第62話:「渡河:1」

 帝国軍にとって、グロースフルスを渡河すること自体は、すでに既定の路線だった。

 だが、予定では、明日、夜が明けてから本格的な渡河の準備を開始し、それが整えばまずは対岸の地域を確保するための先遣隊を送り出す、ということになっていた。

 帝国軍の主力が渡河を開始するのは、明後日以降になるはずだった。


 だが、状況は大きく変わった。

 カール11世の決断により、ただちにグロースフルスを渡河すると決めたために、帝国軍は予定を切り上げて渡河を開始することになったのだ。


 軍隊に河を渡らせる。

 それは、多くの準備と時間が必要で、実行に様々な困難が伴うことだった。


 なにより、グロースフルスは大きな河だ。

 上流側の比較的その幅が狭くなっているところを選んで帝国軍は終結し、渡河を実施しようとしていたが、それでもグロースフルスは100メートルを超える幅を持っている。

 加えて、その水深は深く、馬であっても通過することができないほどだった。


 個人が河を渡るだけであれば、小舟で行くか、最悪、泳いでいけばいい。

 だが、衣服だけではなく武装を、なにより大量の火薬をぬらさずに対岸へ送り込むのに、そんな方法は使っていられない。


 帝国軍はグロースフルスを超えるために、即席の橋を架けた。

 浮橋と呼ばれる、橋脚を持たないタイプの橋だ。


 浮橋は、その名の通り水面に浮かぶ橋だった。

 その原理は簡単なもので、いくつもの小舟を河岸のこちら側から対岸まで並べ、その上に通行するための板を渡して通路とする。

 簡単には橋脚を立てられない水深の深い場所を通過するために、古くから用いられている方法だった。


 ヴェストヘルゼン公爵、ベネディクトが「すでに準備を進めている」と言っていた通り、浮橋を作るための準備はほとんど終わっていた。

 付近の領民たちから使えそうな小舟を徴収し、木々を伐採して板を作って通路とするための板を十分な数、用意してあった。

 それだけではなく、河の流れの緩い場所を事前に調べてあり、あとはそこに浮橋を架けるだけ、という状況だった。


 もっとも、いきなり渡河することが決まって、そのための作業を始めなければならなくなった兵士たちは、たまったものではなかっただろう。

 長い行軍を終えてようやく到着し、せっかく設営した野営地で今晩はゆっくりと休めると思っていたのに、夜通しで渡河の準備をしなければならなくなったからだ。


 軍議を終えた諸侯たちは、先を争うようにグロースフルスを渡河しようとしていた。

 河岸には無数のかがり火が焚(た)かれ、作業用の小舟が出されて、浮橋を作る作業が始められている。

 中には、先を急ぐあまり、余剰の小舟を使い、対岸まで兵士や物資をピストン輸送しようとする諸侯まであらわれていた。


 だが、エドゥアルドは、落ち着いていた。

 彼は軍議が決し、諸侯が次々とその場を離れ、また、皇帝が侍従に導かれて出て行ってしまった後も、軍議の席にそのまま残って考え込んでいた。


「エドゥアルド殿。

 貴殿は、渡河の準備を急がなくてよろしいのか? 」


 そのエドゥアルドの隣で、エドゥアルドと同じように軍議の席に残り、ゆったりとくつろいでいたクラウスが、少しも焦っていない様子でそう言った。


「僕の方は、ヴィルヘルムに準備を進めるように任せておりますので、ご心配なく。


 それより、クラウス殿こそ、お急ぎになられなくてよろしいのですか? 」

「こちらも、ユリウスに準備をさせておるでな」


 軍議の間、エドゥアルドとクラウスの背後にいたヴィルヘルムとユリウスは、すでに姿がない。

 どちらも、渡河の準備をそれぞれの軍にすすめさせるために、その野営地へと帰還しているからだ。


「それに、エドゥアルド殿。

 貴殿が、この場に残っておられる理由の方が、気になっての。


 ここにはもう、他の諸侯も、皇帝陛下もおられぬのじゃ。

 なにゆえ、貴殿はここに残っておる? 」


 クラウスはそっと顔をエドゥアルドに近づけると、探るような視線で、どこか楽しんでいるような口調でそう耳打ちしてくる。


「少し……、気になることがありまして」


 そう言ってうなずくエドゥアルドの視線の先にいるのは、アントンだった。


 軍議の席では結局、その考えを十分に表明することのできなかったアントンは、その場に残って地図を睨みつけるように見つめながら、忙しそうに部下の将校たちに次々と指示を下していた。


「アントン殿。


 少し、お時間をいただけないだろうか? 」


 そして、アントンが必要な指示を出し終えたタイミングを見計らって、エドゥアルドはそう声をかける。

 するとアントンはそこで初めて、まだこの場にエドゥアルドとクラウスが残っていたことに気づき、少し驚いたような表情を浮かべた。


「これは、ノルトハーフェン公爵に、オストヴィーゼ公爵。

 この場におられても、よろしいのですか? 」

「かまわないのです。

 どうせ、僕は若輩者で、渡河する順番はすぐには回ってこないでしょうから。

 それに、この調子で進んでも、渡河が始まるのは夜が明けてからになるでしょう」

「ワシは、ちと、腰が痛くてのぅ。

 休んでおったのじゃ」


 エドゥアルドとクラウスがここに残っている理由が思い当たらないといった様子のアントンに、2人はそう言う。


「それに、アントン殿。


 僕は、ぜひ、貴官の真意をおうかがいしておきたかったのだ」


 そしてエドゥアルドは、アントンのことを真っ直ぐに見すえながら、そう言って本題を切り出していた。

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