第86話:「約束:1」

 ノルトハーフェン公国軍の野営地へと戻ったエドゥアルドは、さっそく、主だった将校たちを呼び集め、軍議で決まった作戦を伝え、明日の決戦のための準備を開始せよと命令を下した。

 ペーターを始め、将校たちは、すでに周囲の諸侯の様子から明日の決戦のことを予想していたようで、少しも騒ぐようなこともなく、行動を開始した。


 どうやら、ノルトハーフェン公国軍には、他の諸侯たちの陣営にあるような[高揚感]は小さいらしく、決戦の準備は静かに始められた。

 それは、エドゥアルド自身が、どちらかと言えば悲壮な、険しい様子でいたからだろう。

 そのエドゥアルドの様子から、予備兵力であるとはいえ、明日の戦いがノルトハーフェン公国軍にとって厳しいものになるかもしれないと、みながそう理解したのだ。


 しかし、だからと言って、士気を阻喪(そそう)してしまったわけではない。

 ノルトハーフェン公国軍はエドゥアルドが実施した改革によって新しい戦い方を身につけてあり、逆境にあっても戦えると、そういう自信を身に着けてもいた。


 もし、帝国軍にとって不利な戦いになるのだとしても、自分たちの力でその逆境を跳ねのけて見せる。

 今こそ新しい自分たちの戦い方の威力を示す時だと、ノルトハーフェン公国軍の兵士たちは静かに闘志を燃やしている様子だった。


 指示を出し終えると、後のことは部下たちがしっかりと進めて行ってくれる。

 エドゥアルドにとってあとやっておくべきことは自分自身の身支度であり、明日のために少し仮眠をとって休んでおくこともできるはずだった。


 しかし、エドゥアルドはそのまま、起きていることにした。


 表向きの理由としては、もしなにかエドゥアルドの指示をあおぐ必要のあることが起きても、すぐに対応できるように、ということだった。

 自身の初陣を、それも数十万規模の大軍がぶつかり合う大きな会戦を前にして、とても、落ち着いて寝ていられるような気分にはなれなかった。


「エドゥアルドさま。

 コーヒーを、お持ちいたしました」


 エドゥアルドが自分の身だしなみを整え、テントに用意されたイスに腰かけて、静かに明日の決戦のことを考えていると、ルーシェがそう言ってコーヒーを持ってきてくれた。


ルーシェ、まだ、起きていたのか?

 お前も明日は忙しくなるんだから、少しは休め。


 エドゥアルドはルーシェにそう言おうとして、すぐにその言葉を飲み込んだ。


 そんな、ありきたりな優しい言葉では、ルーシェは大人しく休んだりはしないと、エドゥアルドにはわかっているからだ。


「ありがとう、もらうよ」


 だからエドゥアルドはただそう言って、ルーシェにコーヒーをついでもらい、口へと運ぶ。

 するとエドゥアルドは、いつものコーヒーと、味が違うことに気がついた。


(……濃い? )


 補給不足によってここしばらくの間、薄めたコーヒーばかり飲んでいたから、そう感じるわけではなさそうだった。

 ランプの明かりに照らしてみると、カップの中に満たされたコーヒーの色は黒々としていて、明らかに意図して濃くいれられているようだった。


「その……、エドゥアルドさま、今夜は、眠らないおつもりでいらっしゃるようでしたので。


 お口に、合いませんでしたか……? 」


 エドゥアルドが問いかけるような視線を向けると、ルーシェは少し不安そうに、上目遣いでそう答える。


「いや。

 その通りのつもりだったから、ありがたいよ」


 そんなルーシェに、エドゥアルドは微笑んで見せると、さらにコーヒーを飲み進める。

 エドゥアルドの様子からコーヒーの濃さを調整してくれたルーシェの配慮が、素直に嬉しかった。


「ルーシェ、お前も、1杯どうだ?


 どうせお前も、今晩は眠くならないんだろ? 」


 それからエドゥアルドがそう言うと、ルーシェは少し驚いてから、それからしばらくして、おずおずといった様子で「では、お言葉に甘えて……」と、自分用のカップを用意する。


 エドゥアルドは、コーヒーをそそぐルーシェの手が、小刻みに震えているのを見逃さなかった。


(懐かしいな)


 エドゥアルドは、つい、数か月前のことを思い出す。

 メイドになりたてのルーシェは、一生懸命だったが、いつもこんなふうに緊張して、カタカタと小刻みに震えていた。

 その震えが、彼女の数々のドジの原因にもなっていたのだ。


 しかし、今のルーシェの震えは、緊張からではないだろう。


 怖がっているのだ。

 明日起こる決戦に。


 たくさんの兵士たちが、傷つき、倒れることになるだろう。

 中には、手足を失う者や、命を失う者さえ、いるだろう。


 そして、その中に、エドゥアルドも含まれることになるかもしれない。


 ルーシェは、今、心配でたまらない気持ちになっているのだろう。


 その証拠に、彼女は普段、コーヒーなど「苦いから」と言って飲まないのに、自分の手でついだ濃いコーヒーを、一息で飲み干していた。

 味もわからないくらい、不安なのだ。


「大丈夫だ、ルーシェ。


 僕は、必ず、戻って来るから」


 そんなルーシェに、エドゥアルドはそう言って、できるだけ明るい笑顔を浮かべて見せる。


 驚いたようにエドゥアルドの方を振り向いたルーシェは、やはり、不安そうな顔だった。

 元々彼女は、自分には見えないところでエドゥアルドになにか起こるのではないかと、心配でたまらず、屋敷を抜け出してきてしまったのだ。

 実戦を前にして、その不安はどんどん、大きくなり続けているのだろう。


 大丈夫だ。

 そのエドゥアルドの言葉を聞いて、エドゥアルドの笑顔を見ても、まだ、ルーシェの不安は消えないようだった。

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