第66話:「追いかけてきた者たち:1」

 帝国軍がグロースフルスの渡河を実行したその日も、その次の日になっても、共和国軍は反撃をしかけてこなかった。

 バ・メール王国軍に対しては、国境線で奇襲をしかけるほど積極的であったはずなのに、帝国軍に対して共和国軍は沈黙を保っている。


 バ・メール共和国にあっさり敗退したから、消極的になっているのだろう。

 あるいは、帝国軍の数が多く、精強であることを、恐れているのだろう。

 帝国軍の諸侯はこのように楽観的で、誰もかれもが浮かれていた。


 熱狂に突き動かされ、諸侯が先を争うように進軍を続けていた帝国軍だったが、グロースフルスを渡河してから10日ほどが経過した時、皇帝は1度態勢を整えさせるために、諸侯に対して進軍の停止と、部隊の集合を命じた。


 急激な進軍を行ってきたために、帝国軍の先頭はすでに300キロメートルも進出を果たしており、その隊列があまりにものびきっていて、共和国軍からすれば絶好の攻撃のチャンスであった。

加えて、比較的大きな都市を帝国軍が占領することに成功し、そこを拠点とすると、乱れた軍隊の統制を立て直すのにちょうど良かったからだ。


 ソヴァジヌという名を持つその都市は、人口10万以上を誇る古くからの街で、古代から存在する城壁に囲まれた旧市街地と、中世以降にその周囲にも拡大した市街地を持つ、交通の要衝(ようしょう)の街だった。

 ソヴァジヌからは東西南北に街道がのびており、東にずっと行けばタウゼント帝国に、西に行けばアルエット共和国の首都にたどりつき、南北にある主要な都市へも容易に移動できる場所だ。


 そこに拠点を置けば連絡に便利だったし、タウゼント帝国からの補給線も確保できる。

 おまけに、規模の大きな都市であるために、多くの将兵を休ませることのできる家屋があり、蓄えられた物資により補給物資の現地調達も望めるだろうと思われた。


 共和国軍は、やはり、ここでも抵抗を見せなかった。

 それどころか、軍隊の姿はどこにもなかった。

 ソヴァジヌには現地の警察組織などが残っていたが、軍隊に反撃できるほどの武力を持たないそれらも、まったく抵抗せずに投降し、ソヴァジヌは無血占領されることとなった。


 帝国軍は、ここに至るまでほとんど交戦を経験していない。

 本隊からはぐれた小規模な部隊や、地元を守るべく結成された民兵組織との些細(ささい)な交戦こそあったものの、正規軍との本格的な戦闘はなく、帝国軍内に漂う楽観的なムードはさらに色濃いものとなっていた。


 帝国軍がここまで快進撃を続けてきたというだけではない。

 帝国と共同してアルエット共和国に進軍したバ・メール王国軍からも、快進撃が続いているという報告が入っているからだ。


 まだ帝国軍とアルエット共和国の首都との間には数百キロメートルの距離があるが、すでに、カール11世とバ・メール王国のアンペール2世は、戦後のことについて話し始めているほどだった。


 帝国軍は、その全体が、戦勝ムードに支配されつつあった。


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 アレクサンデル・ムナール。

 その敵将の存在を強く意識していたエドゥアルドだったが、ここまで快進撃が続くと、さすがに不安も薄れてきていた。


 なにしろ、本当に、まったく、ムナールに率いられている共和国軍は抵抗してこないのだ。

 帝国軍に無血占領されたソヴァジヌでも、そこに住んでいた人々は帝国軍に対して協力的で、内心はどうかわからないものの、物資や家屋を帝国軍のために提供している。

 なんでも、あえて帝国軍に抵抗せずともよいと、ムナールから伝達がなされているらしく、人々は身の安全をはかるために帝国軍に協力している。


 このまま、本当に、勝ててしまうのではないか。

 エドゥアルドは、自分のためにあてがわれた、地元の有力者の屋敷の一室でのんびりとくつろぎながら、そんなふうに思ってしまう。


「エドゥアルドさま!

 このまま、なにごともなく、戦争が終わるといいですね! 」


 ソファーに深く腰かけているエドゥアルドのかたわらで、いつものようにメイドとして働いていたルーシェも、嬉しそうな様子だった。


「ああ、そうだな」


 エドゥアルドはそう同意しつつ、ルーシェがいれてくれたコーヒーをすする。


 正直なところを言えば、まったく戦闘が起こらないのも、物足りないと思っている。

 しかし、戦闘がなければ死傷者も生まれない、と素直に喜んでいるルーシェの手前、エドゥアルドはそんな内心は黙っていることに決めている。

 エドゥアルド自身、戦ってみたいという自分の考えは、危険なものであるとわかっているからだ。


 それに、このまま戦闘が起こらずにこの戦争が終結してしまえば、エドゥアルドにとってもルーシェにとっても、今回の出征は、ただの[旅行]として記憶されることになるだろう。

 今まで見たことのない場所に行って、見たことのないものを見て、触れる。

 陰惨な戦場の光景を持って帰るよりも、その方がずっと楽しい。


「エドゥアルドさま、コーヒーのお代わりは、いかががでございますか? 」


 実際、ルーシェは能天気に、この従軍を楽しんでいる様子だった。


 エドゥアルドの側を離れて、その安否を心配して押しつぶされるようになるよりは、たとえ危険でもついていく。

 そう悲壮な覚悟で今回の出征についてきたルーシェだったが、帝国軍全体を支配する楽勝ムードにすっかり染まっているようだった。


 そんなルーシェの笑顔に、エドゥアルドも思わず微笑みながら、「ああ、もらうよ」と言おうとした時。

 部屋の扉が、こん、こん、こん、こん、と4回、丁重にノックされた。


「公爵殿下。

 本国より、お客さまでございます。

 お通しいたしましても、よろしいでしょうか? 」


 そして、部屋の外で警備をしていた兵士がそう告げる。


「客?

 ノルトハーフェンからか? 」


 エドゥアルドはそういぶかしんで、眉をひそめていた。


 ここはすでにタウゼント帝国の国内ではなく、敵地で、しかも国境から数百キロメートルも離れている。

 こんな場所までノルトハーフェン公国から人がたずねてくるとは、想像しがたいことだったのだ。


「かまわない。通してくれ」


 エドゥアルド不在の間、公国の統治を任せてきた宰相のエーアリヒ準伯爵から、なにか連絡があって使者でもやって来たのだろう。

 そう思ったエドゥアルドは、空になったコーヒーカップをルーシェに差し出す代わりにテーブルの上のソーサーに戻しながら、兵士の問いかけにそう答える。


 そして、部屋の扉が薄く開いた瞬間だった。

 そのすき間から、2つの影がするっと駆け込んでくると、エドゥアルドではなくルーシェの方へ向かって一目散に向かってくる。


 あっと思った時には、もう、2匹の毛むくじゃらは、驚いて目を丸くしていたルーシェに向かって飛びかかっていた。

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