第87話:「約束:2」

 エドゥアルドの身に、なにか起こるのではないか。

 そう心配しているルーシェの気持ちは、強く、まっすぐなものだった。


 エドゥアルドが、ルーシェにとっての仕えるべき主人だから。

 そういう、使用人としての気持ちもあるのには違いなかった、ルーシェのエドゥアルドへの心配は、もっと、別の意味を持っている。


 ルーシェにとって、エドゥアルドは、恩人だった。

 ノルトハーフェンのスラム街で、今にも消え去りそうな存在であったルーシェに、メイドとなることを引き代えにして衣食住を与え、カイ、オスカー、2匹のルーシェの家族と一緒に、飢えにも寒さにもおびえずに済む暮らしをもたらしてくれた、命の恩人。

 ルーシェたちに、「自分たちはここにいていいのだ」と、そう思える、[居場所]を作ってくれた存在。


 そして、そんなルーシェのために、時に怒りをあらわにして、守ろうとしたのが、エドゥアルドだった。

 エドゥアルドはかつて、ルーシェのためにサーベルを抜き、ノルトハーフェン公国で簒奪(さんだつ)の陰謀をめぐらせていたフェヒター準男爵という貴族と、決闘を戦ったこともあった。


 そんなエドゥアルドは、ルーシェにとっては、単純な[主人]ではなく、ただの[恩人]でもない。


 心底から、無事でいて欲しい。

 幸せであって欲しい。

 そう願う相手であるのだ。


 幼いころからノルトハーフェン公爵となるべく英才教育を施され、そして、まだ若年の内に両親を失ったエドゥアルドにとって、ルーシェのように、自身の損得や立場を超えた感情を向けてくれる存在は、いなかった。

 誰もが、エドゥアルドのことを[公爵]として見ていて、[エドゥアルド]としては見てくれなかった。


 だが、ルーシェは、[エドゥアルド]のために深刻な不安をいだき、心配に押しつぶされそうになり、その無事を祈っている。


 エドゥアルドとしては、むしろ、ルーシェのことの方が心配だった。

 だから、彼女とケンカをしても、ノルトハーフェン公国に残るように命じたのだ。


 だが、ルーシェはそんなエドゥアルドの言いつけを破ってまで、この場にいる。


 それは、エドゥアルドにとっては困ったことであり、嬉しいことでもあった。


「ルーシェ。

 そんなに、心配しなくていい。


 お前は、いつもみたいに、一生懸命に、自分にできることをしてくれれば、それでいい。


 そうすれば、僕はきっと、お前を、ルーシェを、迎えに行く。

 絶対に、お前に黙って、どこかに行くようなことは、しない。


 そう、約束する」


 そんな気持ちにさせてくれるルーシェだからこそ、不安なままでいさせたくない。

 そう思ったエドゥアルドは、コーヒーのカップをテーブルの上に置き、イスから立ち上がってルーシェに近づくと、軽く片膝をつくような姿勢をとって、ルーシェに向かってそう宣言していた。


 ルーシェは、そのエドゥアルドの仕草に驚き、双眸(そうぼう)を見開いた。

 しかし、すぐにその瞳をうるませると、そうせずにはいられないといった勢いで、自身の両手で包み込むようにエドゥアルドの右手を握りしめた。


「絶対、で、ございますよ」


 そして、真っすぐにエドゥアルドのことを見つめながらそう言うルーシェの声は、震えている。


「ああ。

 絶対、だ」


 エドゥアルドもルーシェのことをまっすぐに見つめながら、そう言ってうなずく。


 しかし、ルーシェはなかなか、エドゥアルドの手を離してはくれなかった。

 エドゥアルドの言葉には少しの疑いも持ってはいない様子だったが、ルーシェはその境遇からか、世の中には人智の及ばないことも存在しているのだということを、骨身に刻まれている。


 どんなに努力をして、最善の選択肢を選び続けたとしても、大きな力の前ではどうにもならないことがある。

 ルーシェはスラム街で必死に生き延びようとしていたが、もし、偶然エドゥアルドのメイドとならなかったら、そこで終わっていたはずなのだ。


 それがわかるエドゥアルドは、ルーシェの手を握り返し、彼女の気が済むまで、そのままの姿勢でいた。

 そして同時に、2度と、ルーシェのような思いをする人が、ノルトハーフェン公国から生まれないようにしようという決意を固くしていた。


 そうして、数十秒。

 2人は無言のまま、お互いの手を握ったまま、見つめ合っていた。


「失礼いたします、公爵殿下」


 突然テントの外から聞こえてきたシャルロッテのその言葉で、エドゥアルドとルーシェは慌ててお互いの手を離した。

 そして、お互いに手を握り合い、じっと見つめ合っていたという行為が今さら恥ずかしくなってきて少し頬を赤く染めながら、2人はできるだけなにごともなかったかのようなふうをよそおう。


「は、入ってくれ」


 それからエドゥアルドがそう許可を出すと、シャルロッテは静かにテントの中に入ってきて、優雅で気品のある一礼をして見せた。


「公爵殿下、ルーシェはこちらに……、いえ、いましたね」


 そしてそう用件を口にしようとしたシャルロッテは、ルーシェに視線を向けた。


「えっと……、私、で、ございますか? 」

「そうです。

 これから、負傷者の方々の治療の準備をしなければなりませんので、あなたを探していたのです。


 戦闘が始まれば、後方に下がって、負傷者の治療を行う。

 そういう話になっていたでしょう? 」

「あっ、はい、そうでございますね!

 ですが、そのぅ……、エドゥアルドさまの、お世話の方は……? 」


 シャルロッテの言葉で事前の取り決めを思い出したルーシェだったが、未だにエドゥアルドと離れがたく思っているらしいルーシェは、まだ未練がましい様子で、エドゥアルドの方をうかがい見る。


 しかし、エドゥアルドは無言で、視線だけで「行け」とルーシェに命じた。

 ルーシェをこのまま戦場となる場所に置いておくことは、やはりできないことだからだ。


 ルーシェはあからさまにがっかりした様子だったが、事前に決められていたことでもあり、必ず迎えに行くとエドゥアルドから約束をしてもらっていたために、それ以上はなにも言わず、大人しくシャルロッテに従った。


 だが、ルーシェは去り際、エドゥアルドに挨拶をする際に、少しだけだが微笑みを見せた。

 どうやら、エドゥアルドとの約束を、信じてくれている様子だった。


 そして、そのルーシェの微笑みを目にしたエドゥアルドは、不思議と、自分自身も抱いていた不安感が薄れ、なんというか、[腹が決まった]ような心地になっていた。

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