第140話:「憂鬱な朝」

 アントンの世話をさせるという名目で、実質的には、彼の自決を延期させるためにルーシェを送り込んだ、その翌日の朝。

 今後のノルトハーフェン公国のことや、帝国のことについて、ヴィルヘルムと一緒に夜遅くまで話し合っていたエドゥアルドは、少し眠たそうに仮のベッドから起き出した。


 あくびをしながら身だしなみを整え、天幕の外に出たエドゥアルドは、朝のひんやりとした空気をめいっぱい吸い込んで、眠気を覚ます。


 もう、季節は本格的な夏を迎えつつあった。

 タウゼント帝国の中でも北方にあるノルトハーフェン公国の夏はさほど暑さは厳しいものではなく過ごしやすく、エドゥアルドにとって好きな季節だった。


(ああ……。早く、故郷に帰りたい)


 そして、エドゥアルドが吸い込んだ朝の空気は、なんとなくだが夏の気配を含んでいるような気がして、エドゥアルドにそんな郷愁(きょうしゅう)の感情を抱かせる。


 だが、まだエドゥアルドたちは、故郷へと帰るわけにはいかなかった。

 他の諸侯たちも同じように、故郷へと帰ることはできない。


 なぜなら、昨日の御前会議で議題にのぼった事柄について、帝国はまだなにも決められていないからだ。


 アルエット共和国という、このヘルデン大陸に出現した新しい国家に対して、どう対応していくのか。

 特に重要なのは、現在、共和国軍の逆襲を受けているバ・メール王国を救援するか否か、ということだ。


 もし帝国が救援しなければ、バ・メール王国は耐え切れずに、共和国軍に屈服することとなるだろう。

 帝国と血縁関係にあり、以前から友好関係にあった国家が消滅するだけではなく、その国家がすべて、帝国と敵対関係にあるアルエット共和国の勢力下に入ってしまうのだ。


 帝国は、強大な国家だ。

 ヘルデン大陸の中央部を支配し、その国土は広大で、国民も多く、ノルトハーフェン公国や帝都を中心として経済も発達している。


 そんなタウゼント帝国だから、現状でも、共和国軍と対峙していくのに十分な余力を残している。

 共和国の侵攻に動員しなかった分の兵力を動員すれば、まだ、共和国軍を単独で優越するだけの兵力をかき集められるのだ。


 だが、それは帝国と共和国が[1対1で]戦える状況でのことだ。

 それ以外の第三者、帝国が巨大であるがゆえに接しているいくつもの周辺諸国の動向によっては、この、タウゼント帝国の強力さをもってしても、困難な状況に陥ることになるだろう。


 バ・メール王国を下した共和国が、次に帝国へと目を向ける可能性は大きい。

 そして、その共和国が、タウゼント帝国の周辺国家と図(はか)って帝国を攻撃して来たとしたら。


 共和制国家と、君主制国家。

 その、水と油のような勢力が協力することは考えづらいことかもしれなかったが、単純に利害関係だけを取るのならば、協力して帝国を攻めるのは実にオイシイ話だった。


 成功すれば、通常であれば決して味わうことのできないような[果実]を、味わうことができるからだ。


 共和国が動かずとも、帝国の周辺諸国の方から共和国にそのような密約を持ちかけるかもしれない。

 [協力して、帝国を挟みうちにしよう]、そんな、利益を得られる可能性の大きな提案をされて、食指を動かさずにいられる者がどれほどいるだろうか?


 遠交近攻という言葉があるが、エドゥアルドが危惧しているのは、まさにそんな状況が生まれるかもしれないということだった。


 最悪なのは、周辺諸国がすべて同盟を結び、一斉に帝国領へと侵攻してくることだった。

 そうなれば、さすがの帝国といえども総兵力では劣ることとなり、各地の防衛を捨てて兵力を集中し、ムナール将軍のように決戦を挑んだとしても、勝利できる可能性は小さなものとなるだろう。

 敵は四方から攻めよせるだろうし、そして、その一翼には、確実にあの軍事の天才、ムナール将軍がいるのに違いないからだ。


 だからそうなる前に、なんとか共和国軍を押しとどめなければならない。

 バ・メール王国には何としてでも粘ってもらって、共和国に、帝国へと目を向ける隙を与えないようにしてもらわなければならないのだ。


 バ・メール王国を、帝国を守るための防波堤に使う。

 そう言えば聞こえは悪いが、帝国から支援を受けられるとすれば、それはバ・メール王国にとってはなによりもありがたいことに違いなかった。

 現在進行形で共和国軍からの圧迫を受けている王国が生き残る道は、おそらくは帝国から支援を受けることしか残されてはいないからだ。


 だが、諸侯の反応は、鈍い。

 多くの諸侯は戦争の疲弊(ひへい)によって故郷に帰りたがっているし、バ・メール王国を救援するべきと言っている諸侯も、それを「自分がやる」とは言い出さず、内心では他の諸侯と同じように帰りたがっているのが見え透いている。


 朝の空気は、夏の到来を予感させる爽(さわ)やかなものだった。

 だが、エドゥアルドの気持ちは、憂鬱だった。


 多少無理をしてでも、バ・メール王国を救援し、帝国が旧態依然とした体制を刷新し、盤石な体制を整える時間を作る。

 エドゥアルドはそうしたいと思っているのだが、思うように物事は進んでいかない。


 意外と、公爵というものも、窮屈(きゅうくつ)なものだ。

 それが、最近になってエドゥアルドが気づかされたことだった。


(せめて、アントン殿のお力を、得られればな)


 エドゥアルドは、そう願わずにはいられなかった。


 敗戦の責任を、多くの将兵を死なせながら勝利の栄光を得られなかった罪を、一身に背負って命を絶つ。

 そのアントンの覚悟は、並の人間にできることではないし、そうすることによって、戦争という行為を実行しようとする者たちにその[重み]を思い出させようというアントンの考えは、エドゥアルドも共感できるところはある。


 しかし、エドゥアルドは、そして帝国は、これから訪れるかもしれない危機を乗り越えていくために、なによりもアントンの力を必要としていた。


そのために、エドゥアルドはヴィルヘルムと、どうやってアントンを翻意させるか、盛んに意見交換している。

今日もこれから、ヴィルヘルムとそのことについて話し合うつもりだった。


 あとは、ルーシェが、うまく時間を稼いでくれれば。


 ルーシェが、緊張しているような表情で、エドゥアルドのところに向かってやってきたのは、エドゥアルドがそんなことを考えながら、こった筋肉をほぐすために肩をグルグルと回していた時だった。

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