第100話:「策士:1」
ラパン・トルチェの会戦での敗北を認め、皇帝・カール11世を逃がし、とにかくその安全を確保した帝国軍だったが、まだ、戦場で戦いは続いていた。
すでに全軍に対して撤退命令が発せられてはいたものの、前線で戦っている諸侯の軍すべてにその命令が行きわたるまでには、タイムラグがあるからだ。
本営では、撤退を命じるためのラッパが鳴らされ、煙弾も打ち上げられてはいるものの、激しい砲撃音と無数の発砲音に包まれ、黒色火薬によって発生する濃い硝煙に覆われている前線では、その合図に気づくことができるとは限らない。
特に、帝国軍左翼、ヴェストヘルゼン公国軍は、激しく戦い続けていた。
帝国軍最精鋭であると自認するヴェストヘルゼン公爵・ベネディクトは、その名誉にかけて、共和国軍による逆包囲を跳ね返そうとしているようだった。
ヴェストヘルゼン公国軍が踏みとどまって戦い続けているのは、善戦していると言える。
すでに、敵数の確認に戻った伝令から、連合軍左翼を包囲した敵の援軍は5万であるとの報告が来ているから、ヴェストヘルゼン公国軍は共闘している帝国軍左翼の4万を上回る敵と戦っていることになる。
しかも、正面には共和国軍の主力がいるのだ。
にもかかわらず、壊走せずに戦い続けているのは、ヴェストヘルゼン公国軍が精強であるだけではなく、ベネディクト公爵の指揮能力の高さも物語っている。
また、帝国軍左翼を支援する任務についていたオストヴィーゼ公国軍も、よく戦っていた。
大放列によってズィンゲンガルテン公国軍を打ち破り、歩兵部隊を進撃させて突き崩し、完全に壊走させた共和国軍は、帝国軍の左翼を包囲・殲滅(せんめつ)するべく、攻勢を強めていた。
その猛攻を、オストヴィーゼ公国軍はどうにか抑え込んでいるのだ。
もしオストヴィーゼ公国軍が戦わずに撤退したり、崩れたりしたら、帝国軍左翼の4万の兵力は全滅するか、降伏するかを余儀(よぎ)なくされる。
オストヴィーゼ公爵・クラウスは、そのことをよく理解しており、勝ち誇って士気が高揚し、勢いに乗っている共和国軍の攻撃に耐え続けている。
しかし、善戦しているからといって、ここから巻き返すことなどできないだろう。
すでにズィンゲンガルテン公国軍は壊走し、その兵士たちはもはや彼らにとっての重りでしかない武器を捨てて逃げ出しており、収拾がつけられない有様であったし、連合軍右翼のバ・メール王国軍とは、完全に連絡が途絶している。
バ・メール王国軍もまだ戦っているらしいということは、共和国軍の攻撃が連合軍右翼でも続けられていることから明らかではあったが、帝国軍同様、この状況から逆転することはできないだろう。
じきに、撤退命令が伝わり、すでに皇帝が退いたことを知れば、諸侯は続々と後退を始めるだろう。
当然、共和国軍は勝に乗じ、より戦果を拡大するべく、追撃戦を始める。
それをなんとか押しとどめ、より多くの帝国軍を撤退させるのが、殿であるエドゥアルドたちの務めであった。
エドゥアルドは必ずこの任務を成功させ、自分自身も生きて帰るつもりだったが、しかし、どうすれば良いのか、少しも自信が持てなかった。
エドゥアルドにとってはこれが初陣であったし、なにより、3万の兵力で20万の、そのすべてではないだろうが少なくともこちらを圧倒することになる大兵力に対し、どう戦えばいいのか、わからない。
もちろん、エドゥアルドはこういった時のために学習に励んできていたし、自分はノルトハーフェン公爵なのだという自負もあったから、まったくの無策であるわけではない。
どんなふうに指揮下に入った兵力を動かすのか、エドゥアルドにはいくつもの考えがすでに浮かんできている。
幸いなことに、アントン大将が自ら志願し、エドゥアルドの指揮下に入っている。
それで兵力の劣勢がどうにかなるわけではないが、少なくともエドゥアルドの手元には元々の倍の兵力があることになるから、心強かった。
エドゥアルドとしては、年長であり、軍歴豊富で、その能力も確かなアントンに指揮をとらせた方がいいのではないかと思えるのだが、帝国では帝国陸軍大将という肩書よりも公爵という爵位の方が地位は上で、アントンがエドゥアルドの指揮下に入ることが帝国では自然なことなのだ。
アントン自身も「自らの失敗でこの敗戦を招いた」という自責からか、自ら指揮をとろうとは思っていない様子だった。
3万もの人々の命運を、エドゥアルドの一言が左右する。
それだけでも重しなのに、エドゥアルドの働きの結果は、帝国軍、13万の将兵の命運を決めるのだ。
とても、自分一人だけでは決められない。
だが、そんな時には、「臣下の者をうまく用いよ」と、かつて述べた人物がいた。
そしてその人物は、エドゥアルドのことを、いつもの、得体のしれない柔和な笑みを浮かべながら待っていた。
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ノルトハーフェン公国軍は、すでにすべての戦闘態勢を整え終えていた。
そして、各部隊の指揮官が集合し、エドゥアルドの指示ですぐに動けるようにされている。
エドゥアルドが、自身の到着を待っていたヴィルヘルムに、どう戦えばよいかをたずねると、ヴィルヘルムは折り畳み机の上に広げられた地図を指さし、すらすらと、どのようにノルトハーフェン公国軍を運用すればいいのかを説明してくれた。
どうやら、集まった指揮官たちにはすでに説明も終わっているらしい。
エドゥアルドがいくつか確認するように問いかけると、場合によっては、ヴィルヘルムに代わってペーターなどの現場の指揮官たちが、エドゥアルドの疑問に答えてくれた。
基本的な作戦としては、帝国軍の退路となる経路上の要所を抑え、そこで追撃してくる共和国軍を迎えうち、撃退しつつ、少しずつノルトハーフェン公国軍も後退していくというものだ。
どこにどの部隊を配置すればよいのかも決まっていて、指揮官たちも全員、そのことをよく理解しており、あとは、エドゥアルドの命令を受けるだけ、という状態だった。
エドゥアルドは、ヴィルヘルムの準備の良さ、そしてその作戦の詳細さに、驚かされた。
まるで、ヴィルヘルムはこうなることを知っていて、先に準備をしていたようだった。
そうでなければ、帝国軍の退路を想定して、どこが部隊を配備するべき要所となるのかを事前に調べておくことなどできないはずだった。
しかも、ヴィルヘルムは殿として加わったアントンの指揮下の部隊も、どのように運用すればよいのかをすぐに示してくれた。
これも、あらかじめ帝国軍の一部が殿に加えられることを予期して、計画していた様子だった。
その内容についてエドゥアルドがアントンに確認してみると、アントンも、ヴィルヘルムの準備の良さに驚いている様子で、「異論はございません」とうなずいてみせた。
ヴィルヘルムが用意していた撤退作戦は、アントンを納得させるだけの精度だということだった。
「わかった。
プロフェート殿の作戦に従って、動こう。
みな、さっそく、かかってくれ」
共和国軍の攻勢は今も続いており、ヴィルヘルムの作戦に皆が納得している以上、他に議論するべきことも時間もない。
エドゥアルドがそう指示を出すと、ノルトハーフェン公国軍の指揮官たちも、アントンも、すぐに動き出した。
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