかつぎあげ、洗濯槽(せんたくそう)へと運ぶ。

 それから井戸へと向かったルーシェは、滑車をカラカラと回し、井戸の底から水をくみ上げていく。


「は~。

 やっぱり、お仕事している方が落ち着きます……」


 洗濯槽(せんたくそう)と井戸を往復して中に水を満たしながら、ルーシェは、しみじみとした様子でそう呟いていた。


 月に一度は、かならず休みなさい。

 それは、ルーシェが月に一度程度は必ず本調子でなくなるために、シャルロッテとマーリアから厳命されていることで、毎度毎度駄々をこねてはみるものの取りつく島もないため、ルーシェとしてはしかたなく受け入れていることだった。


 気づかってもらっている。

 そのことはわかっていたし、嬉しいのだが、それ以上にルーシェは、仕事をしていないと落ち着かないのだ。


 ルーシェは、今の生活が好きだった。

 スラム街で暮らしていたように、雨風に野ざらしになって寒さに震えるようなことはないし、毎日きちんと食事をして服を着替えて、入浴することだってできるし、快適なベッドで安心して眠ることだってできる。

 それだけではなく、ルーシェには働いた分だけのお給料も、きちんと出ている。


 しかも、周囲の人々はみんな、ルーシェに優しくしてくれるのだ。

 文句のつけようもないくらい、幸せな毎日だった。


 しかし、お休みだ、と言われて、仕事をせずにいると、ルーシェは不安な気持ちになってしまう。

 自分が今の幸せな生活を続けていられるのは、メイドとして働いているからで、働かない自分はここにいてもいいのだろうかと、そんなふうに思ってしまうのだ。


 誰も、エドゥアルドもシャルロッテもマーリアもゲオルクも、一緒に働いている他の使用人たちも、エドゥアルドの警護についている兵隊たちも、ルーシェが少し休んだくらいでとがめるようなことは絶対にないだろうと、そう思う。

 だが、それでもなんというか、落ち着いていられない気持ちになってしまうのだ。


 だからルーシェは、少し疲れているようなときにでも、空元気を発揮して働くことにしている。

 そうして働いている瞬間こそが、自分が今の幸せな生活を続けていていいのだと、そう思える時間だったからだ。


(……スラムの人たち、どうしているだろうな……。


 エドゥアルドさまのおかげで、ずいぶん、よくなったって聞いているけど)


 そんなふうに考えてしまうのは、ルーシェが、自分はものすごく幸運だったのだと、そう思っているからだった。


 エドゥアルドにメイドとして雇ってもらう以前にルーシェが暮らしていたスラム街での毎日は、それはもう、酷いものだった。

 毎日空腹だったし、まともな家も着るものもない。


 思い出すと、心が痛くなって、悲鳴をあげたくなるような出来事もあった。


 そしてそこに暮らしている人々は、どちらかと言えば悪人ばかりだった。

 盗みといったことはもちろん、強盗だっていたし、詐欺師もいた。

 誰もが、自分が生き延びるためになんだってしていたのだ。


 だが、ルーシェは、中には自ら進んで悪事を働くような極悪人もいるが、スラム街で暮らしているほとんどの人々は、悪人になりたくてなったのではないと知っていた。

 あまりにも貧しい暮らしが人々の気持ちに余裕を無くさせ、他人のことを気づかう心を失わせてしまっていたのだ。


 それは、ルーシェが経験した、スラム街での数少ない[良い思い出]からわかる。

 ルーシェが困っていた時に、スラム街の人々はまず助けてはくれなかったが、まれに手を差し伸べてくれるような人もいたし、互いに助け合って生きようとしているような人々もいたのだ。


 そんな、善人でも、良心を押し殺して、あるいは最初からそんなものなどないのだと思い込んで、生きるためだけに必死になっていた世界。

 そこから、ルーシェと2匹の家族は、救われた。


 自分だけがこんなに幸せでいいのだろうかと、ルーシェは、そんなふうに考えてしまうのだ。


 ただ、ノルトハーフェンのスラム街は、確実に改善されているのだという。

 エドゥアルドが新たに始めた政策で、困窮者には食料や衣料品などの支援が定期的に行われるようになったし、なにより、ノルトハーフェン公国の経済の柱となっている交易を強化するためのインフラ整備事業で、多くの人々が雇われて賃金を得ているのだ。


 エドゥアルドは既存の街道を拡充して整備し、より円滑な交易が可能となるように取り組んでいる。

 また、大商人のオズヴァルトと提携してエドゥアルドは鉄道事業を開始しようとしており、線路を敷くための基礎工事も始まっている。


 こういった土木工事には、多くの労働力が必要とされている。

 そしてその労働力として、多くの貧困層が職を得ているのだ。


 もちろん、これですべてが解決したわけではない。

 工事は長く続くだろうが、それが終わってしまえばまた仕事はなくなってしまうし、力仕事が苦手な貧困層には、この事業でも恩恵は小さい。


 だが、着実に、よくはなっている。


 ルーシェは以前、エドゥアルドが約束してくれたことを、覚えている。

 公爵として、エドゥアルドはスラム街の人々にも手を差し伸べ、ノルトハーフェン公国に暮らすすべての人々が安心して豊かに暮らすことができるようにすると、そう約束してくれたのだ。


 まだ道半ばではあるものの、エドゥアルドはその約束を、しっかり守ろうとしてくれている。


「……ふへへ」


 洗濯籠(せんたくかご)の中にエドゥアルドのシャツを見つけたルーシェは、それを大切そうに抱きしめると、顔をうずめ、だらしないにやけ顔を浮かべていた。

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