第64話:「アレクサンデル・ムナール」

 アレクサンデル・ムナール。

 その名前は、ほんの数年前までは、まったくの無名であった。


 元々は、まだ王制が続いていた時代のアルエット王国軍の士官で、砲兵隊を指揮していたらしい。

 しかし、ムナールは民衆の革命に参加し、そして、頭角をあらわしていった。


 その用兵の特徴は、砲兵の巧みな運用と、部隊の機動力を最大限に発揮させて流動的な戦況を作り出し、その戦況の中から勝利を生み出すという点だった。

ムナールは、王制を倒すのだという熱意はあっても、武装も訓練も貧弱な革命軍を率い、その用兵によって、当初劣勢であった内戦を、革命軍の側の勝利へと導いた。


 卓越した指揮官であるのと同時に、歴戦の将校であるアントン将軍をして、「予想がつけられない」作戦を使いこなす、戦略家。


 帝国軍、そしてエドゥアルドはこれから、其のムナール将軍に率いられたアルエット共和国軍と、戦うことになる。


 相手にとって、不足はない。

 そう言えればよかったのだが、正直なところ、エドゥアルドには不安も大きかった。


 エドゥアルドは、今回が初陣なのだ。

 実質的な戦闘経験はあるものの、ノルトハーフェン公爵として軍勢を率い、そして他の諸侯の軍勢とも連携して戦った経験は、まだない。


 誰にだって、初めてはある。

 そうは言うものの、やはり、エドゥアルドは自身の両肩に、ずっしりとした重みが生まれるのを感じずにはいられなかった。


 帝国軍全体のことはともかく、少なくとも、従軍しているノルトハーフェン公国軍1万5千名の命運が、エドゥアルドの一言にかかっているのだ。


 しかも、そのエドゥアルドの初陣の相手が、この時代でもっとも強いかもしれない将軍なのだ。


(ヴィルヘルムに、もう少しムナール将軍のことを聞いておきたい)


 エドゥアルドはそう思い、アントンに「ご教授、感謝いたします。また、なにかと、ご指導、ご鞭撻をいただければと思います」と感謝を述べ、そして、渡河の準備がありますからと言って、軍議の席を後にした。


 皇帝の天幕は、皇帝の寝所を他の者が見下ろすような不敬があってはならないとい配慮によって、辺りではもっとも高所に位置している。

 だから、渡河をしようとしている諸侯の様子が、よく見える。


集結したタウゼント帝国軍は、その兵力において、相対することになるはずのアルエット共和国軍よりも優越している。

 それだけではなく、バ・メール王国軍が、友軍として存在し、すでに共和国軍の一部を破り、前進を続けている。


 明らかに、有利な状況。

 渡河の準備を進める諸侯は、誰も戦勝を疑わず、その戦勝の中で少しでも多くの手柄をあげようと、意気盛んだった。


 彼らほどではないものの、アントンの話を聞く前まで、エドゥアルドも高揚(こうよう)したような気持だった。

 そして、そんなエドゥアルドの悩みと言えば、おそらくは勝利の中で埋没しかねないノルトハーフェン公国軍の働きをいかに諸侯に印象づけ、帝国の貴族社会の中にいかにしてエドゥアルドという存在をアピールするか、ということだった。


 しかし、今のエドゥアルドは、冷めている。

 無邪気に、帝国軍の勝利を信じることができなくなってしまったからだ。


 確かに、帝国軍は共和国軍に対して優位に立っている。

 その大兵力と、そしてバ・メール王国軍の助力を持ってすれば、勝利はたやすいように思える。


 しかし、雄大なグロースフルスの流れの向こう側、1歩帝国領から出たその先は、十分な補給の保証のない、そして予想できない作戦をとる敵将が待ちかまえている場所なのだ。


「さて、エドゥアルド殿。


 この戦、どうなるのであろうかのぅ? 」


 エドゥアルドと一緒に軍議の場を後にしたオストヴィーゼ公爵・クラウスも、エドゥアルドと同じように、前途に不安を抱いている様子だった。

 エドゥアルドの少し前をゆっくりと杖を突きながら歩いていたクラウスからの問いかけに、エドゥアルドは少し考えてから、短い言葉で答える。


「僕には、まだ、なにも。


 しかし、他の諸侯のように、楽観的な気分にはなれません」

「ふむ。ま、あんな話を聞いた後じゃからの。

 ワシも、ちと、気分が重くなったわい」


 エドゥアルドは、「負ける」とは言わなかった。

 しかし、本心では、その可能性もあるのではと、深刻に危惧(きぐ)していた。


 クラウスには、陣中であることをおもんばかって言葉を濁(にご)したエドゥアルドの、その本心がわかったのだろう。

 彼はエドゥアルドの言葉に対し、理解したふうをよそおうことで、自分自身も戦況の先行きに不安を抱いているということを伝えてくる。


 回りくどい物言いだったが、2人の間での会話だとはいえ、どこで誰が耳にしているかもわからない。

 自身の一挙手一投足、たった一言にさえ、気を使わなければならないのが、公爵という存在だった。


「まぁ、そう深刻に考えることもなかろうよ。

 エドゥアルド殿、貴殿はまずは、ご自分のことに集中なされよ。


 ワシはな、正直、軍議の席での貴殿の行いに、感心しておったのじゃ。

 他の諸侯に対し、イチイチ立ち上がって挨拶するなど、普通の公爵はせぬことじゃからの。


 殊勝な態度、と思ったわけではないぞ?

 貴殿は、若輩者ゆえ、まずは他の諸侯の心象をよくしておこうと思ったのであろう? 」

「その……、はい。

 恐縮ですが、おっしゃる通りです。


 それと、僕だけの考えではございません」

「どうせ、あのヴィルヘルムとかいう知恵者の入れ知恵であろうの?


 だとしても、それを受け入れて、実行に移したのは貴殿じゃ。

 それは、なかなかできることではあるまい。


 人に頭を下げるというのは、存外、気分が良くないものじゃ。

 ましてや、ワシらのように、公爵なんぞという大層な肩書を持っておる者は、な。


 しかし、貴殿はそれを行った。

 それが正しいこと、自分自身や、自国のためにプラスになると思ってしたのじゃろう?


 ワシは、エドゥアルド殿のことを、これでもかっておるのじゃ。

 ユリウスにも見習わせたいと思うほどには、な。


 ワシ自身、すっかり、貴殿には出し抜かれたしの? 」

「それは……、結局は、クラウス殿のご助力がなければ、今日のような良い結果は得られなかったことですし、ヴィルヘルムやエーアリヒ準伯爵のお力添えあってのことです。

おほめにあずかることでは……」


 最終的に盟友関係になったとはいえ、策略によってクラウスを捕らえたことのあるエドゥアルドは、少しバツの悪そうな顔をする。


「ほっほ。

 エドゥアルド殿は、謙虚じゃのう」


 すると、クラウスは愉快そうに笑い、そして、立ち止まっていた足を再び前へと進める。

 その後に、エドゥアルドも続いた。


 こうして、多くの者は熱狂し、一部の者たちは不安をいだいたまま、タウゼント帝国によるアルエット共和国侵攻は始まった。

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