第117話:「道:3」
帝国軍は、帝国と共和国との国境となっている大河、グロースフルスの渡河点から、まず西に向かって進撃し、それから北上するという経路をたどって、ラパン・トルチェ平原へと至っていた。
だから、帝国にとって唯一確実に把握できている帝国へと帰る道は、エドゥアルドたちの位置から見て、南東へとのびている道だった。
多くの帝国軍は、その道を通って帝国へと向かって行った様子だった。
帝国軍が遺棄(いき)していった物資や、置き去りにするしかなかった負傷兵たちは、その方角へと点々と続いている。
だが、エドゥアルドたちは、その道を外れ、そこからまっすぐ東を目指すことにした。
これには、共和国軍の予想の裏をかき、追撃や待ち伏せをかわす、という狙いもあったが、撤退途中での物資の確保という意味もあることだった。
1度通った道を戻る。
そこを通って行けば確実に帝国へと帰り着くことができると誰もが知っているし、まともな地図さえ用意して来なかった帝国軍にとっては、ヘタに来た時と違う道に向かって迷子になる、というのは、なんとしても避けたいリスクだった。
だが、帝国領までの数百キロにも及ぶ行程の間に必要となる物資は、ほとんど得られないはずだった。
なぜなら、道中にある街や村にあった物資は、すでに帝国軍によってあらかた接収されてしまっていたからだ。
加えて、エドゥアルドたちはもっとも後に戦場から離れたからエドゥアルドたちの先に、すでに何万もの帝国軍の将兵が通過して行っているのだ。
きっと、わずかに残っていた物資も、帝国軍によって根こそぎ奪われ、エドゥアルドたちがたどり着く時にはなにも残されてはいないだろう。
それに、エドゥアルドはできれば、ソヴァジヌのように、民衆を傷つけてまで略奪する、という行為を行いたくなかった。
そんな甘っちょろい、青臭い理想に執着している場合ではないだろうという気持ちもあったが、エドゥアルドは、たとえ敵国の民衆であっても、武器を突きつけて奪うという蛮行を働くような指導者には、絶対になりたくなかったのだ。
知った道である南東にではなく、東に進む。
それは、兵士たちに少なからず戸惑いを呼び起こしたが、しかし、彼らはエドゥアルドたちの決定に従い、東に向かって行軍を開始した。
戦争の勝敗を決める決戦に敗北こそしたものの、エドゥアルドたちは戦場からの撤退戦でたくみに戦い、多くの兵士たちを生還させた。
その実績と、エドゥアルド自身が、自身の愛馬に負傷兵を乗せた馬車を引かせてでも、できるだけ多くの兵士を帝国へと連れて帰ろうという姿勢が、兵士たちからの信頼を勝ち得ているようだった。
街道を、兵士たちの隊列がぞろぞろと東へ向かっていく。
ここは敵地であることから、その隊列の左右には、軽歩兵たちが散兵線を作って警戒しており、また、そのさらに外側には、いくつもの騎兵の小さな集団が散らばって、警戒線を作っていた。
せっかく敵の目をあざむくために東へと進路を向けたのだから、できれば、できるだけ目立たないようにしたい。
しかし、そもそも3万近くもの軍勢が行軍する様子を完全に隠すことなど不可能な話で、エドゥアルドたちはその点は割り切って、周辺警戒を厳重にして撤退を続けていった。
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まだ帝国に帰り着いていない以上、安心することはできなかったが、今のところ、エドゥアルドたちの撤退は順調に進んでいた。
毎日、できるだけの距離を歩いて、夜も番を立てて交代しながら、ほとんど眠れない夜を過ごす。
そんな過酷な状況ではあったが、エドゥアルドたちが東に向かって撤退するとは共和国軍は思っていなかったらしく、待ち伏せにも、追撃にも遭遇することがなかった。
加えて、潤沢(じゅんたく)とは言えないものの、なんとか、飢(う)えをしのげるだけの物資は手に入っていた。
銃口を突きつけて脅して、通過する村や街から物資を奪う、という強引な手法をとらざるを得なかったが、これまで軍隊による物資の徴収を受けずに済んでいた共和国の人々はいやいやながらも物資を差し出してくれており、ソヴァジヌのような凄惨(せいさん)な略奪は起きずに済んでいる。
しかし、まだまだ、帝国までは遠かった。
エドゥアルドたちが選んだ道は、まっすぐ帝国へ向かう道よりも少しだけ遠回りになってしまうから、なおさら日数がかかる。
その間、着の身着のまま、髭(ひげ)を剃(そ)っている余裕もなく、兵士たちの顔は疲労からか段々とやつれたようになり、無精ひげを生やした顔が多くなっていった。
服もすっかり旅塵に汚れて、帝国軍の権威を示すために壮麗な見た目だった軍装も、すっかりみすぼらしくなっている。
敗走する軍隊。
まさしく、そんなありさまではあったものの、兵士たちは規律を保って行進し、その装備する武器も、いつでも使える状態になんとか保たれていた。
兵士たちの士気が保たれているのは、今のところ撤退が順調に進んでいるということに加えて、エドゥアルド自身も兵士たちと一緒になって歩くなど、命令を出す側と出される側が連帯感を持ち続けることができていることが大きかった。
それに加えて、負傷者をできるだけ帝国まで連れて行くという、エドゥアルドたちの決意。
それが、兵士たちの心情を支えていた。
負傷兵をたくさん乗せた馬車の上では、戦場にまでエドゥアルドについてきてしまった使用人たちが、負傷兵たちの看護をかいがいしく続けている。
1台の馬車に最低1人は看護のために使用人を乗せるようにされており、使用人たちは負傷兵の様子を観察し、食事や水を与えたり、時折包帯を変えたりと、忙しそうに働いている。
中でも、元々はエドゥアルドの私物などを乗せていた、御者のゲオルクがあやつる馬車は他よりもにぎやかというか、雰囲気が明るかった。
それが比較的に質のいい馬車であって、乗用馬車に比べれば劣るものの、他の荷馬車を転用したものより乗り心地がマシだということと、その馬車に乗っている看護担当の使用人が、ルーシェたちだからだった。
ルーシェはこんな時でも屈託(くったく)のない明るい笑顔で、元気に働く姿を見せていて、その様子が負傷兵たちの気持ちを明るくしてくれているようだった。
それだけではなく、ルーシェの乗っている馬車には、2匹の動物まで同行している。
犬のカイに、猫のオスカー。
彼らはルーシェの手伝いをしたり、傷の痛みに苦しむ兵士たちによりそったりして、献身的に兵士たちを支えてくれている。
エドゥアルドたちはみな、傷つき、疲れ果てていたが、それでも、全員で協力して、帝国に帰還するために歩き続けていた。
しかし、やはり、このまますべてなにごともなく、とはいかなかった。
エドゥアルドたちがグロースフルスの川岸に到達し、進路を南へと変えたころ。
エドゥアルドたちの前に、共和国軍の追っ手が姿をあらわしたのだ。
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